「余計なことはするな」と夫が言うので、余計なことは一切しないことにしました
「余計なことはするな」
夫の声が、執務室に響いた。
机の上には、一通の手紙が置かれている。
私が三日前、夫の名で商会へ送った詫び状。その控えだった。
「俺の名前で、勝手に頭を下げたそうだな」
「はい」
「誰が許可した」
「取引先への書簡は、私に一任してくださっていたはずですが」
「発注書や受領書の話だ! 詫び状まで書けとは言っていない!」
夫は手紙をつかみ、私の前に突き出した。
「しかも、これを見ろ。『先日の書簡における非礼を、深くお詫び申し上げます』だと? 俺が何を詫びる必要がある!」
私は、その手紙を見つめた。
先日、夫は長年の取引先に、仕入れ値の引き下げを要求する手紙を送った。
相手の商売を軽んじる、ひどく無礼な文面だった。
書き直しを勧めたけれど、夫は聞かなかった。
案の定、商会から取引の継続を再検討するという返事が届いた。
私が詫び状を送ったことで、どうにか次の契約更新までは取引を続けてもらえることになった。
それで十分だと思っていた。
少なくとも、次の更新までは。
「聞いているのか!」
夫の声に、顔を上げる。
「はい」
「俺は謝罪など必要ないと言っているんだ!」
「ですが、あのままでは取引が――」
「だから、それが余計だと言っている!」
夫は机を叩いた。
「お前はいつもそうだ。使用人の仕事に口を出し、客人の予定を勝手に調整し、頼んでもいない手紙まで書く。俺が知らないところで、何もかも取り仕切ったつもりになっている!」
私は黙って聞いていた。
使用人の勤務を調整するのは、急な休みが出ても屋敷が困らないようにするためだった。
客人の予定を整えるのは、夫が約束を忘れて恥をかかないようにするためだった。
手紙を書くのは、夫が仕事に集中できるようにするためだった。
けれど、夫には必要のないことだったらしい。
「いいか。今後は、俺が命じたことだけをしろ。勝手な判断は一切するな」
「……承知いたしました」
「本当に分かったのか?」
「はい。今後、余計なことは一切いたしません」
夫はようやく満足したように椅子へ腰を下ろした。
「最初からそうしていればいいんだ」
私は一礼し、執務室を出た。
廊下を歩きながら、ふと考えた。
明日の朝、使用人の勤務表を確認する必要はない。
来週の夜会に向けて、招待客の好みを調べる必要もない。
商会への次の手紙にも、季節の挨拶を添える必要はない。
どれも、夫から命じられたことではなかった。
そう考えると、不思議だった。
今まで当たり前のように抱えていた仕事が、一つ、また一つと消えていく。
廊下の窓から、庭が見えた。
楓の葉が、赤く色づいている。
こんなに綺麗だったかしら。
季節の話は、いつも庭師から聞いたことを書いていた。
自分で庭を眺める時間など、ほとんどなかったから。
私はしばらく楓を見つめ、それから自分の部屋へ戻った。
机の上には、書きかけの手紙が一通あった。
商会への、いつもの発注書だった。
私は椅子に座り、必要な品目と数量だけを記した。
いつもなら最後に、季節の挨拶を一文添える。
今年は庭の楓が、例年より早く色づき始めました。
そんな、取引とは何の関係もない一文を。
けれど、今日は書かなかった。
発注書を封筒に収め、封をする。
それだけで、仕事は終わった。
午後の日差しは、まだ暖かかった。
私は、もう一度庭の楓を思い浮かべた。
今日は、少し庭を歩いてみようかしら。
◇
夫は、たいそう機嫌がよかった。
「最近のお前は、ようやく妻らしくなったな」
夕食の席で、夫が満足そうに言った。
あの日から、五日が過ぎていた。
「ありがとうございます」
「以前は何かにつけて口を出してきたが、今は静かでいい。屋敷のことは、俺が判断すれば済む話だからな」
「はい」
私はスープを口に運んだ。
温かくて、おいしかった。
以前なら、夕食の間にも翌日の予定を確認し、使用人の配置や来客への対応を考えていた。
けれど、今は違う。
食事をしている間は、食事だけをしていればいい。
夫は満足そうにワインを飲んだ。
翌朝。
夫の朝食が、いつもより三十分遅れた。
「どういうことだ!」
食堂に響いた声を聞きながら、私は紅茶を飲んでいた。
執事が深々と頭を下げる。
「申し訳ございません。料理人の一人が急病で休みまして」
「それなら代わりを入れればいいだろう!」
「はい。ただ、代わりの者をどこから回すか、奥様にお伺いしようとしたところ……」
執事が私を見た。
「私は、旦那様にお伺いするよう申し上げました」
「なぜ俺に聞く!」
「旦那様が、屋敷のことはご自身で判断なさると仰いましたので」
夫は顔をしかめた。
「そんな細かいことまで俺に聞く必要があるのか!」
執事は困ったように黙り込んだ。
私は紅茶を一口飲んだ。
以前なら、料理人が休むと分かった時点で、厨房と相談して代わりの者を手配していた。
けれど、それは私が勝手にしていたことだった。
「……料理長に任せろ!」
夫はそう言って、食堂を出ていった。
その日の午後、執事が私の部屋を訪ねてきた。
「奥様。明後日の来客について、旦那様に確認したいことがございます」
「旦那様にお伺いください」
「ですが、旦那様はお忙しいと……」
「では、お手すきのときに」
執事はしばらく迷っていたが、やがて一礼して出ていった。
翌々日、夫が夜会で口約束していた客人が、別の来客と同じ時刻に訪れた。
夫は一方を応接間に通し、もう一方を一時間近く待たせることになったらしい。
夕食の席で、その話を聞いた。
「まったく、執事も気が利かん」
夫は不機嫌そうに肉を切った。
「以前はこんなことなどなかったのに」
「そうですね」
「……お前、何か言いたいことがあるのか?」
「いいえ」
私は首を横に振った。
本当に、何も言うことはなかった。
それから数日が過ぎた。
夫は屋敷のあちこちで不満を口にするようになった。
けれど、私の毎日は穏やかだった。
朝食をゆっくり食べられる。
読みかけの本を最後まで読める。
そして午後には、庭を歩く時間ができた。
「奥様、こちらの薔薇をご覧ください」
庭師が、花壇の前で足を止めた。
「まあ。まだ咲いているのね」
「今年は暖かい日が続きましたから。ですが、そろそろ最後でしょう」
淡い桃色の薔薇が、秋の風に揺れていた。
「いつも、季節のことを教えてくれてありがとう」
私が言うと、庭師は少し驚いた顔をした。
「いえ。奥様は毎年、庭の様子をお尋ねくださいますから」
「ええ。でも、こうして自分で見るのは久しぶりなの」
私は薔薇に顔を近づけた。
ほのかに甘い香りがした。
「……いい香りね」
「ええ。朝方は、もっと香るんですよ」
「そうなの?」
「はい。明日の朝、よろしければ」
「ええ。来てみるわ」
そう答えてから、私は少し笑った。
明日の朝も、庭に来られる。
誰かの予定を調整する必要もない。
誰かの機嫌を気にする必要もない。
ただ、薔薇の香りを楽しみにしていればいい。
部屋へ戻ると、机の引き出しを整理した。
長い間、開けていなかった小箱があった。
中には、結婚したときに持ってきた書類が収められている。
持参金の目録。
実家から譲られた宝飾品の一覧。
そして、婚姻の際に交わした取り決め。
私は一枚ずつ目を通した。
こんなものも、持ってきていたのね。
昔の自分が選んだ宝飾品の名前を見て、少し懐かしくなった。
最後の一枚を箱に戻し、蓋を閉じる。
今すぐ何かに使うつもりはなかった。
ただ、自分のものが何だったのか、久しぶりに確かめたかった。
その日の夕方、商会から手紙が届いた。
先日送った発注書への受領書だった。
数量も納期も、いつもどおり。
私は内容を確認し、書類を揃えた。
そのとき、末尾の一文が目に留まった。
『こちらでは、朝夕の風が冷たくなってまいりました。そちらの庭の楓も、そろそろ見頃でしょうか』
私は、しばらくその文字を見つめた。
いつも、こうして季節の話が返ってきていた。
こちらが春の花を書けば、向こうは春の雨のことを。
夏の暑さを書けば、涼しい朝のことを。
何年も続いていた、短いやり取りだった。
私は便箋を取り出しかけて、手を止めた。
これは、受領書だった。
返事を求める内容ではない。
それに、季節の話など、取引には必要のないことだ。
私は手紙を丁寧に畳み、引き出しにしまった。
返事は、書かなかった。
◇
屋敷の中だけで済んでいた問題が、外へ広がり始めたのは、それから間もなくのことだった。
最初は、夜会だった。
「まったく、恥をかかされた!」
帰宅した夫は、外套を脱ぐなり吐き捨てた。
いつもなら、夜会の前には招待客の顔ぶれを調べ、夫が誰に挨拶すべきか、誰と話をつけておくべきかを整理していた。
けれど、今回は何もしなかった。
「伯爵が来ていると知らなかったぞ! あの方には先に挨拶しておくべきだったのに!」
「そうでしたか」
「しかも、子爵からは先月の約束について聞かれた。俺は何も知らされていない!」
先月の約束。
確か、領地の視察に関する話だったはずだ。
以前なら、夫の予定表に書き込み、前日には念を押していた。
けれど、それも余計なことだった。
「次からは、きちんと知らせろ!」
「承知いたしました」
夫は苛立たしげに手を振り、部屋を出ていった。
私はそれ以上、何も言わなかった。
数日後、長年取引のある商会の女当主が屋敷を訪れた。
次の契約更新について、最終的な確認をしたいという。
夫は執務室に彼女を通し、私を呼んだ。
「茶を出せ」
「承知いたしました」
私は二人分の茶を用意し、執務室へ運んだ。
女当主は五十代ほどの、落ち着いた雰囲気の女性だった。
何年も手紙を交わしてきた相手なのに、こうして顔を合わせるのは初めてだった。
「奥様でいらっしゃいますね」
「はい」
「いつもお世話になっております」
「こちらこそ」
女当主は、私の顔をしばらく見つめた。
それから、小さく微笑んだ。
「……そうでしたか」
何のことか分からなかったけれど、私は一礼して茶を置いた。
「それで、契約の件だが」
夫が話を始めた。
「次も従来どおりの数量で頼む。価格については、前に伝えたとおりだ」
女当主は静かに答えた。
「その条件では、お引き受けできません」
「何?」
「先日の書簡でもお伝えしましたが、価格の引き下げには応じかねます」
「だが、長年の付き合いだろう!」
「だからこそ、本日お伺いしたのです」
女当主は夫をまっすぐ見た。
「以前いただいたお詫びの書簡を拝読し、今後もお付き合いできるものと考えておりました。ですが、条件についてのお考えは変わらないのでしょうか」
夫の顔が険しくなった。
「詫びの書簡だと?」
「はい」
「あれは妻が勝手に送ったものだ。俺の本意ではない」
女当主は、わずかに目を伏せた。
「――では、あの書簡が旦那様のお気持ちではなかったのですね。承知いたしました」
彼女は持参した書類を閉じた。
「それでは、次回の契約更新は見送らせていただきます」
「待て! そんな話があるか!」
「現在の契約につきましては、満了日まで責任を持って履行いたします」
女当主は立ち上がった。
「長い間、お世話になりました」
夫は何か言いかけたが、言葉にならなかった。
私は女当主を玄関まで見送った。
扉の前で、彼女が振り返った。
「奥様」
「はい」
「本日のお茶、とてもおいしゅうございました」
「ありがとうございます」
女当主はそれだけ言って、馬車に乗った。
私は、遠ざかる馬車を見送った。
夫が長年続けてきた取引が、一つ終わった。
何かをするよう、命じられてはいなかった。
翌日の午後。
執事が、一通の手紙を持ってきた。
「奥様宛てでございます」
「私に?」
「はい。商会のご当主様からです」
封筒には、夫の名ではなく、私の名前が記されていた。
自分宛ての手紙を受け取るのは、ずいぶん久しぶりだった。
封を切ると、丁寧な文字が並んでいた。
いつもの受領書とは、筆跡が違う。
『昨日は、お目にかかれて光栄でした。
突然のお申し出で恐縮ですが、もしよろしければ、一度ゆっくりお話をさせていただけませんでしょうか。
お仕事について、ご相談したいことがございます』
私は何度も読み返した。
仕事について。
私に、相談したいことがあるという。
夫の妻としてではなく。
私自身に。
机に向かい、便箋を取り出した。
今度は、夫の名前を書く必要がなかった。
私は、自分の名前を記した。
『お手紙をありがとうございます。ぜひ、お話を伺わせてください』
短い返事だった。
けれど、何度読み返しても、書き直したいところはなかった。
私は封筒に手紙を収めた。
そして、初めて自分の名前で書いた返事を、商会へ送った。
◇
商会との契約が終わるまで、あとひと月。
夫は、まだ何とかなると思っていたらしい。
「向こうも商売だ。こちらほどの取引先を失えば、困るに決まっている」
そう言っていたのは、最初の数日だけだった。
それから夫は、別の商会へ何通も手紙を送った。
けれど、返事は芳しくなかった。
「どこも高すぎる! これでは利益が出ん!」
執務室から怒鳴り声が聞こえるようになった。
ある日の午後、私は夫に呼ばれた。
「詫び状を書け」
机の上には、見覚えのある手紙が置かれていた。
あの日、夫が私に突きつけた詫び状の控えだった。
「先方に送る。今すぐ書け」
「承知いたしました」
私は机の前に立った。
「何とお書きすればよいか、ご指示ください」
夫は顔を上げた。
「……何?」
「お詫びする内容をご指示いただければ、そのとおりにお書きいたします」
「そんなことまで聞くのか!」
「はい」
夫は口を開きかけ、閉じた。
机の上の控えに目を落とす。
『先日の書簡における非礼を、深くお詫び申し上げます』
あの日、夫が怒鳴りながら読み上げた一文だった。
「……とにかく、取引を続けてもらえるように書け」
「どのような理由で、再考をお願いすればよろしいでしょうか」
「それは……」
夫は眉間に皺を寄せた。
しばらく待ったけれど、返事はなかった。
「もういい!」
夫は私の前から便箋を取り上げた。
「俺が書く!」
「承知いたしました」
私は一礼し、執務室を出た。
翌朝、夫は自分で書いた手紙を商会へ送った。
封をする前、私に清書の確認を命じたので、文面を読むことができた。
『先日の件につきましては、双方の認識に多少の行き違いがあったものと考えております。
長年の取引関係を踏まえ、互いの利益のためにも、契約更新について再考いただきたく存じます』
謝罪の言葉は、一つもなかった。
私は誤字がないことだけを確認し、手紙を返した。
それ以上は、何も言わなかった。
数日後、商会から返事が届いた。
夫は私を執務室に呼びつけた。
「読め」
「はい」
私は封筒から手紙を取り出した。
『先日のお手紙を拝読いたしました。
以前いただいた書簡とは、ずいぶんお考えが異なるようです。
誠に残念ではございますが、契約不更新の判断に変更はございません』
読み終えると、夫は手紙を奪うように受け取った。
何度も目を走らせる。
「……なぜだ」
小さな声だった。
「長年、取引を続けてきたというのに……」
夫は机に手紙を置いた。
その隣には、以前の詫び状の控えがあった。
夫は二通の手紙を見比べた。
そして、詫び状の控えを手に取った。
長いあいだ、何も言わなかった。
私は黙って立っていた。
やがて、夫が口を開いた。
「……お前は、いつもこういう手紙を書いていたのか」
「はい。必要だと思ったときには」
「俺が知らないところで?」
「はい」
夫は再び控えに目を落とした。
それきり、何も言わなかった。
私は、夫の次の指示を待った。
けれど、いつまで経っても何も言われなかったので、静かに尋ねた。
「ほかに、ご用はございますか」
夫は首を横に振った。
「……いや」
「それでは、失礼いたします」
私は一礼し、執務室を出た。
廊下には、午後の静けさが広がっていた。
自分の部屋に戻ると、机の上に一通の手紙が置かれていた。
先日、商会の女当主へ送った返事に対する、返信だった。
『お返事をありがとうございます。
所用で王都を離れておりまして、お返事が遅くなりましたこと、お詫び申し上げます。
来週、当商会にてお目にかかれますことを、楽しみにしております』
私はその一文を、もう一度読んだ。
そして、手紙を丁寧に畳んだ。
来週。
私は、私自身の用事で、誰かに会いに行く。
そう思うと、少しだけ胸が弾んだ。
◇
商会を訪ねる前の夜。
私は、机の引き出しから小箱を取り出した。
中には、結婚したときに持ってきた書類が収められている。
持参金の目録。
宝飾品の一覧。
そして、婚姻の際に交わした取り決め。
以前、この箱を開いたときは、ただ懐かしかった。
けれど、今夜は違った。
私は取り決めの書類を広げた。
妻の申し立てにより、離縁ができること。
その際、持参金と婚姻前から所有していた財産は、私に返還されること。
そう記されていた。
婚姻の際、父が念のためにと加えさせた条項だった。
何度も読み返した。
結婚したときは、使うことなど考えもしなかった一文だった。
私は新しい便箋を取り出した。
そして、夫に宛てて書き始めた。
『離縁を希望いたします』
理由は、長々と書かなかった。
ただ、これ以上夫婦として暮らし続ける意思がないこと。
持参金については、婚姻時の取り決めに従って返還を求めること。
その二点だけを記した。
最後に、自分の名前を書いた。
書き終えても、手は震えなかった。
私は便箋を封筒に収め、机の上に置いた。
翌朝。
夫が朝食を終えるのを待って、手紙を差し出した。
「何だ、これは」
「お読みください」
夫は封を切った。
最初の一行を読んだところで、顔を上げた。
「……離縁?」
「はい」
「何を言っている!」
夫は椅子から立ち上がった。
「今さら、そんなことが許されると思っているのか!」
「婚姻の際の取り決めに、離縁についての定めがございます」
「書類の話をしているんじゃない!」
夫は手紙を握りしめた。
「なぜ、突然こんなことを言い出す!」
私は少し考えた。
突然だったのだろうか。
夫にとっては、そうなのかもしれない。
「もう、ここで暮らしたいと思わなくなったからです」
夫は言葉を失った。
しばらくして、低い声で尋ねた。
「……どこへ行くつもりだ」
「商会のご当主様から、お仕事についてお話をいただいております」
「仕事?」
「はい。今日、お会いする約束をしております」
「俺に黙って、そんな話を進めていたのか!」
「私個人へのお申し出でしたので」
夫は何か言いかけた。
けれど、口を閉じた。
やがて、椅子に腰を下ろした。
「……待ってくれ」
初めて聞くような声だった。
「俺が悪かった」
私は黙っていた。
「お前が、あれほど屋敷のことをしていたとは知らなかった。取引先とのことも……」
夫は顔を伏せた。
「頼む。戻ってきてくれ」
戻る。
その言葉が、少し不思議だった。
私はまだ、この屋敷にいるのに。
夫が求めているのは、きっと以前の私なのだろう。
「もう、何をしても構わない。好きなようにしていい。だから、もう一度、俺を支えてくれ」
私は夫を見つめた。
以前なら、その言葉を待ち望んでいたのかもしれない。
けれど、今は違う。
私には、読みたい本がある。
自分の目で見てみたい季節がある。
そして、これから何をするか、自分で決められる。
「――それは、余計なことですので」
夫は顔を上げた。
私は一礼した。
それが、夫に向けた最後の挨拶になった。
◇
離縁が成立したのは、初雪の少し前だった。
そして今日、私は商会での初出勤を迎えた。
「ようこそ、おいでくださいました」
女当主が、穏やかに迎えてくれた。
「本日から、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。お待ちしておりました」
彼女は私に、契約書を差し出した。
取引先との書簡を担当する、という職務が記されている。
「では、こちらにお名前を」
私はペンを取った。
契約書の末尾に、自分の名前を書いた。
結婚する前の、私の名前。
誰かの代理ではない。
私自身の署名だった。
「ありがとうございます。では、担当の者をご紹介しましょう」
女当主が扉に目を向けた。
入ってきたのは、三十代ほどの青年だった。
穏やかな目をした、背の高い人だった。
「息子です」
女当主は、署名したばかりの契約書を青年に手渡した。
青年はそれに目を落とし、それから私を見て、微笑んだ。
「お庭の楓は、もう見頃を過ぎたでしょうか」
その言葉に、胸が小さく跳ねた。
あの受領書の末尾にあった、私が返事を書かなかった問い。
私は、ようやく気づいた。
何年も季節の便りを返してくれていたのは、この人だったのだ。
「……庭の楓は、もう散ってしまいました」
青年は、少し驚いた顔をした。
それから、嬉しそうに笑った。
「ようやく、お会いできました。アデル・ヴァレーヌ様」
私は微笑み返した。
私の名前で書いた手紙に、返事をくれる人がいる。




