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「余計なことはするな」と夫が言うので、余計なことは一切しないことにしました

掲載日:2026/10/25

「余計なことはするな」


夫の声が、執務室に響いた。


机の上には、一通の手紙が置かれている。


私が三日前、夫の名で商会へ送った詫び状。その控えだった。


「俺の名前で、勝手に頭を下げたそうだな」


「はい」


「誰が許可した」


「取引先への書簡は、私に一任してくださっていたはずですが」


「発注書や受領書の話だ! 詫び状まで書けとは言っていない!」


夫は手紙をつかみ、私の前に突き出した。


「しかも、これを見ろ。『先日の書簡における非礼を、深くお詫び申し上げます』だと? 俺が何を詫びる必要がある!」


私は、その手紙を見つめた。


先日、夫は長年の取引先に、仕入れ値の引き下げを要求する手紙を送った。


相手の商売を軽んじる、ひどく無礼な文面だった。


書き直しを勧めたけれど、夫は聞かなかった。


案の定、商会から取引の継続を再検討するという返事が届いた。


私が詫び状を送ったことで、どうにか次の契約更新までは取引を続けてもらえることになった。


それで十分だと思っていた。


少なくとも、次の更新までは。


「聞いているのか!」


夫の声に、顔を上げる。


「はい」


「俺は謝罪など必要ないと言っているんだ!」


「ですが、あのままでは取引が――」


「だから、それが余計だと言っている!」


夫は机を叩いた。


「お前はいつもそうだ。使用人の仕事に口を出し、客人の予定を勝手に調整し、頼んでもいない手紙まで書く。俺が知らないところで、何もかも取り仕切ったつもりになっている!」


私は黙って聞いていた。


使用人の勤務を調整するのは、急な休みが出ても屋敷が困らないようにするためだった。


客人の予定を整えるのは、夫が約束を忘れて恥をかかないようにするためだった。


手紙を書くのは、夫が仕事に集中できるようにするためだった。


けれど、夫には必要のないことだったらしい。


「いいか。今後は、俺が命じたことだけをしろ。勝手な判断は一切するな」


「……承知いたしました」


「本当に分かったのか?」


「はい。今後、余計なことは一切いたしません」


夫はようやく満足したように椅子へ腰を下ろした。


「最初からそうしていればいいんだ」


私は一礼し、執務室を出た。


廊下を歩きながら、ふと考えた。


明日の朝、使用人の勤務表を確認する必要はない。


来週の夜会に向けて、招待客の好みを調べる必要もない。


商会への次の手紙にも、季節の挨拶を添える必要はない。


どれも、夫から命じられたことではなかった。


そう考えると、不思議だった。


今まで当たり前のように抱えていた仕事が、一つ、また一つと消えていく。


廊下の窓から、庭が見えた。


楓の葉が、赤く色づいている。


こんなに綺麗だったかしら。


季節の話は、いつも庭師から聞いたことを書いていた。


自分で庭を眺める時間など、ほとんどなかったから。


私はしばらく楓を見つめ、それから自分の部屋へ戻った。


机の上には、書きかけの手紙が一通あった。


商会への、いつもの発注書だった。


私は椅子に座り、必要な品目と数量だけを記した。


いつもなら最後に、季節の挨拶を一文添える。


今年は庭の楓が、例年より早く色づき始めました。


そんな、取引とは何の関係もない一文を。


けれど、今日は書かなかった。


発注書を封筒に収め、封をする。


それだけで、仕事は終わった。


午後の日差しは、まだ暖かかった。


私は、もう一度庭の楓を思い浮かべた。


今日は、少し庭を歩いてみようかしら。


   ◇


夫は、たいそう機嫌がよかった。


「最近のお前は、ようやく妻らしくなったな」


夕食の席で、夫が満足そうに言った。


あの日から、五日が過ぎていた。


「ありがとうございます」


「以前は何かにつけて口を出してきたが、今は静かでいい。屋敷のことは、俺が判断すれば済む話だからな」


「はい」


私はスープを口に運んだ。


温かくて、おいしかった。


以前なら、夕食の間にも翌日の予定を確認し、使用人の配置や来客への対応を考えていた。


けれど、今は違う。


食事をしている間は、食事だけをしていればいい。


夫は満足そうにワインを飲んだ。


翌朝。


夫の朝食が、いつもより三十分遅れた。


「どういうことだ!」


食堂に響いた声を聞きながら、私は紅茶を飲んでいた。


執事が深々と頭を下げる。


「申し訳ございません。料理人の一人が急病で休みまして」


「それなら代わりを入れればいいだろう!」


「はい。ただ、代わりの者をどこから回すか、奥様にお伺いしようとしたところ……」


執事が私を見た。


「私は、旦那様にお伺いするよう申し上げました」


「なぜ俺に聞く!」


「旦那様が、屋敷のことはご自身で判断なさると仰いましたので」


夫は顔をしかめた。


「そんな細かいことまで俺に聞く必要があるのか!」


執事は困ったように黙り込んだ。


私は紅茶を一口飲んだ。


以前なら、料理人が休むと分かった時点で、厨房と相談して代わりの者を手配していた。


けれど、それは私が勝手にしていたことだった。


「……料理長に任せろ!」


夫はそう言って、食堂を出ていった。


その日の午後、執事が私の部屋を訪ねてきた。


「奥様。明後日の来客について、旦那様に確認したいことがございます」


「旦那様にお伺いください」


「ですが、旦那様はお忙しいと……」


「では、お手すきのときに」


執事はしばらく迷っていたが、やがて一礼して出ていった。


翌々日、夫が夜会で口約束していた客人が、別の来客と同じ時刻に訪れた。


夫は一方を応接間に通し、もう一方を一時間近く待たせることになったらしい。


夕食の席で、その話を聞いた。


「まったく、執事も気が利かん」


夫は不機嫌そうに肉を切った。


「以前はこんなことなどなかったのに」


「そうですね」


「……お前、何か言いたいことがあるのか?」


「いいえ」


私は首を横に振った。


本当に、何も言うことはなかった。


それから数日が過ぎた。


夫は屋敷のあちこちで不満を口にするようになった。


けれど、私の毎日は穏やかだった。


朝食をゆっくり食べられる。


読みかけの本を最後まで読める。


そして午後には、庭を歩く時間ができた。


「奥様、こちらの薔薇をご覧ください」


庭師が、花壇の前で足を止めた。


「まあ。まだ咲いているのね」


「今年は暖かい日が続きましたから。ですが、そろそろ最後でしょう」


淡い桃色の薔薇が、秋の風に揺れていた。


「いつも、季節のことを教えてくれてありがとう」


私が言うと、庭師は少し驚いた顔をした。


「いえ。奥様は毎年、庭の様子をお尋ねくださいますから」


「ええ。でも、こうして自分で見るのは久しぶりなの」


私は薔薇に顔を近づけた。


ほのかに甘い香りがした。


「……いい香りね」


「ええ。朝方は、もっと香るんですよ」


「そうなの?」


「はい。明日の朝、よろしければ」


「ええ。来てみるわ」


そう答えてから、私は少し笑った。


明日の朝も、庭に来られる。


誰かの予定を調整する必要もない。


誰かの機嫌を気にする必要もない。


ただ、薔薇の香りを楽しみにしていればいい。


部屋へ戻ると、机の引き出しを整理した。


長い間、開けていなかった小箱があった。


中には、結婚したときに持ってきた書類が収められている。


持参金の目録。


実家から譲られた宝飾品の一覧。


そして、婚姻の際に交わした取り決め。


私は一枚ずつ目を通した。


こんなものも、持ってきていたのね。


昔の自分が選んだ宝飾品の名前を見て、少し懐かしくなった。


最後の一枚を箱に戻し、蓋を閉じる。


今すぐ何かに使うつもりはなかった。


ただ、自分のものが何だったのか、久しぶりに確かめたかった。


その日の夕方、商会から手紙が届いた。


先日送った発注書への受領書だった。


数量も納期も、いつもどおり。


私は内容を確認し、書類を揃えた。


そのとき、末尾の一文が目に留まった。


『こちらでは、朝夕の風が冷たくなってまいりました。そちらの庭の楓も、そろそろ見頃でしょうか』


私は、しばらくその文字を見つめた。


いつも、こうして季節の話が返ってきていた。


こちらが春の花を書けば、向こうは春の雨のことを。


夏の暑さを書けば、涼しい朝のことを。


何年も続いていた、短いやり取りだった。


私は便箋を取り出しかけて、手を止めた。


これは、受領書だった。


返事を求める内容ではない。


それに、季節の話など、取引には必要のないことだ。


私は手紙を丁寧に畳み、引き出しにしまった。


返事は、書かなかった。


   ◇


屋敷の中だけで済んでいた問題が、外へ広がり始めたのは、それから間もなくのことだった。


最初は、夜会だった。


「まったく、恥をかかされた!」


帰宅した夫は、外套を脱ぐなり吐き捨てた。


いつもなら、夜会の前には招待客の顔ぶれを調べ、夫が誰に挨拶すべきか、誰と話をつけておくべきかを整理していた。


けれど、今回は何もしなかった。


「伯爵が来ていると知らなかったぞ! あの方には先に挨拶しておくべきだったのに!」


「そうでしたか」


「しかも、子爵からは先月の約束について聞かれた。俺は何も知らされていない!」


先月の約束。


確か、領地の視察に関する話だったはずだ。


以前なら、夫の予定表に書き込み、前日には念を押していた。


けれど、それも余計なことだった。


「次からは、きちんと知らせろ!」


「承知いたしました」


夫は苛立たしげに手を振り、部屋を出ていった。


私はそれ以上、何も言わなかった。


数日後、長年取引のある商会の女当主が屋敷を訪れた。


次の契約更新について、最終的な確認をしたいという。


夫は執務室に彼女を通し、私を呼んだ。


「茶を出せ」


「承知いたしました」


私は二人分の茶を用意し、執務室へ運んだ。


女当主は五十代ほどの、落ち着いた雰囲気の女性だった。


何年も手紙を交わしてきた相手なのに、こうして顔を合わせるのは初めてだった。


「奥様でいらっしゃいますね」


「はい」


「いつもお世話になっております」


「こちらこそ」


女当主は、私の顔をしばらく見つめた。


それから、小さく微笑んだ。


「……そうでしたか」


何のことか分からなかったけれど、私は一礼して茶を置いた。


「それで、契約の件だが」


夫が話を始めた。


「次も従来どおりの数量で頼む。価格については、前に伝えたとおりだ」


女当主は静かに答えた。


「その条件では、お引き受けできません」


「何?」


「先日の書簡でもお伝えしましたが、価格の引き下げには応じかねます」


「だが、長年の付き合いだろう!」


「だからこそ、本日お伺いしたのです」


女当主は夫をまっすぐ見た。


「以前いただいたお詫びの書簡を拝読し、今後もお付き合いできるものと考えておりました。ですが、条件についてのお考えは変わらないのでしょうか」


夫の顔が険しくなった。


「詫びの書簡だと?」


「はい」


「あれは妻が勝手に送ったものだ。俺の本意ではない」


女当主は、わずかに目を伏せた。


「――では、あの書簡が旦那様のお気持ちではなかったのですね。承知いたしました」


彼女は持参した書類を閉じた。


「それでは、次回の契約更新は見送らせていただきます」


「待て! そんな話があるか!」


「現在の契約につきましては、満了日まで責任を持って履行いたします」


女当主は立ち上がった。


「長い間、お世話になりました」


夫は何か言いかけたが、言葉にならなかった。


私は女当主を玄関まで見送った。


扉の前で、彼女が振り返った。


「奥様」


「はい」


「本日のお茶、とてもおいしゅうございました」


「ありがとうございます」


女当主はそれだけ言って、馬車に乗った。


私は、遠ざかる馬車を見送った。


夫が長年続けてきた取引が、一つ終わった。


何かをするよう、命じられてはいなかった。


翌日の午後。


執事が、一通の手紙を持ってきた。


「奥様宛てでございます」


「私に?」


「はい。商会のご当主様からです」


封筒には、夫の名ではなく、私の名前が記されていた。


自分宛ての手紙を受け取るのは、ずいぶん久しぶりだった。


封を切ると、丁寧な文字が並んでいた。


いつもの受領書とは、筆跡が違う。


『昨日は、お目にかかれて光栄でした。


突然のお申し出で恐縮ですが、もしよろしければ、一度ゆっくりお話をさせていただけませんでしょうか。


お仕事について、ご相談したいことがございます』


私は何度も読み返した。


仕事について。


私に、相談したいことがあるという。


夫の妻としてではなく。


私自身に。


机に向かい、便箋を取り出した。


今度は、夫の名前を書く必要がなかった。


私は、自分の名前を記した。


『お手紙をありがとうございます。ぜひ、お話を伺わせてください』


短い返事だった。


けれど、何度読み返しても、書き直したいところはなかった。


私は封筒に手紙を収めた。


そして、初めて自分の名前で書いた返事を、商会へ送った。


   ◇


商会との契約が終わるまで、あとひと月。


夫は、まだ何とかなると思っていたらしい。


「向こうも商売だ。こちらほどの取引先を失えば、困るに決まっている」


そう言っていたのは、最初の数日だけだった。


それから夫は、別の商会へ何通も手紙を送った。


けれど、返事は芳しくなかった。


「どこも高すぎる! これでは利益が出ん!」


執務室から怒鳴り声が聞こえるようになった。


ある日の午後、私は夫に呼ばれた。


「詫び状を書け」


机の上には、見覚えのある手紙が置かれていた。


あの日、夫が私に突きつけた詫び状の控えだった。


「先方に送る。今すぐ書け」


「承知いたしました」


私は机の前に立った。


「何とお書きすればよいか、ご指示ください」


夫は顔を上げた。


「……何?」


「お詫びする内容をご指示いただければ、そのとおりにお書きいたします」


「そんなことまで聞くのか!」


「はい」


夫は口を開きかけ、閉じた。


机の上の控えに目を落とす。


『先日の書簡における非礼を、深くお詫び申し上げます』


あの日、夫が怒鳴りながら読み上げた一文だった。


「……とにかく、取引を続けてもらえるように書け」


「どのような理由で、再考をお願いすればよろしいでしょうか」


「それは……」


夫は眉間に皺を寄せた。


しばらく待ったけれど、返事はなかった。


「もういい!」


夫は私の前から便箋を取り上げた。


「俺が書く!」


「承知いたしました」


私は一礼し、執務室を出た。


翌朝、夫は自分で書いた手紙を商会へ送った。


封をする前、私に清書の確認を命じたので、文面を読むことができた。


『先日の件につきましては、双方の認識に多少の行き違いがあったものと考えております。


長年の取引関係を踏まえ、互いの利益のためにも、契約更新について再考いただきたく存じます』


謝罪の言葉は、一つもなかった。


私は誤字がないことだけを確認し、手紙を返した。


それ以上は、何も言わなかった。


数日後、商会から返事が届いた。


夫は私を執務室に呼びつけた。


「読め」


「はい」


私は封筒から手紙を取り出した。


『先日のお手紙を拝読いたしました。


以前いただいた書簡とは、ずいぶんお考えが異なるようです。


誠に残念ではございますが、契約不更新の判断に変更はございません』


読み終えると、夫は手紙を奪うように受け取った。


何度も目を走らせる。


「……なぜだ」


小さな声だった。


「長年、取引を続けてきたというのに……」


夫は机に手紙を置いた。


その隣には、以前の詫び状の控えがあった。


夫は二通の手紙を見比べた。


そして、詫び状の控えを手に取った。


長いあいだ、何も言わなかった。


私は黙って立っていた。


やがて、夫が口を開いた。


「……お前は、いつもこういう手紙を書いていたのか」


「はい。必要だと思ったときには」


「俺が知らないところで?」


「はい」


夫は再び控えに目を落とした。


それきり、何も言わなかった。


私は、夫の次の指示を待った。


けれど、いつまで経っても何も言われなかったので、静かに尋ねた。


「ほかに、ご用はございますか」


夫は首を横に振った。


「……いや」


「それでは、失礼いたします」


私は一礼し、執務室を出た。


廊下には、午後の静けさが広がっていた。


自分の部屋に戻ると、机の上に一通の手紙が置かれていた。


先日、商会の女当主へ送った返事に対する、返信だった。


『お返事をありがとうございます。


所用で王都を離れておりまして、お返事が遅くなりましたこと、お詫び申し上げます。


来週、当商会にてお目にかかれますことを、楽しみにしております』


私はその一文を、もう一度読んだ。


そして、手紙を丁寧に畳んだ。


来週。


私は、私自身の用事で、誰かに会いに行く。


そう思うと、少しだけ胸が弾んだ。


   ◇


商会を訪ねる前の夜。


私は、机の引き出しから小箱を取り出した。


中には、結婚したときに持ってきた書類が収められている。


持参金の目録。


宝飾品の一覧。


そして、婚姻の際に交わした取り決め。


以前、この箱を開いたときは、ただ懐かしかった。


けれど、今夜は違った。


私は取り決めの書類を広げた。


妻の申し立てにより、離縁ができること。


その際、持参金と婚姻前から所有していた財産は、私に返還されること。


そう記されていた。


婚姻の際、父が念のためにと加えさせた条項だった。


何度も読み返した。


結婚したときは、使うことなど考えもしなかった一文だった。


私は新しい便箋を取り出した。


そして、夫に宛てて書き始めた。


『離縁を希望いたします』


理由は、長々と書かなかった。


ただ、これ以上夫婦として暮らし続ける意思がないこと。


持参金については、婚姻時の取り決めに従って返還を求めること。


その二点だけを記した。


最後に、自分の名前を書いた。


書き終えても、手は震えなかった。


私は便箋を封筒に収め、机の上に置いた。


翌朝。


夫が朝食を終えるのを待って、手紙を差し出した。


「何だ、これは」


「お読みください」


夫は封を切った。


最初の一行を読んだところで、顔を上げた。


「……離縁?」


「はい」


「何を言っている!」


夫は椅子から立ち上がった。


「今さら、そんなことが許されると思っているのか!」


「婚姻の際の取り決めに、離縁についての定めがございます」


「書類の話をしているんじゃない!」


夫は手紙を握りしめた。


「なぜ、突然こんなことを言い出す!」


私は少し考えた。


突然だったのだろうか。


夫にとっては、そうなのかもしれない。


「もう、ここで暮らしたいと思わなくなったからです」


夫は言葉を失った。


しばらくして、低い声で尋ねた。


「……どこへ行くつもりだ」


「商会のご当主様から、お仕事についてお話をいただいております」


「仕事?」


「はい。今日、お会いする約束をしております」


「俺に黙って、そんな話を進めていたのか!」


「私個人へのお申し出でしたので」


夫は何か言いかけた。


けれど、口を閉じた。


やがて、椅子に腰を下ろした。


「……待ってくれ」


初めて聞くような声だった。


「俺が悪かった」


私は黙っていた。


「お前が、あれほど屋敷のことをしていたとは知らなかった。取引先とのことも……」


夫は顔を伏せた。


「頼む。戻ってきてくれ」


戻る。


その言葉が、少し不思議だった。


私はまだ、この屋敷にいるのに。


夫が求めているのは、きっと以前の私なのだろう。


「もう、何をしても構わない。好きなようにしていい。だから、もう一度、俺を支えてくれ」


私は夫を見つめた。


以前なら、その言葉を待ち望んでいたのかもしれない。


けれど、今は違う。


私には、読みたい本がある。


自分の目で見てみたい季節がある。


そして、これから何をするか、自分で決められる。


「――それは、余計なことですので」


夫は顔を上げた。


私は一礼した。


それが、夫に向けた最後の挨拶になった。


   ◇


離縁が成立したのは、初雪の少し前だった。


そして今日、私は商会での初出勤を迎えた。


「ようこそ、おいでくださいました」


女当主が、穏やかに迎えてくれた。


「本日から、よろしくお願いいたします」


「こちらこそ。お待ちしておりました」


彼女は私に、契約書を差し出した。


取引先との書簡を担当する、という職務が記されている。


「では、こちらにお名前を」


私はペンを取った。


契約書の末尾に、自分の名前を書いた。


結婚する前の、私の名前。


誰かの代理ではない。


私自身の署名だった。


「ありがとうございます。では、担当の者をご紹介しましょう」


女当主が扉に目を向けた。


入ってきたのは、三十代ほどの青年だった。


穏やかな目をした、背の高い人だった。


「息子です」


女当主は、署名したばかりの契約書を青年に手渡した。


青年はそれに目を落とし、それから私を見て、微笑んだ。


「お庭の楓は、もう見頃を過ぎたでしょうか」


その言葉に、胸が小さく跳ねた。


あの受領書の末尾にあった、私が返事を書かなかった問い。


私は、ようやく気づいた。


何年も季節の便りを返してくれていたのは、この人だったのだ。


「……庭の楓は、もう散ってしまいました」


青年は、少し驚いた顔をした。


それから、嬉しそうに笑った。


「ようやく、お会いできました。アデル・ヴァレーヌ様」


私は微笑み返した。


私の名前で書いた手紙に、返事をくれる人がいる。

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― 新着の感想 ―
詫び状に謝罪を書かない人って相当な馬鹿ですなぁ。 このモラハラ男、子供かな? 6ちゃいぐらいの。
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