死とメルヘン
人生には落とし穴のような、誰かが仕掛けた罠のような、当の本人にはどうしようもない穴があいていて、タイミングだとか、その人の状況だとかを全く無視して暴力的に落ちていく瞬間がある。
もちろんそれは全員に訪れるわけではない。落ちない幸せな人もいるだろうし、そんなこと考えたこともない、という人の方がほとんどかもしれない。
でも、確実にある一定の割合で人はその穴に落ちる。
それはある人にとっては病気かもしれないし、事故かもしれない。大きな天変地異がそれにあたる人もいるかもしれない。でもここで言いたいのは、きっと、たぶん、それはもっと些細なことでありうるということ。他の人から見たら笑ってしまうようなどうでもいいことですら、その穴になりうるということ。
それでいてその穴は暗く、深く、一度はまったらもう並大抵の努力では出てこられないようになっている。そしてほとんどの人が、そのまま寂しく穴の中から地上を見上げて生きていくことになるのだろう。
穴の中で彼らは思う。
私は何か悪い事でもしたのだろうか?
そこにはたぶん、答えは用意されていない。
因果応報、という言葉があるが、因果があればまだ何かの慰めくらいにはなるのではないだろうか。
それは、偶然といえば偶然だし、運命といえば運命かも知れない。でもそれは実際のところ、ただ、落ちる。そういうものなんだと思う。
1
「一昨日の夜、専門学校の同級生が死んだんだ」
田中賢三はほとんど独り言のようにつぶやいた。
北関東の大雑把な国道が、急に片側一車線になっていて動かなくなったせいか、休みを取ることで少なからずその後輩に迷惑がかかることへの負い目か、賢三は前の車のナンバープレートを見つめたまま話を続けた。
「名前は引田っていうんだけど。下の名前は知らない。たぶん同い年だろうから三十八歳か。油絵が好きで、いつも教室で絵を描いていたのだけど、教室中が油臭くなるからって、みんなに文句を言われていたんだ。どんな絵を描いていたのかって? 憶えていないな。何だかわからない抽象画だったような気もするけど、上手かったのか下手だったのか、才能があったのかなかったのか、まったく記憶にない。もう十七、八年も前のことだから。でも、ちょっと変わった奴でさ、いつも袖のすり切れたからし色のジャンパーを着ていてずっとへらへら笑っている奴だったんだ。そう、ニコニコじゃない、へらへら。言っちゃ悪いが、ほら、たまにいるだろう、頭のねじがちょっと緩い感じの何か良く分からないけど笑ってる奴。発達障害? どうなんだろう? 当時はそう思わなかったな。僕らだって十八とか十九だったから、ちょっと変わった奴、という感じで見てただけ。卒業してから? さあ? 何をしているんだろうね。何度か駅前で絵を描いているのを見かけた奴がいたらしいけど。僕は別に彼とは仲が良かったわけではないからね。何でって? 担任だったオカマから電話があったんだよ。そう、彼が亡くなって葬儀がここであるからって。え? ああ、そう、オカマだったんだ。その先生。ゲイって言葉がまだそんな一般的じゃなかったから。ん? 何でって? ああ、仲良くもないのに何でってこと? さあ、みんなに連絡するんじゃない? 名簿とか見て。そういうものなんじゃないか? そうでもしなきゃ人が集まんなくて寂しいだろう……」
「ソニックユースなんて聴くんですね」
助手席に座っている後輩が突然口をはさんできたと思ったらそんなことだった。
「え? ああ……」
そのうえ急に流れ出した国道のせいで、賢三は何を言おうとしていたのかを見失ってしまった。
彼女はカーオーディオの空きスペースに無造作に突っ込まれていたCDジャケットを手に取ってしげしげと眺めていた。あのジャケットだ。モノクロでサングラスのカップルが描かれた、あのジャケット。
そして一回り年下の真面目そうな後輩の口からそんな言葉が出てきた方に興味がうつり、賢三は引田のことを忘れて話題を変えた。
「そんなに意外かな?」
「そうですね。田中係長って、仕事大好きでいい父親でいい夫で、っていうイメージでしたので」
「良いお父さんはソニックユースを聴かないってこと?」
「あはは。ええ、まあ。私の中では」
彼女は年の離れた兄の影響と、学生時代にバンドブームがあったらしく、賢三が十代の時に聴いたような音楽を歳の割によく知っていた。九十年代。オルタナティブロック。ニルヴァーナ。パールジャム。レディオヘッド。R・E・M。この時代の音楽は基本的に暗く、神経症的だ。そういう時代だったのだろうか。
「会社って場所で話せる話題って、実はかなり限定されているんだよね」
「限定、ですか」
「……うん」
賢三はうなずいたのかうなったのかあいまいな音を出しただけで、言葉が続かなかった。これ以上この会話を続けてもすぐに行き止まりになりそうな気がしたからか。
限定されるというのはつまり、音楽の話ならJポップ。それもミュージックステーションに出てくるようなモノに限られるし、映画の話ならハリウッド超大作。漫画の話なら少年ジャンプ。いや、「ワンピース」くらいか、ということ。そこから一歩でも出てしまうと、途端にその会話には、妙な空気が漂ってしまう。その空気は一体なんなんだろう。重さというか、温度というか、その決定的にそぐわない感じはなんなんだろう。きっとそれは意味を含んでしまっている、ということではないだろうか。誰も会社の給湯室で意味のある会話なんて求めてはいないということか。
例えば「シンプルメン」という映画のなかで、ハル・ハートリー監督はソニックユースの「クールシング」をダンスミュージックとして捉えていたことを、どれだけ時間をかけて話しても誰も理解してくれない。だから代わりに上司とはゴルフの話をするし、同僚とは子供の成長について話し、部下には仕事の昔話ばかりをするのだと思う。当たり障りがない。
賢三の仕事は家電量販店をまわり、その店舗の問題点や非効率な部分を指摘して回るスーパーバイザーと呼ばれるもので、社内では出世コースだった。専門卒のアルバイト上がりで、この部署にいるのは賢三だけらしい。
「それで、結局休みはもらえたんですか?」
「三日だけ。有給はたまりにたまっているのに使えたためしがない」
「それだけ田中係長がいないと困るってことですよ」
彼女は会社員として礼儀正しくお世辞を言って微笑んだ。賢三は彼女を車から降したその足で引田の葬式に向かった。
暑くも寒くもない季節の、夕方のことだった。
2
オカマの担任に教えられた場所は、一般的な葬儀場ではなく火葬場だった。入り口で出迎えてくれる人がいるわけでもなく、香典の受付も記帳もない。短い廊下を抜けてメインのフロアに着くと、ただっ広い人工大理石の空間の中に等間隔に並んだ火葬炉があるのみで、人の姿は無く、印象としての温度感がとても低かった。たぶんどの炉にも火は入っていないのではないだろうか。
目に入るものが全部四角い。幾何学模様みたいだ。静かすぎることも手伝って妙な不安感に襲われてくる。
奥に待合室が並んでいた。賢三は誰にも案内されないまま待合室の名札を見て回った。
場所を聞き間違えたのだろうか? 時間が遅かったのだろうか? みんなはきちんとした儀式をもう終えて、次の場所へ行ってしまったのだろうか? いくら葬式なんてそんなにたびたび経験するものではないとはいえ、こんなにも手順が用意されていないなんて、一体どんなオペレーションになっているんだと、文句を言ってやりたいが、その相手もいない。
帰るか。とポケットに入っている携帯電話をなんとなくひらいて時計や緊急の連絡がないかを確認していると、突然呼び止められた。
「おい! あんた。おい!」
賢三は振り向く前に少しだけ考えた。呼ばれたのは自分だろうか? たぶん初対面である自分をこんな呼び方する人種にろくな奴はいない。賢三が働いている電機屋にもこういう客がいて、たいていの場合どこで買ったかわからないような壊れたラジオとかを持ってくる。
しぶしぶ振り返るとその人は爺さんなのか婆さんなのか判別の難しい容姿をしていた。たぶん、短髪の老婆なのだろうか。毛玉だらけで紺色なのか黒なのかわからないカーディガンに赤いスカーフを巻いていた。
「引田君の……?」
老婆は面倒臭そうに何度も頷きながら、住所の書かれた紙を渡してきた。手が震えていて受け取りにくかった。
「あ、あ、あんたは?」
「……専門学校の同級生です」
賢三は他に誰か来ていないか聞きたかったが、一応こんな感じの人でもいきなりそんなことを聞くのは失礼かと思い、遠回しに言った。
「クリエイティブアーチスト専門学院の先生って来てませんか?」
せめてオカマの先生くらい来ているだろうと思った賢三の見立ては甘かった。老婆は「あん?」と聞き返したっきり答えない。たぶん、賢三以外誰も訪れなかったのだろう。
「もう火葬は終わったんですか? 手ぐらい合わせて帰ろうかと思うんですが」
「うちは直葬だよ。金なんかないからしょうがないじゃないの。あ、香典は?」
食い気味にそう言う老婆に、賢三は鞄に入れておいた香典袋をわざと雑に手渡した。老婆もそれに応じるかのようにひったくった。もういいや、早くこの場から離れたい。その場合、向こうのペースに合わせた方がいい。壊れたラジオを持ってくる面倒な客の相手がこういうところで生きる。
「あのー、よろしいですか?」
突然横から黒いスーツの男が声をかけてきた。まともな格好をしている。態度も初対面の正しい距離感だった。しかも微笑みを浮かべている。客商売の顔だ。三十過ぎくらい、年下か。
「引田さんのお友達で、よろしかったでしょうか?」
賢三は相手の意図をはかるため、あえてあからさまに警戒している顔つきを崩さなかった。
「……友達ではないですね。同級生、だったんですけど、ほとんど会ってませんから……」
スーツの男は、賢三の反応にわかったような、わからないような顔のまま頷いた。
「はあ、なるほどです。あのー、画材とか、要りませんか? あと、原稿用紙も」
「……原稿用紙?」
スーツの彼は紙袋に入った原稿用紙を一束手渡してきて、賢三の顔を覗き込んだ。
「そう、原稿用紙。田中さんの、田中賢三さんの原稿。これ、あなたのですよね? あ、ちなみに画材はついでです。一緒の学校行っていたなら要るかな、って思っただけです」
クリエイティブアーチスト専門学院。紙袋には賢三の通っていた専門学校のロゴと電話番号が書かれていた。何でこんなものがここにあるんだ?
「引き取ってほしいんですよ。ぶっちゃけた話」
スーツの男の口調が、少しだけ硬く、冷たさを帯びた。
賢三は紙袋を開けた。中身は手書きの原稿用紙の束だった。「田中さんの、田中賢三さんの原稿」スーツの男はそう言っていた。
いくつかの文字が意味をなさぬまま視界に入ってきた。汚い殴り書きの文字は確かに賢三の書いたものだった。十何年ぶりに見る創作活動の痕は、恥なのか、照れなのか、屈辱なのか、懐かしさのような甘酸っぱい感情とは程遠い苦々しさだった。賢三は感情が表に出るのを堪える代わりに後頭部を掻きむしっていた。
「引き取るって……?」
交渉のイニシアチブが相手の手に渡っていくのを感じながら、賢三はなんとか口を開いた。
「この原稿はごく一部なんです。田中さん、もっと大量に原稿用紙を彼に預けていますよね?」
思い出した。なんだ、あの後輩がソニックユースの話なんかするから思い出しそびれていたじゃないか。
賢三は卒業してから、一度だけ引田に会っていた。そのとき駅で書き溜めた原稿を渡している。何でそんなことしたんだ? 何で引田だったんだ?
「じゃあ、よろしくお願いしますね」
スーツの男は混乱している賢三に小さな紙きれを手渡した。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
賢三の返事を待たずにスーツの男は去っていった。スーツの男だけではない、気が付くと引田の母親らしき老婆もそこにいなかった。いや、あれは母親だったのか? 歳が離れ過ぎているから祖母だったのだろうか。そんなことより、また夜の火葬場に一人だ。物音がなさすぎる。火葬場というのはどうしてこんなへんぴな所につくるんだろう。まあ、そりゃそうか。住宅街の真ん中じゃあ近所の人は嫌がるか。死は穢れているからな。みんないつか利用するというのに。いや、いまはそんなことどうでもいいか。
賢三はほとんど無意識に電話をかけていた。周りが静かすぎるせいか、呼び出し音がやけに大きく聞こえる。
「もしもし? あ、うん。葬儀は終わったんだけど、ちょっと遅くなるかもしれない。ん? そうそう。専門学校の頃の奴らが来ているから少しみんなでね。うん。ちょっと距離があるから、帰れるかわからないけど。うん。お金は大丈夫。カードがあるから。うん、じゃあ」
「あ、待って。あのね。今日、珠江ちゃんが、自転車に乗れたの」
「あ、そう。ほんとう。ああ、よかったね」
「うん。急に乗れるようになって、そのあとって一回も転ばないのね。不思議と」
六歳の娘が自転車に乗れた。運動が苦手で、性格もおっとりしているので、心配していたのだが、これでやっと友達と遊びに行ける。
賢三は電話を切ると、一人微笑んでいた。
それでも賢三の手には原稿用紙の入った封筒と、スーツの男が渡してきた紙切れが握られていて、紙切れには住所が書かれていた。賢三たちが通っていた専門学校と同じ区内だった。
原稿の重みで腕が痛い。
そしてあたりは無機質に真四角で無音だった。
比べるまでもなく娘の話の方が現実で、日常のはずなのに、少しだけ遠い世界の出来事のように思えた。
それなのに、いまだに引田の死に実感はなかった。遺体を見ていないせいだろうか。彼がさっきまでここで焼かれ、骨になったという事実に全く実感がわかなかった。
実感のわかないことが、現実的な日常よりも重く感じるなんて。
3
引田に原稿用紙を渡したあの日、賢三は当時付き合っていた彼女と別れ話をしていた。橋本絵莉子。専門学校のクラスメイトだった。同棲までしたのだが、賢三が家を飛び出すような形で別れた。
その時に賢三はなぜか書き溜めた原稿用紙を運び出したのだった。新人賞に落ちた原稿の下書きや、アイデアをまとめたメモや、本人すら良く分からないような走り書きの紙だった。いくつかの鞄に入れても入りきらなかったので、残りは古新聞のように十字に括って、近所のスーパーから盗んできたカートに乗せてまで運び出した。
重かった。紙というものは見た目以上に重い。持ち上げた時によろけて背中を痛めたが、別れ話をした手前、やせ我慢をして出て行った。荷が崩れないようにヨロヨロと。
どこへ向かったのかは覚えていない。行くところがなくとりあえず駅に向かったのかもしれない。
原稿用紙を運び出したのは、別れ話のせいで頭がどうかしたのか、せめてもの演出のつもりだったのか、さしたる理念も根性もなかった若き賢三は、早々にクソ重いカートを押していることに意味がないと気づいてしまった。駅前でイーゼルを立てて絵を描いている引田を見つけると、口から出まかせにこう言い放った。
「久しぶりだな。引田。僕はちょっと一般人のふりして隠れることにするから、ちょっと時代が追いつくまで、預かっていてくれ。くれぐれも大事にしてくれよ。チリ紙交換になんか出さないでくれよ。お前ならわかるだろ? これは僕のすべてだから」
そういえば、なぜかその時引田はすごく嬉しそうに頷いていて、ちょっと奇声もあげていた。夕方の駅前駐輪場。たくさんの人が振り返ったが気にならなかった。
あの日以来、賢三は原稿用紙に文字を書くのをやめてしまった。
4
賢三は渋滞で進まない夜の環八で窓の外を見上げていた。いまはもうない専門学校のビルは、確かこのあたりだったか。道の両脇は看板のネオンで埋め尽くされていて、建ぺい率ぎりぎりまでぎっしりとビルが積み上げられている。その窓一つ一つにほとんど明かりが灯っていた。賢三が普段暮らしている郊外の住宅街とは熱量が違った。昔はこんな風景見ても何も感じなかったのに今は少し圧倒される。
賢三たちが通っていた専門学校は本当にひどい所だった。今思えば学校法人だったのかすら怪しい。入学金が他の専門学校の三分の一、授業料は半分くらいだった時点で気付くべきだったのかもしれないのだが、パンフレットにはパリのコミューンをイメージし、自由な芸術家の育成という名目でカリキュラムや単位のない新しいスタイルの専門学校と書かれていて、実際は一つの教室に集められて各自が好きなことをしているだけというありさまだった。絵を描いている者、楽器を弾いている奴、女優になりたいと言っているだけの女、本当に何もしていない人。そういう連中のための児童館といった感じか。いや、精神病院の娯楽室という方がしっくりくる。
「クリエイティブアーチスト専門学院」
名前からしてひどい。たまに担任のオカマが友達の芸術家を連れてきてはなんとなく酒を飲みながらだらだら話すのが授業だった。名前の知らない映画監督、ミュージシャン、画家。一度縄師が来たこともあった。十八や十九で、一体縄師から何を学べばよかったのか。
賢三はその学校で漠然と映画を撮ろうと思っていたような気がする。気がする、なんていうのは実際には何も撮っていなかったからで、クラスメイトの影響で半年くらいギターの練習に熱中していたり、それに飽きると小説を書き始め、時間がかかりすぎるのに耐えかねて「表現としてリアルじゃない」とか言いながらやめたりしていた。
ちなみにその後リアルな表現として詩を書こうとしてみたものの、出来上がったものを人に見せる時の、自分も相手も死にそうなくらいの恥ずかしさと気まずさで「繊細さを前面に押し出しているけど中原中也は実は超図太い男だったんじゃね? だって詩とか書いてたんだぜ?」とかちゃんと中原中也を読みもせず言い放っていた。
そんな中、絵莉子だけは少しだけ違った。初めから絵本を描こうとしていて、ずっと絵本の勉強と、創作をしていた。賢三たちが口にするような学校への不満も彼女の口からは聞かなかったし、むしろいつも微笑んでいて、何だか楽しそうだった。掃き溜めに鶴。ほとんどの生徒が抱えていた鬱屈とした自意識というか、ゆがんだ自己顕示欲というドロドロした感情の渦の中を彼女だけが別の生き物のようにしなやかに、軽やかに生きているように見えた。
そんな絵莉子がなぜ賢三なんかと付き合っていたのだろう? 三十八になったいま賢三が冷静に思い返してみても、一緒にいる理由は少なかったように思う。鬱屈とした映画監督志望の男と、しなやかに軽やかに生きている絵本作家の卵。全然釣り合っていない。
しかし、その割には、賢三の方が一方的に好きだったわけでもなかったように記憶している。賢三はいつも一緒にいたがる絵莉子をおいて、麻雀をしにいったり、飲みに行っては朝まで帰ってこなかったりしていた。
別れたのは二十七か八だったと思う。
絵莉子は在学中に得た人脈を活用し、卒業後数冊の絵本の出版にかかわり不定期だが仕事を得ていた。あんな学校の中じゃ圧倒的な出世だった。
でも、そういう絵莉子の努力や小さな成功が、結果的には賢三との別れをもたらしたのだから、人生とは難しい。
絵莉子の超然としたたたずまいや才能は、卒業後もはやただのフリーターとして日銭を稼ぎ、屈折を年々深めていった賢三にはちょっと眩しすぎたのだろう。
絵本作家として外の世界とつながり可能性を広げていく彼女との溝は、彼女の作家としてのデビューが決まった瞬間、とうとう決定的に埋め難くなってしまった。
その時は、表向きはこんな自分といると彼女が駄目になるとか、自分が駄目になるとか思いながら、結局は嫉妬したのだと思う。耐え難いぐらい嫉妬したんだと思う。
最後は賢三の方から彼女に別れを告げて出て行ったんだった。そんな賢三にでも絵莉子は涙を流して引き留めてくれたのだが、その手を振りほどいて出て行ったんだった。
そんな絵莉子がその後どんな人生を送っているのか賢三は知らない。一つだけ言えるのは彼女にも同じように年月が流れ、三十八歳になっているということか。
5
引田のアパートは専門学校のすぐ近くだった。ビルとビルの隙間をぬけていくと、さびれた家ばかりが並ぶ一角があり、そのさらに奥にアパートはあった。ビルの密度、ネオンの熱量、それらにまだ用事があるものたちが、しがみつくように住んでいそうなボロアパートだった。
「一〇二号室」
木製の板張りのドア。郵便受けはポスティングのチラシが飛び出していた。回っているんだかいないんだか、手ごたえのないドアノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。
「しまった……」
ドアを開けた賢三は、何の疑いもなくここへ足を運んだ自分に、いまさらながら呆れた。途中で何かがおかしいと気付くべきだった。
部屋の中はいわゆるゴミ屋敷だった。いや、ゴミ部屋か。
ひとつひとつはビニール袋で包まれているせいか、質感は軽やかで、ちょっと幻想的ですらある。
少し遅れて異臭がしてきた。カビ臭さのようなすえた臭いで鼻の奥が痛い。
とりあえず賢三は、玄関から手が届く場所にある袋を手に取った。大手コンビニのロゴ入りの袋。中には空のパンの袋とコーラのペットボトルが入っていた。
「おい! あんた! おい!」
しまった。また捕まった。賢三が振り返ると、引田のお袋と同種の臭いを放つおばさんがいた。眼鏡をかけているが、その奥の目が角ばっていて鋭い。
「不動産屋から聞いたんだけど、あんたがここの撤去費用を払うんだって?」
おお、マジか。予想していたよりも話が進んでやがる。あの営業、ニコニコしながらなかなか悪どいじゃないか。賢三はなるべく冷静に愛想よく答えた。
「一部のものを引き取りに来ただけなんですよ」
おばさんの四角い目がみるみる険しくなった。そこへたまたま二階から水商売らしき派手な格好の女が降りてきた。
「ちょっと、来月は家賃待たないわよ!」
ひどいしわがれた声でおばさんは言った。女は頷いたんだか歩いていて頭が揺れたんだかわからないくらい、ほとんど無視して自転車にまたがり過ぎ去った。彼女のミニスカートからあらわになった足のエロさが、何だかたくましい。
「あたしが善意でこんなに家賃を安くしてあげているのに、変なのばっか借りに来るんだよ。それなのになんであたしが損ばっかりするんだ? こういうのがあると次に借りる奴に安くしなきゃいけないの。知ってる?」
そうか、このおばさんはおばさんなりにこういうところでアパートを経営してきて、それなりに色々あったんだろう。賢三はとりあえずリズムで相づちを打った。
「大変ですね」
「でもね、一度誰かが借りたらその次には言わなくていいから、誰がどこで死んだ部屋かなんてわからないのにね。あのホステスの部屋だって二年前はやくざが死んでるしね。それで、いくら出せる?」
色々どころじゃなくありそうだ。黙っていると本当にここの撤去費用の負担をさせられそうだった。
「でも、僕も彼とはそこまで親しかったわけじゃないんですよ。ちょっと荷物を……」
ほとんど無視だった。あまり人の話を聞かない人のようだった。賢三の話は、まるで賢三なんていないかのように彼女の耳に入っていかない。
「あの……」
「死ぬなら、人に迷惑をかけずに死ねばいいのに。ねえ、そう思わない? 生きてるときにも迷惑かけて、死んだ後も迷惑かけて。あたしだったら恥ずかしいわ。あたしは人に迷惑かける奴が一番嫌い」
こちらの意図しないタイミングで彼女はしゃべってくる。そして内容も完全にずれているわけではないが、若干飛躍するので、こちらも言葉に詰まる。
「仕事もしないで絵を描いていたのよ。絵なんて描いたって何にもなんないじゃない。画家で一枚が何百万とかになるならいいけど、何にもなんない絵を描いてどうすんのかね? もっと生産性のある事をしなきゃだめよ。若い人は。わかる? 生産性」
生産性。わかるも何も、賢三の仕事場では、合言葉のようにこの言葉が飛び交う。店舗の生産性。個人の生産性。生産性を管理する我々の生産性。こんなところでこんなおばさんに言われると思わなかった。
「ところで、彼は仕事をしていなかったんですか?」
「そうなのよ。あたしも家賃が心配だから顔見るたびに仕事してんの? って聞いてたんだけど、何かそんな様子がなかったからね。じゃあ生活保護でも受ければ? って言ったんだけど、何かめんどくさいって」
「でも、家賃ってそんなに遅れなかったんでしょう?」
いつの間におばさんのペースに合わせてタメ口になっていた。
「ここだけの話ね」そう言って小声になり近づいてきた。周りには誰もいないのに。
「裏の仕事してたんじゃないかって思ってんの」
「裏の仕事?」
「そう。運び屋とか。たまに怪しい格好の女が来てたから。売春婦みたいな」
「うーん。引田が裏の仕事ねえ……」
「ねえ、あんな感じのくせにね」
あんな感じ、どんな感じだろう。賢三は十年前や、もっと前の引田の記憶しかないので、へらへらしていたり、クラスメイトにからかわれたりしている彼しか思い出せない。
「ねえ、大家さん。彼が何で死んだか知ってる?」
「さあねえ。事件とか事故じゃないらしいけどね。救急車来てたから。持病でもあったんじゃないの?」
持病? 聞いたことない。いや、実際に賢三はほとんど彼の事なんか知らないのだから、もしかしたらそういうこともあったのかもしれない。
「突然死ってやつか。脳か心臓なのかな」
関係があるのかないのかわからないが、引田が絵を描いている姿が不意に頭をよぎる。そういえば、絵を描いているときだけ引田は不思議な表情をしていた。苦しくてたまらないという顔。癖なのか、ペンを持っていない方の手は必ず頭を押さえていて、髪の毛をかきむしっていた。
「ちょっとあんた、まともな会社に勤めてるんじゃない。じゃあ出せるでしょ」
いつの間にか彼女は賢三の財布から保険証を抜き取っていた。スリじゃないか。目の前で犯罪が横行しているのだが、何だかそれが当たり前の事に思えて不思議だ。
「待て、金はない。俺だって月々3万の小遣いで生きているんだ」
「業者じゃなくてもいいよ。お葬式に来てくれた友達にも手伝ってもらえばいいじゃない。床が見えれば、こっちだって鬼じゃないから手を打つよ」
大家はそう言いながら後ずさっていく。体が半分路地の闇に消えようとしている。こいつは本当にこの世のものなのだろうかと妙な考えが頭をよぎるのを、賢三は意識的に大きな声を出して何とか理性を保とうとした。
「こいつの葬式は誰も来なかったんだ! 友達なんかいないんだよ。僕だって違う!」
「そんな寂しいことを言うもんじゃないよ」と大家が言ってきたのか、頭の中でそう思ったのかわからなかった。「お前だって、一歩間違えば、彼のようになっていたかもしれないじゃないか」今度は確実に頭の中の声だった。引田と賢三に、あの頃明確な差なんてなかった気がする。どっちもクソ専門学校のクソ学生で、何の資本も持ち合わせていなかったことに差なんてなかった。強いていえば、賢三の方が多少コミュニケーション能力があって、その分、芸術的才能が乏しかったくらいか。
大家は闇に消えていった。お前が死ね、クソババア。
6
三十八歳という年齢は何かを始めるには遅すぎるが、何もかもを諦めるには早すぎる。例えば、いまから本気で野球選手になりたいって言って努力したってだめだろうし、アイドル歌手を目指したってだめだろう。でも、脱サラして起業するにはちょうどいい年齢かも知れないし、死ぬまで木を植え続ければ、山を森にすることだって出来るかも知れない。
賢三は車中泊した車のフロントガラス越しにハンディカムを回していた。それが何になるかはわからないが、これからのことを記録しておこうと思った。
「えー、(目いっぱい渋い声をつくって)彼の名前は卑田。卑田毒次郎。(いやしだどくじろう)忌野清志郎にあこがれて僕らにこの名前で呼ぶことを強要してきた痛い奴だ。本名は田舎風の響きで面白かった気がするが、思い出せない。専門学校で僕にギターを教えてくれたのが彼だ」
目いっぱいまでズームし液晶画面に映った彼を見て、思わずナレーションをやめてつぶやいた。
「うわ、太ったなあ……あと、髪も薄くなったなあ……。あの頃はモヒカンだったのに。あー? 一応まだモヒカンなのか? あの頭頂部は立っているのか? わかりにくいな、もう」
ライダースの革ジャンに破れたジーパンは変わっていないのだが、お腹が目立つ。昔から酒好きだったから仕方ないか。そしてなぜかギターを担いでいる。エレキギターだ。電源なんてないのに。
「えー、もう一人は美佳。(もう普通の声)加藤美佳。女優志望だったんだが、うわ、こいつも太ったなあ。誰とでも寝る女で専門学校を出てからも、小劇場系の劇団に潜り込んでは、セックスのトラブルで辞めて行ったという噂だ」
極彩色のミニのワンピース。服が派手なせいか、膝の黒さと腿の皮膚炎がやけに目立つ。近所を歩いていれば、ただのちょっと派手なおばさんとおねえさんの中間といったところだが、女優とは程遠い。
彼らの自己主張の強い服装、風体は、世間と微妙にズレていて、若かりし頃の面影を保っていると言えなくもないが、服だけがそのままに中の人間が年取ったような、奇妙なちぐはぐさがあった。
彼らは歳を取ることに抵抗しているのだろうか。それとも、ただぼんやりしているうちに歳を重ねてしまい、そのことに気付かなかっただけのなだろうか。
賢三はカメラを回したまま車から降りて、彼らのもとへ歩み寄った。一応軽い冗談でハンチングとサングラスを用意したが、二人はいぶかしげに賢三を睨むだけだった。もちろん手にした黄色いメガホンにも触れてこない。
「……カントク、何してんの?」
「……自主映画で賞を取りにいくんじゃねえの?」
「ん、ああ、撮るよ。撮る撮る。ほら、今も回ってるんだよ」
「家庭用カメラじゃねえか。映画音楽作ってくれっていうから来たのによう」
「私は主演女優だって言われてきたのに。スタッフとか技術さんとかは?」
「いない、いない。ドキュメンタリーだから。夭折の天才画家、引田の残したゴミ部屋をみんなで片付けながら、彼の作品を見ていこうというね……」
賢三は二人の前でドアを開けた。昨日は薄暗くてわからなかったが、奥までビニール袋がびっしり詰まっていて、重みでガラス窓にひびが入っていた。内心こんなのを片付けるのか、と気後れしたが、二人の手前そんな顔は出来ないので、賢三はいたって冷静を装い用意していたマスクと手袋をした。
「ひどい! せっかく映画に出してくれるっていうからおしゃれしてきたのに」
「俺だってバイト休んできたんだぜ?」
「どうすんのよ、こんな格好でゴミを片付けろっての?」
「冗談なら帰るぞ」
「まてまてまて、冗談みたいに思うかもしれないが……いや、僕だってちょっと悪い冗談かと思っているんだけど……」
賢三はこれまでのいきさつを彼らに話した。オカマの先生から連絡がきたこと。火葬場での引田の母親の態度。大家の引田に対する悪態。
「賢三、単純にお人良しのお前が騙されて、その腹いせに俺らを呼び出したってことじゃないのか?」
「いやいや、違う違う。意味があって呼んだんだ」
「意味?」
「そうだ。なあ、引田が死んだって話を聞いた時、何か、思わなかったか?」
二人にも引田が死んだという連絡はいっていたようで、無視をしたらしい。彼らの表情にやましさの影が浮かんだ。
「いや、普通に考えたら、無視していいんだと思うんだけどさ、何ていうのかな。僕らには彼の部屋を片付ける、理由、ってほどのものじゃないんだけど、何かがあるような気がするんだ。それが、引っかかってさ」
賢三はこの時、少しだけカメラを意識していたのかもしれない。自分でもいつもより感情的になっているような気がした。もしかすると、このまま何も起こらないのが嫌だったのかも知れない。カメラの前で何か特別なことが起こらないかと無理やり話を持っていっていた。特別な何か。それは、ひどい事でも構わないから起こってほしかったのかも知れない。
「業者が来て、何の感情もなく、彼の描いた絵も、もしかすると奥に埋まっている思い出の品も、捨てられていくのかと思うと、いたたまれないじゃないか」
「そんな絵、値打ちあるの?」
「金銭的な値打ちはないだろうけどさ、でも、何かの価値や意味は、あるかもしれない」
「なにそれー、価値や意味だって? カントクってそういうしゃべり方する! なつかしいね」
「お前、なんだよその言い方」
自分の原稿用紙がここの押し入れに入っているせいだろうか、価値や意味は、少しくらいあるって、言ってほしい。そんなこと美佳には知るよしもないのだけど。
「ふーん。とにかく、ここの方付けをするんだろう?」
卑野は冷めた目で引田の部屋に積まれた袋のひとつを手に取って覗いた。賢三は用意しておいた区指定ゴミ袋と軍手とマスクをコンクリートの上に並べた。
「あーあ、だったら汚れてもいい服で来たわよ。結局私たちもカントクに騙されたってことでしょ?」
「いやいや、僕だって被害者なの、火葬場行って香典だって払ったんだぜ」
「いくら?」
「五千円」
「そんなのに払うんならあたしがもらいたいわ!」
美佳とのやり取りをほとんど無視して黙ってごみ袋を覗いていた卑田はその冷めた表情を変えずにつぶやいた。
「いいよ」
卑田は胸ポケットからくしゃくしゃのマルボロを取り出して火を点けると、ゴミの分別が書かれたプレートを睨んだ。
「しかし、ここの区は分別がめんどくせえなあ……」
卑田は意外にも素直に黙々と作業を始めた。ただ、一つだけ手伝う条件としてあげたのは、作業中はビールを好きなだけ飲ませることだった。
ちなみに、美佳はついでにハーゲンダッツを買ってこいと言ってきたから買ってやった。安上がりだ。
7
確かに卑野が言うように、引田のアパートがある区の分別は複雑だった。燃えるごみ、燃えないごみのほかにプラ、発砲トレイ、瓶、缶、ペットボトル、危険物、などなど。とりあえず袋をひとつひとつ開き、分別をして指定袋へ入れていった。まずは専門業者などを通さないで、できる限り一般ごみとして出せる状態にしてみようということになり、翌朝はプラごみの日なので、朝までにコンビニ袋をばらして一番多く出そうなプラをなんとかしようということになった。
手にしたコンビニ袋にはほとんどの場合、ペットボトルとパンの袋が入っていた。初めは美佳もごみの山から何か出て来やしないかとギャーギャーわめいていたが、実際に何かが出てくることはなく、しばらくすると静かになった。ゴミ屋敷の片付けなんかしたことがないからわからないが、こんなものなのだろうか。
賢三だって多少は、腐った食べ物や汚物を見つけて騒ぐ心の準備はしていたのだが、拍子抜けするほどきれいだった。いや、本音を言えば、そういうシーンをカメラに収めたかったのかもしれない。
何だかみんなして黙り込んでしまった。静かになった部屋には乾いたビニールの音ばかりがカサカサとペリペリとつつましやかに鳴っていた。
一体引田はどんな暮らしをしていたのだろう。ごみをばらしていると嫌でも考えさせられる。
卑田はビールを小脇にひたすらペットボトルのラベルを剥がしていた。賢三はその背中を丸めてラベルを剥がす姿にカメラを向けていた。擦り切れた革ジャンとたるんだ身体と単純作業がやけに釣り合いが取れていた。賢三は逆立った薄毛のモヒカンにちょうどピントが当たるようにズームを調整していた。お、合った。薄毛越しのゴミ屋敷。なんだか幻想的だった。
その作業に慣れコツでもつかんだのか、ラベル剥がしがやけにスピーディーになった頃、卑田は突然振り返って言った。
「たぶん、引田は飯を食うことに飽きたんじゃねえかな? 興味を失ったというか」
「えー? あたしなんて食べることしか楽しみ無いわ!」
美佳は食べ終わったハーゲンダッツを分別後の袋に投げ込んだ。
「炭酸飲料と菓子パンの袋ばっかりだもんな、一番手っ取り早くカロリーになるんじゃないか。飯食うのって体力がいるんだよ、生命力っていうかさ。特に肉食う時とか汗かきながら食うだろ? 生き物を食うってのはそういうことなんだよ。そういうものを失ったんだろうな」
賢三が悪趣味なアングルでカメラを回している間、卑田は真面目に食べることと生きることについて考えていたようだった。賢三は自分だって同じように考えていたよ、という表情をつくって卑田に問い返した。
「鬱か何かだったのかな?」
「近い状態だったんだろう。鬱ってのは、興味がなくなるらしい。例えばじいさんが趣味だった盆栽を急にやめたり、コレクターがコレクションを捨てたりするんだってさ」
「そういうものが、引田にも来たんじゃないかってこと?」
「なんか、そんな感じがしないか?」
「どうだろう……卑野は、引田は自殺でもしたんじゃないかって思っているのか?」
「自殺……というより、生きるのをやめた……のか?」
生きるのを、やめた。か。自殺ほど主体的だったり衝動的じゃないということか。そう感じさせるのはあまりに生活感がないからだろうか。でもそんな、ゲームじゃあるまいし、やめたっていってやめれるものでもないじゃないか。
「絵は、描いていたのかな?」
「それでも、描いてたみたいだな」
卑野はいくつかの空になった絵の具チューブをコンビニ袋から出して見せてくれた。菓子パンと炭酸飲料ばかりを食べながら、絵を描いていたということか。
「完全に鬱というよりは、絵以外のもろもろを削ぎ落としたような暮らしでもしていたんじゃないか?」
なんだかんだ一番よく働いてくれている美佳が、賢三と卑野の話を聞きながら笑った。
「つまんなそう、引田ってそんな奴だったっけ?」
「そんな奴、じゃなかった?」
「そう? 結構良い奴じゃなかった?」
意外にも美佳には、引田の印象は良かったらしい。賢三は念のため聞いた。
「引田とはやってないよな?」
「やってないよ!」
「ああ、一応ね、確認。お前が絡むと話がぶれるからな」
美佳は専門学校の時に、クラスの半数と肉体関係を持っていた。本当に付き合ってやった奴もいれば、付き合ってると思ってやったのに、相手にそのつもりがなかったパターンや、飲み会のあとに勢いでのパターンもあり、多岐にわたる。賢三はたまたまクラスメイトの絵莉子と付き合っていたため、セックスはしなかった。いや……口だけは何度かある。
「引田ってさ、女子に優しいんだよね。意外と。普段はおっとりしてるから、イラッとくることもあるけど、何だったけなあ、あの、ほら、死にそうな女、あの娘とも仲良かったしね」
「死にそうな女?」
「そうそう、憶えてない? リストカットしてた、加奈子、だっけ? あ、憶えてない? そう。仲良かったのよ。加奈子って超キレるの、たまに。だから私もあんまり仲良くなかったんだけど。でも、引田とは仲良かった、ていうか、最後は引田としか話してなかったんじゃないかな」
「いや、憶えてないな。そうだっけ……」
そう言いながらも賢三は、美佳とそんなにも引田の印象が違っていたことに驚いていた。引田のような、って言っちゃあなんだが、彼の事をもっと単純な人間だと思っていたからだ。
8
ズーン……。
「あ、俺のケータイだ。ちょっと取ってくれ」
何だ、急にベース音とノイズが鳴ったかと思ったら。卑田の着メロだった。
「レディオヘッド? 何かと思ったよ」
「ああ、バイト先からだから」
電話を取った卑田はドアの向こうへ出て行った。
板張りのドアは薄いので、会話の内容までは分からないが、声が漏れてくる。
「いやいやー、本当ですよー、友達が死んだんすよー、マジっすよー。え? こないだ死んだのはババアですよ。本物の。嘘じゃないっすよ」
パンクだのロックだのと言っている奴のアルバイト先とのやり取りは、やけに元気だった。賢三と美佳はそれについて言葉を交わすことなく、うつむいたまま黙っていた。武士の情けという感じか。触れるべきではない話題をやり過ごそうと、賢三と美佳は作業を再開した。
電話を終えた卑田は、別に、という、ちょっとふてくされたような顔をして戻ってきた。
「明日、出れないかって言われたんだけど、これ、明日もまだやるよな?」
「ああ、そう、だね。でも、どうしても行かなきゃいけなければ、大丈夫だよ」
そうだよな、まずは生活をしていかなければいけないもんな。芸術だの創作だのよりも、生活だの日常だのはいつのときも優先順位の上位にくる。
「ああ、まあ、いいんだけどな。辞めようと思ってたからさ」
卑田はそう言うと目いっぱいかっこつけながら二本目のビールを開けた。
「辞めることないよ。だったら行きなよ。僕は三日休めたから大丈夫だよ」
「いや、別に、明日行かなきゃクビだってわけじゃないんだけどさ。俺は社員並みに仕事出来るからな。困るのはあいつらだからそんな感じじゃないんだけどさ。いいんだよ、別に」
「何かあったの?」
「うむむ……まあ、辞めるとかなんとかは別にないんだけどさ。うそうそ。いいんだよ。なんでもねえよ」
「は? 何言ってんの?」
急にふにゃふにゃもごもごと喋り出したので、賢三と美佳は何事かと顔を見合わせた。しばらく黙っていると、卑野は深いため息をついて話し出した。
「うーん。俺さ、シフト組んでんだよ。バイトリーダーなんだよ。長えからさ、もう、勤めて。明日は薄いんだよ。シフトが。そこにさ、大口の宴会が入っちまったらしいんだよなー」
「ほう……!」
なんて真面目なアルバイトなんだろうか! 宴会てことは居酒屋か何かか? そうだよな、いくらアルバイトだからって、いくらパンクスだからって、三十八だもんな。高校生や大学生のバイトとは違うよな。責任がないなりに責任はあるか。
「あたしもねー、高校生のとき居酒屋でバイトしてて、卑田みたいなおじさんいたよー。ちんちんさんって呼ばれてた」
美佳はゲラゲラ笑っていた。相変わらずデリカシーゼロだ。この女はすごい。
「俺みたいなおじさんって何だ! お前その頃先生とセックスして単位もらってたくせに」
「違うよー、先生とやってたら向こうが勝手にくれたの」
「なになに? 何の話それ?」
「専門の時さ、こいつ群馬の県庁所在地聞かれて『栃木?』って答えたんだよ。だからお前よく高校出れたな、って聞いたら、地理の先生がセフレだったとか、聞かれてもないのに言ってきやがったんだ。しかも授業中にだぜ? 覚えてねえか?」
「えー? そんな話覚えてないよ」
「美佳っていくつからそんな感じなの? 高校ですでにそんなんだったんだ?」
「いくつだろう? あたし太ってたから小学校まではいじめられたんだよねー。っていうかさ、学生時代って楽しかった? 青春って感じだった?」
「……んんん?」
美佳はニコニコと笑ったままだった。
本人は自覚していないかもしれないが、その質問は冷ややかだった。突然冷たいものを肌に当てられたような感じで賢三は固まってしまった。
楽しくは、なかった気がする。あの頃の事を思い出すと、具体的な光景よりも、将来に対する不安というか、漠然とした欲求不満というか、苛立ちというか、そういう感情ばかりが浮かぶ。美佳の笑顔をカメラ越しに見ていると、そのままの感情を伝えるのが照れ臭くなり、賢三は言葉を濁した。
「まあ、気楽ではあったよな。学校行ったり行かなかったりできたもんな。漫画ばっかり読んでたかな……」
「賢三はそんな感じか。平和だな。俺はバカ高校だったし、体育会系とも、不良グループともなじめなかったから、まあまあハードコアだったな。学校ってところは外界から遮断されて独自のルールが出来るからな。まあまあひでえことが日常だった。これじゃ刑務所と変わんねえじゃねーか、って思ってたよ」
「あたしもバカ校だった。あたしは何故か中学がすでにバカ中だった。公立のくせに。地域がバカだったのかな? あ、ゴミ処理場があったから? え? 関係ない? そうかなあ」
「(美佳をほぼ無視)僕はクラスの中で目立たなかったろうな。そのくせ目立つグループのことを下らない奴らだって見下していた。そんでマンガ読みながら『ジャンプ』と『マガジン』しか読まねえ低俗な奴ら。って思ってた」
「そりゃあ、好かれねえわな。んで、そのとき何読んでたんだ?」
「あの頃はまったのは『寄生獣』と『ナウシカ』」
「おお、熱い。『ナウシカ』って原作の方だろ?」
「そうそう。さすが卑野、知ってるねー」
「当たりめえだろ。俺は何年暇を持て余してきたと思ってるんだ。一通りのサブカルチャーは押さえてきてるっつうの。超文化的フリーターだ。なめんなよ」
卑野はさっき開けたビールを飲み干すと、赤ら顔でニヤリと笑った。ちょっと妖怪っぽい。
そうだった。こんな見た目になってしまったが卑野って男は専門学校の頃から賢三たちの中ではずば抜けてサブカルに対する造詣が深かった。スターリンを聴きながらジョージ秋山を読んでいるような生徒だった。
そりゃ高校からすでに周りとなじめないだろう。卑野が言うように、学校という閉鎖された空間で、外界と別の独自のルールが序列を決めていくなか、モテる奴、ケンカが強い奴、運動が出来る奴、勉強が出来る奴、その中のどの分野の資本も持ち合わせていなかった賢三は、いや賢三らは、肥大した自意識を持て余していたのだと思う。
「そうだ、そんで美佳はいじめられてて、その後どうしたんだ?」
「その後ねー。まー、中学に入ってもスクールカースト最下層にいたんだけど、なんか、中三くらいで、ブサイクだけど超ケンカ強い奴にぶっ飛ばすぞとか言われながらやられちゃってさ、そのあとからそいつ、急に優しくてさ、いや、優しいっていうか、やらしてあげたら何でも言うこと聞くようになっちゃってね。鉄人二十八号みたいな感じ? 見てないからわかんないけど」
ひどい例えだ。横山光輝が聞いたらなんて思うか……。
「その時さ、ヤバい! セックス万能、って気付いちゃったんだよねー。てへ」
てへ、じゃねーよ。
「でもさー、高校でもそんなんだったから、結構ほとんどこれで乗り切ってきちゃったんだよねー」
そんな話をだらだらとしているうちに玄関から短い廊下までの作業が終わり、一応部屋までの通路が確保された。ごみ袋は部屋の端だと背丈くらい。それ以外の場所で腰くらいの高さまであり、六畳くらいの部屋であることと、押し入れとベッドがあることが分かった。
9
ズゾゾゾゾゾ。
「ぎゃああああああ!」
部屋のゴミが入口側に崩れて、美佳の頭の上に落ちてきた。美佳は四つん這いのまま身動きが取れずに、派手な紫のパンツをさらしていた。賢三は助けもせずにそのでかいケツに向かってカメラを回し続けていた。卑田はニヤニヤしながらパンツを凝視していた。
頭を抜いた美佳は髪の毛を逆立てて怒鳴った。
「てめえ何撮ってんだよ! ねえ、だいたいこれって誰の得になってんの? 大家? 不動産屋? 引田の親? オカマ?」
「誰の? 誰だろうな? 誰も得はしてないんじゃないか? 良く分かんないけど」
「あー! なんか髪の毛べたべたする! なんか付いた! なになに?」
美佳は髪の毛を鼻に当ててクンクンと嗅いでいた。
「くせえ!」
美佳は歯茎をむき出しにしてゴミ袋を投げつけてきた。
「何であたしはいまこんなところに急に呼び出されてこんな思いをしているのよ?」
何でって? 面白そうだからとも言えず賢三は適当に言葉をひねり出した。
「何で? んーあえて言うなら時代のせいかな」
とっさの冗談は意外と卑田にウケた。
「ははは、賢三。お前はやっぱり面白いな」
「はあ? 時代って何よ!」
「いまさら文句を言ったってしょうがねえだろう。俺たちはずっと騙されてきたんだ」
ずっと笑っていた卑田はビールを片手に気分が良くなったのか、カメラに向かって語り始めた。
「賢三、お前は九十年代って、何だったと思ってる? 俺はこの歳になって、最近急に考えるようになったんだ、俺らの世代のことを。バブルでもない。ゆとりでもない、この名前のついていない世代のことをさ」
「ロストジェネレーション?」
「ああ、でもそれはちょっと上の世代だろう? ちょっと違うんだよ。俺たちの時代ってのはよ、潮目が変わった瞬間だったんだ。潮目。そうだ。あまりに境目過ぎて名前がない。高度成長期があって、バブルがあって、一生懸命勉強していればいいことがありそうな雰囲気だったのが、物心ついたとき、十代の時にそれが終わって、何か良く分かんねえが、急にこのままコツコツやったっていい事なんかねえぞって、くるってひっくり返った、まさにその瞬間だったんだ。手のひらを返された瞬間だったんだ。サラリーマンになったって毎日同じことの繰り返しだぞ、挙句の果てはリストラだって脅かされてよ、急に個性だの才能だのが必要だって言われて、自分探しだのなんだのってそそのかされ、しまいには新興宗教が流行ったり、そういう時代のツケが来てんだよ」
カメラを向けながら僕は、真面目な話をしている彼には悪いが、時の流れとは残酷だな、と思っていた。小太りで薄毛の中年がビール缶を片手に話していると、まるでおっさんの愚痴のようで内容が無さそうに見えてしまう。
「ゲプウ……」
ビールの飲みすぎでゲップなんかするからなおさらだ。
それでも、言っていることは面白かった。名前のない世代。名前すらない世代。たぶん、変わったのは外見で、卑田自身の中身はあまり変わっていないのだろう。口調や言っていることの雰囲気は昔と変わっていなかった。昔から彼はこういう言い回しをする男で、それが今はすこし、見た目のせいで冗談のように聞こえてしまう。
若かりし頃の卑田は、精悍な顔立ちをしていた。いっちゃった演技をしていた頃の沢田研二みたいな顔つきをしていて、ギターを弾いているときはそれなりに画になった。そういえばソニックユースを教えてくれたのも卑田だった。
「よし、気持ちよくなってきた。美佳、ちょっとギターとってくれ」
卑田は賢三が電源の心配をしたのを無視して、歌いだした。
チャーン、チャチャチャチャチャチャチャーン、チャチャチャチャチャチャチャーン……。
「きのうは……くるまのなかで……ねた」
清志郎だった。「スローバラード」か。賢三はあわててカメラを卑野に向けた。
間奏のソロで卑田は怒鳴った。
「美佳! 踊れ!」
「ええ? わたしカルチャーセンターで習ったフラメンコしか踊れないよー」
「それでもいいから踊れ! 供養だ!」
美佳はリズムが取りづらそうに、笑いながらワンピースの裾をひらひらさせた。賢三は必死にこの瞬間を逃すまいとカメラの液晶を見つめていた。最高だ。やっぱりこいつらを呼んで良かった。最高に無様だ。
そうか、自分たちは潮目が変わって、手のひらを返されたのか。ボロアパートの前で、分別したゴミ袋に背中を預けて歌う革ジャンの中年男とそれに合わせて踊る中年女を眺めながら、あらためて思う。みんな騙されていたのか。だからこんな辱めを受けるのか。
ならば、納得だ。
10
コンビニ袋は分別だけで済むから楽だったが、しばらくして道が開けると、ワンルームによくある狭いキッチンが見えた。いくら引田が偏食だったからといって、さすがにキッチンは危険な雰囲気をかもし出していた。シンクが白黒のまだらなのはカビだろうか。美佳は悲鳴を上げて近づかないし、賢三も卑田どう対処するのか、どんな手順でやったらいいのかわからなかった。
カビとホコリの混ざったような臭いがして、のどが痛い。業務用の暴走族がするようなマスクをした卑田は北斗の拳の敵キャラのようになりながら、キッチンの棚を開けた。
「なんかよう、洗剤とかないのかよ」
ガサガサガサガサ。
「何か動いたぞ! でかくねえ?」
「えー? でかいって何? 帰る!」
「おお、洗剤、あった。何この色、もともと? 変色してる? いや、捨てようか」
「そんなことより、さっきのは何だよ」
「ゴキブリくらいいるだろう。え? もっとでかい? ネズミ? どこいった?」
「ちょっと! マジでもう無理なんだけど!」
「いいよいいよ、捨てちまえよ! そこも空にすんだろう?」
「何がいたのよ! ねえ!」
「あのー」
「洗剤買ってこいよ、しばらく浸け置きとかすんじゃねえ?」
「どっかコンビニあったか? おい美佳、じゃあ、お前行ってこいよ」
「その間にそのでっかいの退治しておいてくれるならいいよ」
「あのー、こんにちは」
出ていこうとした美佳の前に、制服を着た中年の警官が立っていた。
賢三たちは、やましいことなどないのに身構えてしまった。悪いことをしているわけではないのだが、この状況が尋常じゃないことくらいみんなわかっている。
「この、アパートの、方ですか?」
口調は優しかった。小太り、眼鏡、口ひげ。一見温和そうな雰囲気だった。それでも、緊張感はなかなか消えない。
「いや、そうではないんですけど。そうですね。ここの大家に依頼された、といいますか。行きがかり上、ここの方付けをすることになりまして」
「はあ、ちなみに、ここにお住まいだった方はご存じで?」
「いやー、知ってるってほどではないですね……」
「そうですか」そう言って警官は部屋を見回した。「こういう部屋とか家って、最近多いんですよね。大体が老人の一人暮らしなんですが、珍しいケースだな。便利屋とか、清掃の専門業者とか入れないんですか?」
「入れた方がいいと、僕らも思っているんですけど、ここの大家がケチでね」
警官は大家を知っているのか、軽く笑った。
「なるほど、分かりました。また、見回りに来ます。一応、人が亡くなった場所ですからね」
警官はそう言うと、部屋に向かって手を合わせた。
警官が帰ったのを見届けると、ずっと黙っていた美佳がせきを切ったように口を開いた。
「ちょっと、何かやばい感じじゃないの? 大丈夫なの? そういえば引田って何で死んだの?」
「いやいや、大丈夫だろう、別に。そりゃ、警官ぐらい来るだろう。人がひとり死んでるんだ」
そう口に出してみて、あらためて異常な状況に自分がいることを認識しなおした。人がひとり死んでいるのか。賢三は実際に死体も見ていないし、引田と交友があったわけではないのでピンときてないのかも知れない。
「んー、風呂屋にでも行くか。最近は広くてきれいな風呂屋が増えたよな。身体を洗いたい。あと腹も減ったな」
卑田は冷静を装う様に、賢三たちを見て、どうした? という顔をした。
「ほら、行こうぜ」
美佳は部屋の中でしゃがみこんだまま動かなかった。
「うん、行くけど……」
「どうした?」
「いや、なんでもない!」
「なんでもないことないだろう」
美佳は明らかに何かうろたえていた。賢三は美佳の視線の先を覗いた。一瞬美佳はそれを隠そうとしてすぐにそれが無理だと気付いたようだった。
美佳の視線の先には、使用済らしい注射器があった。
「マジか……卑田、それ本当にヤバい感じの奴?」
「わかんねえよ、俺だって初めて見る」
「ロックとかパンクとか言ってるから知ってるかと思ったよ」
「知らねえよ。そうゆう曲を書いたことはあるけど、映画でそう言ってたからそうかなって想像して書いただけ」
「だせえなあ……」
美佳は注射器に少しだけ残った液体をじっと凝視したあと、開けてクンクン臭いを嗅いでいた。
「たぶん、本物」
「は? お前何で知ってんの? 臭いとかすんの?」
「臭いは無いの。無いから本物かなって。たまにお客さんがキメてしようって言ってくるから。え? してないよ。大丈夫。あたしそういうところは真面目なの」
「お客さんって?」
「あれ? 言ってなかったっけ? あたしデリヘルやってるから」
「初耳だよ。もー、お前が絡むと話がややこしくなるな」
「えー、でも、劇団のオーディションとかは行ってるよ。ただのデリヘルじゃないのよ」
「え? お前まだやってんの? 諦めてないの? あと、それはただのデリヘル嬢だから!」
「だって受かると劇団の登録費用とか、レッスン料とかでもろもろ二十万くらい飛ぶのよ」
「お金取られるの? マジで? それは詐欺なんじゃないの? 大丈夫なの?」
「でも、紹介されて行くのもあるから断れなくて……うちらの世界横のつながりが命だから」
「それって……完全に貧乏劇団、いや詐欺グループに情報がいっているってことじゃないか……」
「えー? そうなの? だから初日からデリ子って呼ばれるの? ウソ?」
「デリ子って呼ばれるの?」
「呼ばれるのー。何で知ってんですかー! って突っ込むんだけど、みんな笑ってたんだよねー」
「……ひどい」
「ひどいな……」
11
賢三たちは車で、近くにあるスーパー銭湯に向かっていた。体に臭いがついているのか、鼻がおかしくなったのか、車の中がかび臭い。
「悪い、この車禁煙なんだ」
賢三はバックミラー越しに後部座席で足を組んで煙草をくわえた卑田に言った。一瞬「はあ?」と驚いた顔をしたが、すぐに何か納得したような顔をして言った。
「煙草やめたのか?」
「そうだね。子供ができて、家買って、あと、車も買ったのか、そういうのが重なって、なんか、面倒くさくなって。やめた」
「ふん。そうか、何かを手にすると何かを捨てなきゃいけないんだもんな。すんなりやめられたのか?」
「意外と」
「小説書くのも?」
「ああ、絵莉子と別れた時にそのまま、やめた」
「絵莉子か、懐かしいな。絵本描いてんのかな、まだ」
「たぶん。でも、もう十年以上会ってないからなあ」
しばらくの沈黙。美佳もさっきの話で落ち込んだのか、助手席で黙り込んでいた。
「卑田は、まだ音楽やってんの?」
「やってる……といえばやってる」
「そう、バンドで?」
「ライブハウスに金を払えば、高校生だってライブができるからな」
「そっか」
車内にはザ・スミスの「クイーン・イズ・デッド」が流れていた。
「スミスか、悪くねえな」
卑田は後部座席でカチャカチャなっているゴルフバッグが気になったのか、座席の後ろを覗き込んだ。
「お前、ゴルフなんかすんのか」
「ああ、会社の連中と」
「お前、人生終わってんな」
そう言うと卑田は持て余していた煙草に火を点けた。止める間もなかったので諦めて放っておいた。煙草の香りが車の中に漂う。いい匂いだな。賢三は煙草を止めて久しいのになぜか煙が嫌いにならなかった。いまだにいい香りだと思ってしまう。吸いたいという気持ちはさすがに起こらないが。
「就職して、結婚して、子供が出来て、家を買って、休みの日にゴルフなんかしてるんだな。はははは、後はローンを返して、定年まで働いて、死んでいくんだな」
「ちょっと卑田、飲みすぎじゃない? からまないでよ。雰囲気悪くなるから」
「いや、別にいいさ。終わりか。うん。やっぱり、そうか」
「そうだ。終わってなんかないって言うなら、スミスなんか聴くな。エグザイル聴け。エグーいエグザイルを聴け。ひゃひゃひゃ……」
終わっていたのか。そうか。だからこんなにも虚しいのか。くそ、このハゲやっぱり面白いじゃないか。そういう卑田は悲しそうな目で窓の外を見ていた。ハゲのくせに。
12
賢三たちは黙々と一日の汚れをいつもより入念に落とした。
最近の銭湯は昔と違って広くきれいだった。無駄にいくつもの湯船があって天然石の力がどうのこうのとか、微弱な電流が流れているお湯だとか、何の効果があるのかよくわからない、うさんくさい文句が並んでいた。
卑野は濡れた薄毛をだらしなくおでこにへばりつかせながら、浴槽のふちでくつろぎながら言った。
「……ちゃんと死んだ引田は偉いよ」
「ちゃんと?」
「ちゃんとさ。芸術的だ。あれは、たぶんクスリで死んだんだろう。ゴミだらけの部屋で、クスリやりながら絵を描いていたなんて最高じゃないか。超クールだ」
不思議と賢三も、引田が悪いことをしたという感覚がなかった。卑田ほど、憧れるような感覚はないにしても、クスリは絶対悪、ダメゼッタイ、とは思っていない。本人がクスリによって駄目になっていくこともすべて受け入れて、行くところまで行くつもりなら、それは許されるような気がした。それは、一種の自殺のようなもので、賢三たち他人がそれを咎める正論を吐いたところで、俗っぽく、陳腐になるだけだ。
「そうか、そうだな……クスリは誰にも迷惑かけてないもんな。犯罪じゃない」
「違う違う! わかってねーな。犯罪だとかそうじゃねえとかじゃねえんだよ。あとな、迷惑はかけてんだよ、俺たちとか、親とか大家にもだけど。でもよ、いいんだよ。それすらうらやましいぜ。なんつうか、迷惑をかける側とかけられる側なら、やっぱかける側でありたいよな。かけられる側なんてさ、結局俗物なんだよ。世間一般。パンピー。あいつはよ、その世間一般って奴を超越したんだから。あの野郎はもしかしたら死ぬ間際、世間って奴をあざ笑って死んでいったかも知れねえぜ」
「うーん。言っていることは、わからなくはないけど。でも、ちょっと引田の死を美化しすぎてないか? 引田の絵が少しでも世に出ていれば、芸術的な感じもするかも知れないけど。いまはまだ、ただただ、だらしなく死んでいったようにも見えるんだよ」
「いや、世に出るとか出ないとか、そんなことは俗物の考えることだから関係ねえんだって。好きなことをしながら死に向かっていく、ってだけで、いいじゃねえか」
卑田はザブッと頭を湯船に潜らせてから、顔を上げた。顔でも洗っているつもりなのだろうか。「地獄の黙示録」のカーツ大佐のマネではなさそうだ。
「俺たちは、ずるずる生きながらえているから、醜いんだよ」
「ほんとだな」
卑田の見た目があまりにも醜かったのでからかってやろうかと思ったが、思いのほか真剣な顔をしていたからやめた。
「うらやましい……引田のことが、死ぬほどうらやましい。お前にはわかんねえだろうな。クソ、死ね」
13
卑野は部屋に帰ると、まだまだ残っているゴミをかき分けて奥にあったパイプベッドに寝転がり、帰るのがめんどくせえからここで寝ると言い出した。
賢三と美佳はちょっと怖くないか? とか、布団汚くない? とか言って止めたのだけど、かなり酔っていた卑田は聞く耳を持たず寝始めた。
美佳は何やらさっきから携帯で誰かと話している。
「だからー、友達のうちだってー。本当。えー? いまから? 遠いよー。今日は行かない。だってこないだもじゃん、やだあ。えー、でもー。うん。そうなの? うん。本当に? 大変なの? えー。もう」
電話を切った美佳は、一人ぶつぶつと文句を言っていた。
「彼氏?」
「ううん。デリ。困ってるんだってー。急に休まれて。ちょっと行ってくるね。もし帰ってこれなそうなら明日の朝にここに来ればいい?」
「彼氏にわがまま言われて困ってるようにしか聞こえなかった。ポン引きとそんなに仲良いんだ? どこまで行くの? 送っていこうか?」
「いや、大丈夫。電車の方が早そう」
「うん、そうか。何ていうか、ま、気を付けてな」
一体何に気を付けるのか、とりあえずそう言ってみた。ヘルスをデリバリーする女を見送ったことなんてないからどんな言葉をかけるべきか良くわからない。
賢三のそんな顔を見て美佳は笑った。
「何? そんな顔して。カントクが思ってるほど暗い仕事じゃないよ。ほとんどのお客さんは優しいし、怖い思いとかって意外とないんだよね」
「そうなんだ」
「むしろ優しいな、このお客さん、って思うことの方が多いかも。基本初めての相手なわけでしょ、だからお互い手探りだから、優しくするんだよね。痛くない? とか言いながら。売れねえ役者の方がよっぽど前戯が雑。意外でしょ?」
「そんなもんなのか……ふーん」
「じゃ、行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい」
美佳が出かけて行き、卑野が寝てしまうと、賢三は何だか置いてけぼりにされたような気分になった。車のシートを倒し、横になる。
「……きのうは、くるまの、なかで、ねた」
思わず「スローバラード」を口ずさんだ。
口ずさみながら、色々なことが頭をよぎった気がした。家族の事、仕事の事、若い頃の事、引田の事、卑野の事、美佳の事……。たぶんそのどれもがまとまりなく、はっきりと意味のあるものでは無かったのだろう。
このままビデオを回し続けて、編集をしてナレーションをつければ、何かの意味は生まれるのだろうか。最後のカットは、一体どんな映像で、どんなメッセージになるのだろうか。
そんなことをだらだらと考えているうちに風呂で温めた身体が、眠気を誘った。
14
車の中だと寝返りが打てないので、眠りが浅い。深夜三時に目が覚めた。賢三はもう一度寝付く為に卑田のビールをもらいに行こうと、引田の部屋に向かった。
ガササササ……。
ドアを開けると奥から物音がした。あ、さっきのネズミか、と体に緊張感が走った。部屋は暗いので音を頼りに様子をうかがった。
キュー、グチャ、ウー、ウオッ。
何だ? 昼間にいたのはネズミじゃないのか? もっと大きな動物の音だった。
ムギュー、グギャ、ウウウ。
賢三は視界を確保するのにムービーのスイッチを入れ、ライトをつけた。パイプベッドの布団はゆさゆさとゆれている。
「あ……」
卑田と美佳がやっていた。賢三は思わず息をひそめ、ライトを消した。何こんなゴミだらけのところでやってんだよ。そんなことを思いながらカメラは止めなかった。ノイズがすごいが、ギリギリ映っていそうだ。
布団をかぶっているのか、どうやらこちらは見えていないようだ。気が付いたら賢三は執拗にカメラを回していた。たまに布団から見え隠れする中年の身体の肉感が、映像素材としてあまりに魅力的だった。
お世辞にもきれいなものではないその光景は、普段目にするアダルトビデオや映画のベッドシーンとはかけ離れていた。卑田の足は毛深いし、美佳の身体は肉付きが良すぎてブルブルとたるんでいた。あらためてああいう映像は現実とかけ離れていて、人が見るためにきれいに作られているんだな、と思った。
そしてその光景は、賢三たちの現実はどちらかというとこっち側であることを雄弁に語ってきやがる。もっと近くで撮りたい。賢三は異常に興奮していた。もちろん映像素材として。
しばらくして動きが止まった。終わったのだろうか。
何か二人が会話らしきものを始めたようだが、断片的にしか聞き取れない。
「……ん、ねえ、そっちはゴミがあるからもっとこっちに来なよ」
美佳は布団から身体を起こした。窓から入ってくる月明かりが逆光で美佳の上半身を浮かび上がらせた。卑田はどうやら彼女の身体に顔をうずめているようだった。
「卑田、泣いてるの?」
美佳はずっと、卑野の薄くなった頭を撫でていた。母親が子供を寝かしつけているように。
「かわいい……」
賢三はカメラを止めてこっそりと部屋から出て行った。
15
「起きろ、いつまで寝てるんだ」
窓をたたく音で、目を覚ました。車のシートから身体を起こすと、昨日の革ジャンではなく作業着を着て頭にタオルを巻いた卑田とジャージ姿の美佳がいた。二人は妙に楽しそうだった。昨日のセックスで付き合いたてのカップルみたいな気分になっているんだろうか。だとしたら気が滅入る。
「カントク、遅い! もうみんな来てるよ」
「みんな?」
「カメラ、カメラ、回しとけよ」
賢三は引田の部屋の前に向かった。そこにいたのは、さっぱりときれいな服を着た中年女性と緑色の蛍光スーツを着た初老の男だった。
「人手が足りねえから、来てもらったんだ。絵莉子とオカマに」
「あんただけ痛くないのはズルいもんね」
美佳はそう言うと顔をひきつらせた賢三を強引に引きずっていく。賢三に気が付いた絵莉子と目が合った。
十年ぶりだった。無意識に、かつての絵莉子と変わっていない部分、変わった部分を探していた。変わっていないのは小柄で華奢な雰囲気と、まぶたの上できれいに切りそろえられた前髪。変わったのは、なんだろう、皮膚の質感なんだろうか、肌が薄くなったように感じた。痩せたのだろうか。
「賢三くーん、ごめんねー、違うのよー、アタシも行こうと思ったんだけどー、いろいろ忙しくてー」
オカマは反対の腕に絡みついてきた、賢三は乱暴に二人を振りほどいて奴の顔に人差し指を突きつけた。
「お前、良く来れたな。もとはと言えばお前が僕を騙してここの片付けを押し付けてきたんじゃねえか。僕に面倒を押し付けてきやがって。引田ん家って知ってたんだろ? 何でいるんだよ」
「だってー、美佳ちゃんがー、映画撮ってるっていうから」
「ていうかお前、美佳や卑田も葬式の連絡してんだろ? そんで自分は葬式行かなかったのに映画の撮影なら来るってどうゆう神経だよ」
「だってー、なんか楽しそうだったんだもん」
「楽しかねえよ、なんだその格好は? 何はしゃいでやがる」
「だって……」
「大体お前は専門学校の頃からそうだよな。なんだったんだあの授業は。あの学校出て何とかなったやついるのかよ。あと入学金とか授業料とか、あれはぼったくりだったんだろ?」
賢三の言葉に被せるようにオカマは奇妙な奇声を発し、弱々しく賢三を突き飛ばした。
「アタシだって大変だったんだから! 学校は三年で潰れて校長は失踪するし、その時の生徒達からは吊し上げだし、もろもろの手続きさせられたせいで再就職できなかったし。いまさら引田が死んだからってなんなのよ! なんでアタシの所に連絡が来んのよ。アタシにゃ関係ないわよ。あんた達に連絡したのだって人の情けって奴じゃない。アタシに関係ないでしょうが!」
絵莉子は賢三の前にすっとその細い腕を伸ばして制止した。
「賢三、もういいじゃない」
「ああ……うん」
美佳はニコニコしながらオカマの顔を覗き込みながら聞いた。
「それでも、ここには来たんだね。先生。なんで?」
「う……」
オカマはなぜか心臓発作のように胸を押さえながら言った。
「そうよ、ここ、引田のアパートだって知ってたわよ。でも、みんなで集まって映画を撮るっていうから……アタシだって、まだ、芸術性の発露というか、創造的な暮らしというか、表現の場というか、いや、この人生に、何か、意味が……」
座ったままオカマは泣いた。オカマは賢三たちが学生の頃もうすでに中年だったから、もう一般的な社会人ならば定年の年なのではないだろうか。そんな彼の中にいったい何が疼いているというのだろう。
美佳は絵莉子とオカマに、賢三がドキュメンタリー撮るとらしいということと、ここがゴミ屋敷になっていることなどを説明すると、思い出したようにこう言った。
「あ、そうそう。あたしたちも騙されて来たんだよね、ここに。カントクが映画撮るっていうから来たんだ。ほいほいとね。バカでしょ。実はオカマの事言えた立場じゃなかったりするの。ウケるでしょ」
卑田は苦虫を噛み潰したような顔で煙草に火を点けた。
「だからあんな専門学校が出来たんだろうな。俺たちは見透かされてたんだよ。ああいうものに飛びつくだろうってな。俺たちはあの頃から何も変わってねえ、何も成長してねえってことさ」
――僕だけが痛くないのはズルいのか。
美佳に言われた言葉が案外痛い。頭から離れなかった。
「さあ、時間だ。プラごみもっていくぞ」
卑田はオカマをその場に残してゴミ袋を集積所に運ぶ作業を始めた。
たまたまだったのか、無意識にそうしたのか、賢三は絵莉子と並んで歩いていた。
「絵本はまだ描いているの?」
「うん……一応」
そういった絵莉子の表情は、感情が見えづらかった。構えているカメラに一度だけ視線を送ったが、それにはふれなかった。何も言わず、ゴミを運ぶ卑田の歩く様をぼんやりと見つめながら、ふわふわと後をついて行った。
ゴミ袋を収集所に投げ捨てて両手が空いた絵莉子は、そこで初めて意思らしい何かを見せた。
「結婚したんだ? 子供は?」
絵莉子はチラッと賢三の薬指を覗き込みながら言った。
「ああ、娘が、ひとり」
「いくつ? 六歳、そう。かわいいさかりでしょ」
絵莉子はそのまま何かを言おうとしては、それを飲み込んだ。飲み込んだ代わりにニッコリと微笑むと、何度か頷いて、卑田と美佳の元へと小走りで駆けて行った。
「絵莉子ー、変わんないねー、二十代に見える!」
美佳は絵莉子を抱きしめた。絵莉子は照れ臭そうに笑っていた。
「よく来たなー、暇だったのか?」
「まあまあ。みんなほどじゃないけどね」
「そうか! ははは。とりあえず分別の方法を教えるからよ」
絵莉子は不思議な女だ。空気感が一変する。昔からそうだったけど、周りが明るくなる。
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二人も人手が増えると、作業の進みは速かった。絵莉子はキッチンを磨き、賢三と卑野は燃えるゴミの袋詰め。美佳とオカマは風呂とトイレの担当になった。
面白いもので、ゴミが床に近づけば近づくほど、袋の中身にバリエーションが生まれてくる。菓子パンばかりではなく、カップ麺の容器が出てくることもあれば、コンビニ弁当の容器が出てくることもあって、袋によっては、カビや腐敗でひどい臭いがするものもあった。でもそれは引田が、この頃はまだ人並みに食事をとっていたということで、初めて感じる彼の生活感というものだった。
少しずつ床が見えてきた。フローリングというより板張りの床は、うっすらと白く、ところどころが黒くなっていて、掃除だけではなく本格的な修繕が必要そうだった。不意に大家の顔が頭に浮かぶ。彼女にだって彼女なりの現実問題としての損害があるんだな、と思った。
「ねー、カントクちょっといい?」
風呂場から美佳が声をかけてきた。賢三はカメラを片手に覗くと、オカマが脱衣所でブルブルと震えていた。
「どうしたの?」
「なんかオカマがうるさいんだけど」
「あら、カメラ。これ、回ってるの? 緊張しちゃうわー」
緑色のスーツを着たままのオカマはくねくねしていた。
「だから、どうしたの?」
「うん、あのね、こういう所のお風呂とかトイレってさ、すごいんじゃないの? 虫とか髪の毛とか床もドロドロで、ウギャー、ってなっているんじゃないの?」
「何かずっとそんなこと言ってくんの。そんなこと言われたらあたしも嫌よ。ねえ、カントク開けてよ」
「えええ……」
「せっかくカメラ回してんだからさ、衝撃的映像も撮っておきなよ。あたしたち新鮮なリアクションするから上手く編集してねん」
なるほど、確かに不思議なもので、カメラを回していると恐怖心が半減した。こんな奴らに乗せられるのもシャクだが、まあ、いいだろう。
「わかったよ。開けるよ? せーの」
賢三は息を止めて風呂場のガラスのドアを開けた。
「ぎゃあああああああ!」
「ひいいいいいいいい!」
「いやいや、待て待て、リアクションが早い! まだ映ってない! ん? あれ? 何だ?」
「なに? なに?」
「何かいたの? 未知の生命体とか、独自の進化を遂げた新しい生物とか?」
「いや、違うんだよ。何か、普通じゃない?」
「あれ、ほんとだ。あれれ? 拍子抜けしちゃうね」
賢三は一通りカメラを回した。築年数分の古さはあるものの、ドロドロのぐちゃぐちゃという想像とはだいぶ違っていて、まあまあ普通の浴室だった。シャンプー、リンス、ボディソープがちゃんと揃っていて、タイルの床は、多少目地が黒ずんでいるものの、タイル自体に汚れはなかった。そのまま入ってもよさそうな状態だった。
「お風呂は好きだったとか? あ、クスリ抜くのに入ってたとか?」
「さあ? まあ、きれいな分にはいいんじゃないかしら」
美佳が、何かを思い出したように声をあげた。
「あ、そういえばさ、布団がね、意外ときれいだったのよ」
そう言われた賢三の脳裏には、当然昨晩のセックスのことが浮かんだ。よくまあ、堂々と布団のことなんか言えたものだ。
「布団? ここの? あなた昨日ここで寝たの? えー? 怖くないの?」
「わかったわかった、ちょっとオカマは黙ってて。えっと、それは、洗濯してあったってこと?」
「たぶん」
美佳はそう言ったまま首をかしげた。部屋にゴミがあるのはいいのに、風呂とか布団が汚いのは嫌なのか? ゴミ屋敷の住人の衛生感覚はいまいちわからない。
「トイレも? ああ、大丈夫だね。普通に使えそうだね」
「あー、そういえば昨日、卑田が普通にトイレ使ってたね。その時何も言わなかったもんね、汚い! とか。思い出した」
「洗面台は?」
「うん、こっちも……あ、こっちの方が汚れてるのね。何これ? 血?」
「いやいや絵の具だね。ホラーじゃないんだから」
洗面台が絵の具で汚れていた。飛び散った絵の具や、鏡についた絵の具を指でこすった跡が、まるで抽象画のように見えた。
「なんだかとってもアーティスティックね。素敵だわ」
オカマはうっとりと両手を胸の前で合わせてくねくねしていた。
「ねえ、キッチン終わったよ」
そう言いながら洗面台を覗きに来た絵莉子は洗面台に視線を止めた。
彼女がそれを見ている間、なぜか賢三たちは黙り込んだ。絵莉子がそれを見ていると、不思議と本当に芸術性があるように思えてくる。
17
少しずつ彼の生活が見えてくるが、見えてくれば見えてきたで、また新たな疑問もわいてきた。キッチンは使わないが、洗面所は使っていたのか。キッチンが使えないくらい汚れたから菓子パンばかりになったのか、菓子パンばかりを食べるようになったからキッチンを使わなくなったのか。
それぞれの持ち場の作業がひと段落したところで、みんなは自然とワンルーム側に移動して一ところに集まっていた。分別作業を進めながら、絵莉子がふとこんなことを言い出した。
「私、引田君の絵が好きでさ、良いのがあったら持って帰りたいんだけど、そういうのって見つかったの?」
「えー、悪趣味」
「そう? 印象派の雰囲気ってあんななのよ。ルソー。アンリ・ルソーみたい、ってわかんないか。あはは」
「美佳ちゃん知ってる? 知らないでしょー」
「そっか、そっちのルソーじゃないよ、社会契約論じゃないよー、っていう突っ込みもいらないか」
「あらー、絵莉子ったら知的」
「ありがとう、先生」
「先生ですって……! もう一回、もう一回言ってちょうだい!」
「え……? 先生……」
「ああーん、久しく呼ばれなかったこの響き。ねえ! ちょっと!」
オカマは突然キッと賢三を、いや、カメラを睨んだ。
「アタシだって寺山修二先生に憧れて青森から上京してきたの! 寺山先生も知らない人たちにオカマオカマって呼ばれてるけどね、映像作品を作るならちょっとあたしの意見も聞いてよね」
「何? 急に。一応聞くけどさ」
「いまそこにスペースが出来たでしょ、ゴミがあったところ。そこにキャメラ置きなさい。三脚は? 無いの? 信じらんない。じゃあ、キッチンに置いて。そうそう。わたしがここに座るから、撮ってて。ずっと。独白よ。独白。わかる? あ、賢三君なに引いてんのよ? 寺山先生っぽい感じゃないの。わかんない?」
取りあえずオカマのテンションが変なので、面倒臭かったが、独白とやらをさせてあげることにした。万に一つ面白かったら儲けものだし、面白くなくても、それはそれで面白くなかったことを残してやろう。
ちなみに、美佳は本当に興味がわかなかったらしく、昼食の買い出しに出て行った。
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独白というのは、カメラの前でピンスポットの中ひとりしゃべりをすることらしく、明りが入らないように窓をダンボールでふさいだり、照明がないので、代わりにみんなのケータイのライトを利用したり、意外に手間がかかりやがった。しかもオカマは自分の世界に入り込むために準備は手伝わなかった。なんだこれは?
「(なぜかきつい訛りの津軽弁)俺の田舎はよう、とにかく風の強い村でよう、冬になると雪は当然降るんだけどよう、それよりも北風が吹くと海からの風が吹雪みてえになるんだよ、それがまたしばれるのよ。小泊っていう貧しい漁村だったんだけどよう、その漁村のなかでもうちは親父が博打好きだったから余計に金が無くてなあ。そんなうちの四男坊だったんだよ。小遣いも、おやつもなんもねえのよ、全部上の兄貴に持っていかれんの。上の兄貴の機嫌が良けりゃ、二番目の兄貴がもらえるけど、その二番目の兄貴の機嫌が良くて、さらに三番目の兄貴の機嫌が良くて、はじめて俺はありつけんの。でもよう! そんなことはめったにねえよ。だいたい誰かが持って行っちまうのよ。下には下があるんだな。関東よりも下の東北で、青森の中でも田舎の小泊で、小泊の中でも貧乏な家でよう、その貧乏な家で一番下だったんだよ。でもそのときは分かんねえもんなんだ。自分が下にいるなんて。生まれてからずっとそうだから、わかんねえんだなあ。……母ちゃんは、他の兄弟よりは優しかったけどよ、いっつも疲れてて、なんか忙しそうで、あんまりかまってくれなかったんだ。でもよ、きれいだったんだ。たぶん。でもよ、歯が二本無くて、笑うと変な顔なの……」
「(小声で)これ、もしかして、長いやつか?」
「たぶん」
「そんで俺は逃げ出すように集団就職の列車に乗ったんだ。寺山先生に憧れて上京ってのはウソだ。俺はぎゅうぎゅうの列車で何時間もかけて上京したんだ。寺山先生を知ったのはずっと後だ。本当は町工場で殴られながら朝起きてから夜寝るまでずっとプレスするステンレスを運んでは磨いてたんだよう。労働基準法なんてねえのよ。残業も有給もなんもねえの。永山則夫って知ってるか? あの頃の俺らはよ、ピストルさえ持ってれば、みんな永山みたいになってたよ。永山はたまたまピストルを手に入れただけだ!」
「永山? 小説家だっけ? 死刑囚の」
「ああ、あれか、連続殺人事件? 集団就職と関係あるの?」
「さあ、わかんないよ、名前聞いたことあるってくらいだもん……」
「工場がきつくて逃げ出してよ、そのときたまたま古本屋で万引きしたのが寺山先生の本だったんだ。ビガーッて雷が落ちたみてえだったよ。芸術とか、表現とか、そういうものが世の中にはあって、俺みたいなやつのこういう、なんていうか上手くいかない気持ちをよ、バーッて出していいんだって、気付いてよ。演劇がやりてえなあ、っていろんなとこ回って演劇やりたいです、って言ったんだけどよ、新入りは雑用ばっかさせられんのよ。なんだよ、どこ行ってもこき使われんなあ、って思ったけどよ、まあ、しばらくは我慢だと思ったんだよ。でもよ、なんか思ってたとこと違ってよ、結局体育会系の奴がもてんのよ、そんで、後輩なのにそいつは役とかもらえんの。ほんで俺、あんまり我慢ならねえから、座長に言ったんだよ、なんで俺役もらえねえすか? って。そしたらそいつ、お前は訛ってるから、って言うんだよ。馬鹿こくな! 寺山先生だって青森だべ! って言ったけどよ、うちはああいうのじゃないって言うのな。もう駄目だ、田舎帰りてえ、母ちゃんに会いてえ、って電車に乗ったんだけどよ、金が足んねえから新宿で降りたのよ。そんときに飯食わしてくれたのが、二丁目のみんなでな……」
オカマが泣きだしたところでちょうど美佳が戻ってきた。
「ただいまー。うわ、まだやってんの? ご飯食べよう?」
「そうだな。カメラを回しとけばいいんじゃね?」
「いいのかなあ……」
「だって俺らもはや関係なくなってるもん」
賢三たちはしゃべり続けるオカマを置いてそーっと部屋を出た。
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賢三たちは美佳が戻ると、アパートの外でコンクリートに腰を下ろしコンビニ弁当を食べ始めた。食べ始めてすぐ卑田は言った。
「なんだったんだ! ありゃあ」
「でもさ、寺山先生も青森だべ! って、ちょっと良いよね」
絵莉子は微笑みながら言った。
「それはいいの? 何が?」と美佳。
「うん。なんか良いじゃん。ちゃんとドキュメンタリーになったら見せてよね」
「なるの? これ。面白いの?」
「うーん、まあ、撮ってみてかな。ドキュメンタリーだからさ」
今日も昼間から飲み始めた卑田は、弁当のお新香をちびちびとつまんでいた。
「寺山修司か……。あの時代の感じだよな。なんていうか、ちょっとどぎつい感じな。六十年代から七十年代の。たぶん、オカマと同年代って、寺山修司よりちょっと下の、頭脳警察とか、森田童子なんだよ。三上寛とか友川カズキとかもそうだろうな。あの時代はあの時代で、何かと苦しかったっていうことか」
「それは、いつの時代も、ってこと?」
「さあねえ、どうだろう……? まあ、世間になじめない奴ってのはいるわな、いつの時代も」
「ところで卑しー、絵は見つかった?」
「そういえば絵はまだ出てきてないな。ほら、この辺のゴミにも絵の具はついているから描いてはいるんだよ。さすがにこんなところには置いておかねえか」
「押し入れは? その奥押し入れでしょ、そこにあるんじゃない?」
「その奥なら、もうちょっと片付かないとな」
さっきまで暗い部屋にいたせいか、寝不足のせいか、外がやけに眩しい。暑くもなく寒くもない、良い天気だった。
談笑するみんなをぼんやりと眺めながら、ドアの向こうではオカマがあまり幸せじゃない半生を語っていて、その部屋では先日引田が死んでいる。いまだに現実感が無いな。嘘みたいだ。
「さよなら、さよなら、こんないいお天気の日に……」
中原中也だったっけ? 最近こういうのが思い出せない。昔は映画のタイトルとか本の題名とかって忘れなかったんだけどなあ。
ふと絵莉子と目が合った。絵莉子はなあに? と首をかしげたけど、賢三は「別に」と首を振った。
「しかし、外は良い天気だなあ」
賢三はまるでカメラに向かって演技するように言った。カメラは室内の独白を録画中だから回っていないというのに。
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たぶん出ていたのは三十分くらいだったか。一応賢三たちは音が出ないようにそっとドアを開けて、物音を立てないように部屋に戻った。
「……そのときに会ったのが彼だったの。彼は私の肩を抱くと、一緒にその芸術性を次の世代へ伝えてくれないか? って言ってくれたの。嬉しかった……。私があの学校と一緒に失ったのは、仕事ではないのよ。愛。そう、愛だったのよ」
「やっぱりまだ喋ってるな」
「口調がオカマに戻ってるね」
「ちょっと途中が気になる」
「彼の事を悪く言う人は多いけど、ワタシ彼は純粋な人だったんだと思うの。純粋な芸術家で、ちょっと不遇な人。でも、みんなそうじゃない。不遇の人とそうじゃない人の間にあるものって何? 少しの運じゃない」
美佳は小声で賢三らに言った。
「ねーねー、校長って芸術家だったの? あとさ、あの学校って経営難で潰れたの? そうじゃなくて、あの校長が持ち逃げしたって聞いたんだけど……」
「そうなの?」
「じゃあさ、あの校長って何者だったんだ? 芸術家なのか? ただの変態の詐欺師なのか?」
「フランスの美大の教授だったって言ってなかったっけ……? だいぶ前らしいけど」
「嘘臭えなあ、それ裏取ってんのかよ。漠然と教授って、専攻とか専門とかあんのか」
「オカマがさ、昔シュールレアリズムの人だって言ってなかった?」
「シュールレアリズムの人って何だ? 悪い冗談って意味か?」
「画家なのかな? 誰か作品見たことあった?」
「いやー、無いね。でもさ、ヒゲはすごかったよな」
ヒゲ。確かに校長は漫画に出てくるキャラのようにクルリと丸まったヒゲをしていた。まさか、オカマはそれだけで信用したってのか。
「先生は、騙されたのかな? 借金とか残ったのかな?」
絵莉子は腕を組んで頬づえをついた。昔から考え事をする時の癖だ。
「騙されたんじゃねえ?」
「でもあの感じだと、オカマは騙された、って思ってないんじゃない?」
「じゃあ……いいのかな」と絵莉子。
「ええ? いいの?」
「いいって? 良くなくねえ?」
「うん、でも、もう十五年も前の話だし、本人がまだあの校長の嘘を信じてるんでしょう? やむにやまれぬ選択だったんだって思ってんでしょう? だったらそっとしておけば?」
「そうなの? まあ、あたしたちだって本当の事はわかんないけどさ」
「うん、だから、いいんじゃない? そっとしておこうか」
絵莉子の言葉にみんなが少し驚き、彼女の表情をうかがった。彼女はまっすぐにオカマを見つめていた。
「騙されたと思って生きるか、はらから見たら怪しくてもそれを信じて生きるか、どっちが幸せかってことか? 新興宗教にはまった奴の話みたいだ」
卑野はやれやれと肩をすくめてみせた。でも、絵莉子の表情は硬いままだった。
「そうじゃなくて。ほら、もう、現実問題として事実がどうだったかは関係ないじゃん。仮にいま本当のことがわかって、知ったとしても、何も変わらないじゃない。平穏な暮らしが無くなるだけで、それに見合う何かは得られないんじゃないかな?」
絵莉子はすっとカメラの前を横切って窓ガラスに掛けてあったゴミ袋を剥がした。
窓からの光が部屋を白々とさらした。
「ちょっと! いま独白中なんですけど!」
「ごめんね先生! ちょっと時間が無くなってきちゃったみたいなの」
賢三は黙ったままライト代わりにしていたケータイをポケットにしまい、カメラを手に取って残りの撮影時間やバッテリーの確認をした。
「さて、ゴミ袋系は午後のうちにやっちゃおう。あ、オカマ、お弁当あるよ。ビールも」
「あーん! まだ途中なのにー。続きは? ねえ? 別日でもいいわよ」
マジか。こっちはこんな空気なのに全然やる気だ。
「あ、うんうん。そのうちね。うん。来世とかね」
「ちょっとー!」
ゲラゲラゲラゲラ……。ったくしょうがねえなあ、お前らは……。とかぶつぶつ言いながら卑田は吸い終わったタバコを手にしていたビールの缶に入れた。
「あ、卑田それやめてよね、後から取り出すの大変なんだから」
「んああ……? あ、やべえ、水分が入ってなかった」
空き缶から煙が出ていた。みんなで「え? どうすんの?」と卑田を見ていたら、卑田は「熱い!」と叫ぶと缶を放り投げた。
空き缶は嘘みたいにゴミ袋の隙間に吸い込まれていった。
「え? 消えた? 消えてない?」
「しっ!」
全員じっと黙って、空き缶の行った先に耳を傾けた。
やっぱりというかなんというか、チリチリとビニールの焼ける音がした。しばらくすると嫌なあの身体に悪そうな臭いもし始めた。
「ビニールはヤバいって!」
「いったんその辺だけ部屋の外に放り出して!」
「煙増えてない? 大丈夫?」
「卑田! 働け! あ、お前ブーツ履いてんだから踏め。踏め!」
「踏むのは危なくねえか? 無茶いうなよ!」
「袋持つの怖い!」
「水は? バケツ無い? 風呂場、風呂場」
「もういい! こうじゃ!」
卑田は作業着のズボンを下ろした。止める間もなく卑田は放尿した。ビニールを打ち付ける水の音と、全員の冷たい目のなかの放尿。ダジダジダジダジダジ……。なんだかやけに長く感じた。
煙は消えたような気がするが、念のため風呂場から汲んだ水を撒いた。全員が初めからそうすればいいのに、と思った。
「ここから先は全部卑田がやれよ」
「あたしたちそっちいかないから」
「卑しー、私もさすがに……ごめん」
「臭いー、あたしこういうことする人マジで嫌い」
美佳は本気でしかめっ面をして部屋を出た。
「おい、ちょっと待てよ!」
それを追う卑野。
部屋の外からは痴話げんかのような声が漏れ聞こえてきた。
なんなんだこの状況は……。
なぜか取り残された賢三らは、黙々と作業を始めた。
21
しばらくして卑田と美佳が帰ってくると、なぜか卑田が放尿したエリアを二人で片付け始めた。二人の距離感が妙に近い。一体部屋の外でどんなやり取りがあったというのだろうか。なんとなく想像つくような、想像したくもないような感じだったので、放っておくことにした。
「あ、テーブルだ。彼も一応こういう物って持ってたのね」
オカマはしみじみと言った。すると絵莉子も微笑みながら言った。
「じゃーん、昔のジャンプ見つけた。ひえー、ふにゃふにゃだ」
「ジャンプなんて読むんだ」
「いくら引田君でも、ジャンプ読むことくらいあるでしょう」
「ああ、まあ、そうだろうけど」
賢三は少し残念だった。勝手に彼をアウトサイダーアートの芸術家という存在に仕立て上げていたせいか。
いや、出てきたのはジャンプだけでなかった。
「ワンピース……!」
賢三はコンビニ袋の隙間からワンピースの単行本を抜き出しては、わなわなとふるえながら見つめていた。単行本には古本屋の値札が付いていた。付近を捜索すると、さらに数冊出てきた。なぜか巻数は飛び飛びで順番もめちゃくちゃだった。
「なに? ワンピースがどうしたの? 読むでしょ、そりゃ」
オカマの反応があまりに普通だったので、賢三は会社でワンピースなんか読んでいる奴らと話なんか合わないと思って日々生きていること、そしてそれを隠して暮らしていることが急に照れ臭くなり、言い出せなかった。
「えっと、絵莉子も、読むの?」
「え? 私はマンガあんまり読まないから、よくわかんない」
「ああ、そう」
絵莉子の返事はなんの意味も重さもなかった。なんだ、俗であるとかないとかを気にしながら生きているのは自分だけなのか。
「このあたりのゴミには、いままで以上に生活感があるね。食べ物以外が結構出てくる」
絵莉子は給与明細と求人雑誌を黒と白のまだらに汚れたテーブルの上に置いた。
「バイトはしてたんだね」
「そりゃするわよ。絵描いてるんだもの」
給与明細にはあまりメジャーじゃないコンビニの社名が書いてあり、深夜手当の項目に金額が書いてあったから、夜中に働いていたようだ。時給九百五十円。まあまあ良いような気もするが、深夜ならもっともらっていてもいいのだろうか。
「深夜のコンビニか、絵を描いて暮らすってそういう感じだよね」
絵莉子は妙に納得していた。
「なあ、絵莉子も他に仕事をしながら絵本を描いているの?」
マスクの上からでも絵莉子の表情が曇ったのがわかった。賢三は、あ、デリカシーのないことを聞いたかな、と思い、取り繕うべきかをためらったが、絵莉子は指を、まるで意味があるかのようにふわっとあごに添えながら答えた。
「印税で悠々自適に暮らしてるように見えた? そんなわけないじゃん。絵本って食べていけない職業ナンバーワンだから。あ、ちなみに二位は詩人ね」
絵莉子は笑っていたが、その指の動きは機嫌が悪い時の癖だった。それでも笑っているのはお互いそれなりに歳を重ねたということか。
そんな賢三と絵莉子のもとにオカマは嬉しそうに駆け寄ってきた。
「あ、テレビよ! ウソ! ブラウン管! しかもテレビデオ! ねえ、二人とも来てよ、ねえ」
「ははは、もう映んないでしょ。アナログだもんね」
「いっちょまえにテレビ台とかもあるね。テーブルがあって、テレビがあって、ベッドがあって、この頃は普通のワンルームなんだね」
絵莉子はまわりのゴミ袋をどけて、テレビ台の引き出しを開けてみた。
「あ、ビデオテープ! なんだろう、これ番号が振ってある」
引き出しにぎっしりと入ったテープは、百本くらいあるのだろうか。背ラベルにはタイトルらしきものはなく、二桁の数字が書かれていた。
「なに? 順番?」
「いや、順番じゃないんじゃない。同じ数字もあるわよ」
「点数? 百点満点?」
絵莉子は九十と書かれたテープを取り出して眺めていた。
わかった。点数。だとすると、たぶん、エロビデオだと思う。芸術家だってジャンプくらい読むし、エロビデオくらい見る。点数でピンと来たのは、賢三もパソコンのHDDで番号を振って管理したことがあるからだった。賢三はオカマにアイコンタクトでサインを送った。え、り、こ、を、と、め、ろ。
「絵莉子ちゃん、電気がつかないんだから、見れないわー、捨てちゃいましょー」
「え? 捨てるの? 見る方法あるんじゃない?」
「ビデオテープってかびるから。だめよ。もう見れないわ!」
「見てみないとわかんないじゃん」
「あ、絵莉子ちゃん、じゃあ、とりあえずそこのゴミの分別を先にやりましょうよ」
オカマはわざとらしくニヤニヤしながらテレビ台のまわりにいくつか転がっていたゴミ袋を開けた。
ボトッ。
「……?」
「ねえねえ、これってなに? ちくわぶ? 臭いは無いのかな?」
「ちょっと絵莉子ちゃん! さわんない方がいいわよ!」
「え? 先生知ってるの? なにこれ? ぶよぶよで穴あいてる。なんに使うの?」
使用済みオナホールだった。それも袋の中に結構な数が入っていた。
「こら、指入れるな!」
「……え? なにこれ……ひえ!」
沈黙した賢三とオカマの表情を見て、さすがの絵莉子も何かしらの理解をしたらしく、ビクッ、とその手からオナホールを落とした。床に落ちたオナホはふるふると寂しく揺れていた。
絵莉子は口をあんぐりと開けたまましばらく動かなかった。賢三はあらためて絵莉子に言った。
「芸術家だってジャンプくらい読むし、エロビデオに点数くらいつけるし、オナホールくらい使うさ……」
絵莉子は、はあ? という顔をして口を開けたままだった。
でもそれは本当の事で、絵莉子は引田に幻滅したかもしれないが、こんなことくらいじゃ彼の芸術性は何ひとつ損なわれたりしない。これは男にしかわからないのだろうか。むしろその性的探究心はリスペクトすら感じるし、理想をいえばそのビデオも、ノーマルの可愛らしい女優モノではなく、偏った趣味であってほしい。
一番点数が高いのが九十二点だった。賢三はそっとそれを引き出しから抜いたのだった。
22
「絵莉子―、引田の絵ってこれじゃない?」
卑田の放尿エリア担当から連絡が入った。そのあたりの袋が片付き、押し入れが開いたようだった。
薄暗い押し入れの中には絵筆や買い置きの絵の具と一緒に、白い布が被せられたキャンバスがぎっしりと立てかけられていた。
「なんか臭くない?」
「臭えけど! 俺のじゃねえ。これはこの部屋のベースとしての臭いだろが!」
賢三としても絵に興味があったものの、卑田の作った結界が二の足を踏ませた。遠巻きにカメラを回していると、絵莉子はちょっとだけ卑田エリアを気にしたように小さく飛び越えると、キャンバスに両手をかけた。
小柄な絵莉子はふらふらしながらその体の半分はあろうかというキャンバスを持ち上げると、ベッドやテレビ台に立てかけていった。
絵莉子が絵を運び出すと、キャンバスとキャンバスの間から山積みの封筒がでてきた。
「あら! ねえ、この封筒懐かしいわね」
オカマも意外と気にならないらしくズカズカと進んでいき、封筒を手に取った。
「……あ!」
クリエイティブアーチスト専門学院の封筒だった。あの不動産屋が持っていた封筒だ。
「ちょっと待って、それ……」
賢三はカメラを放り投げて駆け寄っていた。
「なになにカントク、どうしたの?」
「いや、ちょっと、その封筒」
「なんだよ急に」
「いや、その、ちょっと」
賢三はなんて言っていいかわからずとりあえず封筒を回収しようと手を伸ばした。
「まてまて、なんだ? んん?」
卑田と美佳は手を伸ばした賢三の身体を羽交い絞めにして自由を奪った。その間にオカマは中身を覗いた。
「原稿用紙? あれ? これ賢三君のじゃない」
「なんでこんなところにお前の原稿があるんだ?」
「いや、実は……小説を書くのをやめるとき、捨てるのもなにかなって思って、たまたま会った引田に預かってもらったんだ……」
「なにそれ? 預かるってなに? なんつって預かってもらうのよ、こんなもの」
「時代が追いつくまで持ってろって」
「なんだそりゃ! ウケる」
「追いついた? ねえ? 追いついた?」
「賢三君ってたまにそうゆう変なことするのよねー。キザな感じの。ぷぷぷ」
「冗談で言ったんだよ! いいんだよ、僕のは、そこに置いておいてよ」
「どのくらいあるの?」
「うわ、結構あるね」
「重い! 紙って重い!」
ズザザザザザザザザザ……。
弱っていた封筒の底が抜けて、原稿用紙が部屋に散らばった。「あっ」と誰かが声をあげて手を伸ばしたが、間に合うはずもなかった。床に落ちた原稿用紙はさーっと薄汚れた床板に広がって、もはやページも何もわからない。
「いいんだ、もう。そのまま捨てよう」
賢三は可燃ごみの袋を持ってきて、雑に詰め始めた。みんなは手出しすることにためらいがあるのか、動かなかった。
「まるで、暴落した紙幣か、倒産した会社の株券みたいだな」
卑田はタバコに火を点けてつぶやいた。
「そんなかっこいいもんじゃないよ。なあ、手伝ってくれよ」
卑田はしばらくタバコを吸ったまま動かなかった。美佳とオカマは気乗りしない様子だったが、少しずつ原稿をゴミ袋に入れ始めた。
黙々と回収作業をしているあいだ、賢三はふと小学生の頃のことを思い出していた。
「小学生の時、牛乳瓶のふたって集めなかった?」
賢三は同情を集めまいと努めて明るく話題をふった。ふただけに。
「あー、集めてたな」
「毎日の牛乳のふたは、価値がないけど、月一のコーヒー牛乳は価値があって、フルーツ牛乳はもっと価値があって、学校で手に入らないやつはさらに価値があるんだ。そんでいちばんのレアは未使用品。わかる?」
「あー、瓶の折れ目がついてないやつだな。あったあった」
「そうそう。それがある日さ、牛乳屋から大量にかっぱらってきたやつがいて、価値が崩壊したんだ。そしたら自分の持ってるふたも、一気に価値がなくなるんだけどさ、そうなると急にそのふたを入れていた箱が臭いってことに気付いて、教室中でみんなゲロ吐いたんだよ。なんでこんなもん集めてたんだ! ってさ」
「価値の暴落。インフレだな」
「でもさ、それでも、熱中して集めてるときは、その一枚一枚に本気で一喜一憂してるんだよ。取った取られたで泣く奴がいたり、ケンカする奴がいたり……」
「キツネかタヌキに化かされた日本昔話みたいだな。お札だと思ったら葉っぱか」
「ははは、そうそう」
やっぱり明るい話にはならなかった。賢三の笑い声は乾いていた。
価値の暴落。価値観の変化。
それはもしかしたら価値そのものなのではないだろうか。その変化は、紙幣や株券だけでなく、いたるところに転がっていて、熱中したテレビゲームのスコアとか、学生時代の部活動とか、学校の成績もか、いやいや、会社の役職や派閥ですらそうかも知れない。価値があると思って熱くなっていたのに、終わった瞬間、ある瞬間に、びっくりするくらい価値がなくなる。ゲームのスコアはただの数字で、部活が終わったら、レギュラーも補欠もただの人で、会社だって潰れたらそれまでだ。その瞬間がくるまで、価値がないなんて考えたこともないのに実はないって気付いてしまう瞬間。暴落する瞬間。あの昔話は、そういうことを言っていたのだろうか。
賢三の手に握られたゴミ袋の中に入っている原稿は、びっしりと文字で埋め尽くされていた。その時にはそれなりに本気で、文脈や表現そのひとつひとつに心血を注いだような気がするし、それ相応の時間を費やしたような気もする。でもそれは……でもそれは、客観的に見てしまうと、きっと同じようなことだったんだろう。
「葉っぱじゃないものなんて、果たして、なにか、あるのかな?」
「ははははは! ないのかもな! ……ん?」
絵莉子はいつの間にか引田の絵を押し入れから出し、並び終えていた。絵にはシーツのような白い布が被せられていたためか、立てかけられたキャンバスは何かの儀式の始まりのようだった。
賢三は放り投げたままにしていたカメラを拾い、スイッチを入れた。
シーツをめくった絵莉子は聞き取れないくらいの音量で感想のようなものを呟いていた。絵莉子の背中でちょうど絵が見えない。それでも、じっと絵を見つめて動かない絵莉子を見ていると、それが高いのか低いのかはわからないが、少なくとも引田の絵には価値があるように思えてくる。
いや、仮にこれが掃除業者だったら、彼らはかかっていたシーツをめくることなく棄ててしまっただろう。絵莉子がその絵を欲しがったことで、初めて引田の絵には価値が生まれた。いまはもう比べるまでもなく賢三の原稿用紙なんかより価値がある。
残酷だな。この残酷さは一体なんなんだろう。どう付き合っていけばいいんだ。賢三はビデオカメラの液晶画面越しに絵莉子の行動を見つめていた。残酷すぎて直視ができなかったのかもしれない。
上場企業の係長になって、「田中さんの奥さんって素敵ですよね」なんて人からうらやましがられる妻をもって、かわいい盛りの子供がいて、郊外の一軒家を三十五年ローンで購入したいま、それでもこんなにも残酷だと思う感情が残っているなんて。
――僕たちは、どうすれば自意識と和解できるんだ……?
「どうするの? 棄てるのか棄てないのか、自分で決めなさい」
いつの間にか絵莉子は原稿用紙の入ったゴミ袋を膝に抱えた賢三の前に立っていた。意外な絵莉子の言葉にみんなは黙って絵莉子を見つめていた。賢三も情けなく口を開けたまま絵莉子を見上げて次の言葉を待った。
「あなたは結局自分の感傷に人を巻き込んだのよ。みんなそれぞれ痛みながらあなたに付き合ってあげたんじゃない。ほら、そのくらい自分で決めなさい」
「絵莉子……」
賢三はそこに隠された感情を読み取ろうと絵莉子の眼を覗き込んだ。怒り? 悲しみ? 何だ? 何に対する感情だ?
「私があなたと別れた後、どれ程辛かったか、どれ程自分を責めたか、あなたには想像つかないでしょう?」
絵莉子の言葉に場の空気が一変した。バタン! と大きな音を立てて木戸が風で閉まった。部屋は一気に薄暗くなり、窓からの光は逆光で、より絵莉子の表情を隠した。
「あんな寂しい想いをするくらいなら、作家になんかならない方がよかった」
「絵莉子!」
叫ぶように美佳は絵莉子の肩を抱きしめた。
「カントク、いまさら言ってもしょうがないけど、なんであんた達って別れちゃったのよ、お似合いだったのよ。あの頃のあんた達」
絵莉子が賢三との別れにそんな思いを抱いていたなんて、考えたこともなかった。
「なんで……?」
賢三は思わず口に出していた。
「憶えてないの?」
「お前が、作家デビューが決まって……いや、待てよ、あの部屋にはもう、すでに絵莉子の本が置かれていたか……決まってから?」
「憶えていないのね、賢三は、私が打ち合わせに行っていた出版社の担当の人との関係を疑っていたよね。忘れたの?」
思い出して、ぞっとした。
そうだ。当時絵莉子には出版社の担当ということで、出版社社長兼、編集者兼、絵本作家という奴が付いていて、賢三は会ったこともない彼のことが嫌いで嫌いで仕方なかった。
「賢三は私があの人に会いにいって、私がされるアドバイスをことごとく批判しては私を責めた。私にも賢三の苦しさは分かるからある程度までは我慢したけど……私はどうすれば良かったの?」
飛びそうな意識の中で、絵莉子とのやり取りを断片的に思い出していた。会ったこともない彼が言う、達観したような言葉が嫌いで、人間はもっと生々しいんだ! って叫んでいた。彼はなんて言ってきたんだ? 確か彼は絵莉子に、登場人物を属性に分けて考えるよう言ってきたんだったか。人は木、火、土、金、水の五つの属性に分類できて、主人公は火の属性を持っていることが良くて……。くそ、この期に及んで、いまでもこんな奴が作家面していることに苛立つ。
だからこそ余計に妬ましかったのか。いまならそれが嫉妬であることがわかる。でもそのときは本気で、物書きとして許せない、なんて思っていたのだろうか。
「二人とも貧しく、何者でもなかった頃の方がどれほど幸せだったか」
うつむいた賢三の視線の先には、絵莉子の細い手だけが見えた。少し震えているのは、泣いているのだろうか。顔を上げることができない。
「死にぞこないって言葉があるけど、俺たちは逆だな。俺たちは生きそこないだ。生きそこなっちまったんだよ」
手に持っていたビールの缶を空けた卑野は、その名の通り卑屈に笑っていた。
「オカマー、ビール買ってこいよ」
「あ、あたしハーゲンダッツ! 全部! 全部の味買ってきて」
「なんでアタシが行くのーっ!」
絵莉子はそんな三人のやり取りを見て微笑んだ。そして微笑んだまま賢三の抱えていた原稿用紙のゴミ袋に手を伸ばした。
「……重い、だろ?」
力を入れた絵莉子の細い手首には筋が浮き出て、切れてしまうんじゃないかと思った。
ふらふらしながらゴミ袋を持ち上げた絵莉子は、ゆっくりと入り口に向かって歩いていった。みんな黙ってその後ろ姿を見送るだけだった。その視線に振り返った絵莉子は、なぜか満面の笑みだった。
「……?」
「賢三がいくら大事に抱えてたってね。こんなもの、ちり紙とも交換してくんないわよ!」
それを聞いた美佳は小走りで絵莉子のもとに駆け寄ると、下からゴミ袋を支えた。
「あはは! ホントね」
「そうだそうだ! なんなら燃やしちまおうか!」
「ちょっとアンタさっきの反省してないでしょ! 火はダメでしょ!」
「うるせえ、てめえはなんでまだいるんだよ。早く買い出し行けよ」
「ひどいー」
みんなは妙に楽しそうだった。賢三はそのテンションの意味がわかるような、わからないような不思議な距離感でまたカメラの液晶越しに彼らの姿をとらえていた。
23
いつのまにか日が暮れていた。電気がつかない引田の部屋は急激に薄暗くなって、立てかけられたシーツがかかったままのキャンバスは司会者が来てオークションが始まるのを待っているかのようだった。
みんなはその妙なテンションのままテレビラック周辺に取り掛かっていた。
「ちょっとー! オナホ出てきたんだけどー! なに? なにこの量?」
「これって何ゴミなんだろう? 燃えるの? 燃えないの?」
「なあ、テレビって捨てれねえんだろ? どうすんだ?」
「リサイクルに出すんだよ」
「リサイクル? 売れるのか?」
「違う違う。リサイクル料、処分料払うの」
「はあ? 捨てるのに金取るの? 誰に?」
「家電店とか。うちの会社もやってるよ」
「何でお前らがそれで儲けてんだよ。天下りか?」
「儲けてないよ。あれはめんどくさいんだよ、実際」
「そんでそれはビデオテープばっかりか? DVDはねえの?」
「ねえ! なんかぬるぬるする!」
「するわけねえだろ! もう乾いてるだろ?」
「本当だって!」
「そうそう、あと冷蔵庫も捨てるのに金かかるからね」
「マジで? ていうか冷蔵庫ってだれか開けた?」
「いや、開けてない」
「ええ! 怖くない? ヤバくない?」
言われてみると、小さなキッチンの片隅に置かれたツードア冷蔵庫は不穏なオーラを出していた。
「臭いは? 臭いはあるの?」
卑田はマスクをとってクンクンと鼻を鳴らした。
「わかんねえ! 臭え! でも全体が臭えから何が臭えかわかんねえ!」
「そのまま捨てちゃえば?」
「いやー、だって持ってくの僕でしょ。中身くらい捨ててくれよー」
「とりあえず、誰が開けんの」
「じゃんけん?」
「マジかよ!」
意外なことにじゃんけんの結果絵莉子が開けることになった。賢三たちは部屋の反対で様子をうかがう。冷蔵庫に手をかける絵莉子。コンセントが抜けていることに気付いて手を止める。
「ねえ? これいつから動いていないのかな?」
泣きそうな声でこっちを見るが、全員が目をそらした。
「はー、私じゃんけん弱いんだよねー、昔から。本当にもってないの。中学のときだってさー」
「絵莉子。やりなさい」
「……高校の時もさー」
「絵莉子」
「……わかったわよ」
絵莉子は観念したようにぶつぶつ言うのをやめ、冷蔵庫に手をかけた。
「せーの!」
開いたドアの隙間からコバエが飛んだ。絵莉子は悲鳴を上げて賢三に向かってダッシュすると、全力で賢三にしがみついた。
「虫! 虫はだめ!」
「何だ! なに虫だ?」
「殺虫剤は?」
絵莉子はあまりにも当たり前のように賢三の腕の中におさまっていた。そんなさなかだというのに、賢三は絵莉子の体温を感じていた。
「やべえ! アイツがいるぞ!」
卑田は冷蔵庫の隙間に目を凝らし、言った。
「あいつ?」
「Gだ」
「G??」
「ゴキブリだ―!」
「ギャー――――――!」
女たちが全力で悲鳴を上げた。
「ちょっと、静かにしろって! 他の部屋から文句言われる! 卑田! いったん外に蹴り出してくれ」
「マジか―! やってみる」
卑田は冷蔵庫を何度か蹴ったが、数十センチしか動かなかった。観念した卑田は両手で冷蔵庫を外へ向かって押し倒した。ガシャンと大きな音がして半分冷蔵庫は外へ出た。
そこに、誰かが立っていた。
「……あなたたちは誰?」
か細い神経質そうな女の声だった。ドアの向こうから真っ白な白髪の老婆が覗いていた。大家? いや、違う。そっちこそ誰だ? 声のイメージと見た目が一致しなかったので、賢三は黙って彼女のことを怪訝に見つめていた。他のみんなも彼女を見つめたまま、誰ひとり動けなかった。
「あなたたちは、誰?」
彼女はもう一度訊ねてきた。やっぱり、声量の少ない、か細い声だったが、そこにははっきりした意思があった。賢三たちを歓迎していないという意思。誰だ?
「ごめんなさい! 勝手に上り込んで。大家さんに頼まれて片付けているの。大事なものは捨ててないわ!」
部屋の奥にいた美佳が叫ぶように言った。状況がつかめずにいた賢三は美佳に耳打ちをした。
「美佳、なんだ? 誰だ?」
「引田の恋人、だと思う。だって、ゴミの中に、引田ひとりじゃない感じがしてたじゃん。気づかなかった?」
「まったく」
「俺もだ」
失礼だろうが、彼女と言うには歳が離れていすぎないかと、賢三は彼女の顔を覗き込んでいた。彼女はそんな視線を避けるようにドアに身体を隠した。齢に合わない露出の多い白い服を着ていることと、とても痩せていることくらいしかわからなかった。
「ただいまー。美佳ちゃん、ハーゲンダッツ全然種類無いのー! 何この冷蔵庫じゃまねー」
そんな繊細な状況を、緑のスーツを着た虫みたいな男が飛びこんで踏みにじっていった。
ドアが開け放たれたことで彼女は屋外の蛍光灯にさらされた。なんだか彼女にひどいことをしているような気持になった。
老婆ではなかった。賢三たちよりも一回りくらい年上だとは思うが、まだ老婆と言うのは失礼な年齢に見えた。髪の毛が白いのと、不思議な眼をしているせいで老婆に見えてしまったのだろうか。不思議な眼だった。憂鬱そうな重たいまぶたと、小さな瞳。黙ったままの彼女はその眼のせいか、何かを言いたげにしているように見えて、思わず言葉を待ってしまう。
「どうしたのー? この娘だーれ? あなた薄着ねー。あと痩せてるのねー」
彼女はオカマが肩に触れた途端、ハッと後ずさった。
「待って! 引田の話を聞かせて! あたしたちは彼の話をしてくれる人を待ってたの!」
美佳は玄関の冷蔵庫を飛び越え、オカマを突き飛ばして彼女を追った。賢三は動けなかった。意外にも、美佳だけがこの状況を正確に把握し、行動していた。
引田の彼女は三歩でアパートのコンクリートに足を取られ転んだ。また下着の尻が丸出しになった。すぐに追いついた美佳がワンピースの裾を直してあげながら手を取って、言った。
「あなたたちの世界に勝手に入ってきてごめんなさい。しかも彼を失って一番辛い時に。本当にごめんなさい。でも、あたしたちも、それぞれ彼の死に何かしらの想いがあるの。だから集まってきたの。ごめんね」
彼女はずっと震えていた。美佳に言われて改めて思う。ここでうずくまっているのは恋人を失った女なんだと。想像がつかない。その痛みがどれほどのものかなんて。彼女の細い腕に美佳の太い腕が重なり包み込んでいく。
悲鳴のようなか細い嗚咽が、夜のボロアパートに響いた。
「カメラ、回してるの?」
「ああ……」
絵莉子の言いたいことはわかる。これまでどんなひどい状況でもカメラを回し続けてきた賢三に罪悪感を覚えさせるくらい痛々しい泣き声だった。
「ハーゲンダッツ食べる?」
美佳は彼女の返事も聞かないでふたを開けた。食べるわけないじゃないか、と賢三は言いかけたが、間違っていたようだ。彼女はそこで初めて美佳に微笑んだ。
「……ハーゲンダッツ、好き。ありがとう……」
意外……。食べるんだ。美佳以外の全員がそう思った。美佳という女の動物的感覚は、俗っぽい幸福こそいまの彼女に必要であることを嗅ぎ取ったのか。
24
食べ終わる頃に美佳はもう一度聞いた。
「ねえ、引田の話が聞きたいわ。素敵な彼だったんでしょう?」
彼女は何度か頷きながら、何かを言おうとして言えず、またしばらく泣いた。
彼女は静かに手に持っていた袋から注射器を取り出した。目の前で犯される違法行為に、一瞬空気がこわばったが、誰一人動かなかった。彼女が小さいアンプルから液体を注射器に移し、やせ細って青い筋の目立つ腕に刺す一連の動作は、あまりにもなめらかで、無駄がなく、まるでそれは知らない宗教のお祈りを見ているようだった。
しばらく目をつぶっていた彼女は、小さく息を吐くと、賢三たちに会釈をした。お待たせいたしました……。とでも言うように。
「……彼は、私の絵を描いてくれたの。彼がいつも駅の周りで、絵を描いていたのは何となく見たことあったのだけど、ある日、突然、私のことを描いた絵をくれたの」
「その絵って、これかな」
絵莉子は立てかけられたキャンバスのシーツに手をかけた。オカマは何かに気づいたように買い出しの袋をあさると、懐中電灯を取り出した。絵莉子はオカマにナイス! と合図を送るとシーツを滑らかにはぎ取った。お宝鑑定団みたいだった。
裏路地で売春婦が小銭を拾っている絵だった。痩せた犬と、ホテルのネオン、破れたチラシが張ってある壁。古いドブ板のある裏路地。モチーフはどれも薄汚れているというのに、光の加減のせいか、構図のせいか、汚く見えない。
なんだ、引田って才能があったんじゃないか。全員がしばらくその絵に見入ってしまった。
「……フェルメールみたい」
絵莉子がつぶやいた。
「フェルメール? たしか真珠の首飾りの少女よね?」
「そう、暗いけど、綺麗なタッチ」
引田は描いているときはどんな気持ちだったのだろう。どれくらいの期間や労力を費やしたのだろう。受け取ってもらえるか不安だったりするのだろうか? それとも、そんなことを思うのは賢三が彼よりも俗な人間だからで、描くこと自体で彼の想いは完結しているのだろうか。
「私も、嬉しかったから、お礼にタダでしていいよって言ったの。彼、お金なかったから。そしたらこんなひどい部屋に住んでるから、驚いて、やだな、って思ったんだけど、彼は、『こんなところで良かったら一緒に暮らさないか?』って言うの。私思わず笑っちゃって、こんなおばさんで良ければ、いいよって言ったの」
彼女は少女のように笑っていた。クスリが回ってきたのだろうか、虚ろだった目が輝きだした。
「ねえ、まだまだいっぱいあるから見ていって。うふふ」
その他の絵も彼女がモチーフになっているものが多かった。その一枚の後から明らかに絵のタッチが変わっていた。使う色合いが暖色になり、彼女との出会いや彼女との暮らしが彼のタッチを弾ませていた。
「ここから先は急にシャガールみたい」
筆とパレットを持って踊っているように足を交差させている男と赤い服を着た女が重なり合いながら数台の色とりどりの車やバスやタクシーと一緒にロータリーを回っている絵だった。なぜ車なのかはわからないが、二人が祝福されているように見えた。
「これね、本当に踊ってたの、私たち基本的に入れてるから、妄想なのか区別つかないんだけどね。たぶん本当に踊ったの」
彼女は両手を広げてくるりと回って見せた。痩せ細った年老いた売春婦とは思えない、軽やかで、幸せそうなその仕草に僕たちは戸惑いながら、話を聞いていた。
「入れてるってなんだ?」
「クスリのことじゃないか?」
「私はこんなだから、絵のこととかは良くわからないけど、彼が絵を描いているのを見るのが好きだった。私なんてポン中の売春婦だから芸術家なんて、付き合ったことなかったけど……かっこいいの。慣れた手付きで何種類かの液体を混ぜるときとか、行き詰って迷いながら筆を動かすときの彼の苦しそうな仕草とか、逆に我を忘れて一心不乱に描いているときの目付きとか。……なんか、きれいだな、って思ったの。そうね、彼の存在そのものが、っていう感じ。分かる? うふふ?」
彼女はキャンバスからはぎ取ったシーツを体に巻き付けてまた回った。賢三たちはもはや彼女と対等ではなかった。彼女の踊りやすいように、彼女の語りやすいように自然と場所を空けていた。賢三らは観客ですらなかった。ミュージカルのエキストラのようだった。
「だから彼にもう仕事行かないでいいよって言ったの。向かないもの、彼には。普通のくだらない仕事なんて、彼の美しさが冒涜されてしまうから嫌だったの。その分私が仕事増やせばなんとかやっていけそうだったから。おクスリ代がちょっと大変だったけどね。私たちの仕事ってさ、お客を選ばなければ結構増やせるのよ。え? 何? 彼は何か言ってきたかって? 言ってこないわ。知る必要なんてないもの。私たちにとって世界はこの部屋の中だけだから。あ、ほら、この絵。そっちの、そう」
彼女はまた別の絵をはらりとさらしては、うっとりとそれを眺めていた。照明担当のオカマはあわててその絵にライトを当てた。真面目に職務を遂行しようと必死のオカマだけエキストラというよりスタッフみたいだった。
「賢三……ねえ」
絵莉子は不安げに賢三の肩を突いた。
「大丈夫かしら?」
賢三が、何が? と言いかけたところで、巻きついたシーツからのぞく彼女の青白い背中が不自然に歪んで見えた。
「寒い……」
そう言って振り返った彼女はさっきまでとは別人のように生気が失せていた。その場に座り込んで本当に寒そうに歯がカチカチ鳴るほど震えていた。
突然変わった彼女の体調に皆はどう対処していいか分からなかった。こんなにもクスリの効いている時間って短いのか。さっきまでご機嫌に踊り狂っていたというのに。
絵莉子に促されて賢三と卑田は彼女をベッドへ運んだ。一人でも持ち上げられそうな軽さだった。彼女が目を閉じているのを良い事に、賢三はまじまじと彼女の身体を眺めてしまった。白くなっているものの老婆のように縮れてはいない、不思議な髪の毛。肌の白さ。浮き出た青白い血管。胸のふくらみ。あらためて見ると、整った顔立ちをしていた。それでも薄い唇の端から覗いた前歯が割れていて、彼女の人生が、簡単なものではなかったことを想像させた。
昨日卑田と美佳が寝ていた寝具はゴミ屋敷としては不自然なほどきれいに洗濯されていた。そうか、それは、彼女が寝るためだったのか。
「ねえ、まだ、奥に描きかけの絵があるの」
うっすら目を開けた彼女は窓の方を指差した。まだ手がついていないエリアの、その奥を指差していた。
25
ゴミをかき分けて進んだ先に、布の被せられたイーゼルと椅子が二つ並んでいた。
「ここだけ、ゴミが、無いね」
絵莉子はそうつぶやくと足元の消臭剤を拾った。中身は入っているようだった。彼女のために引田が用意したのだろうか。そのあたりに数本落ちていた。
彼女は横になったまま無言で壁にかかったランタンを指差した。卑田は無言でスイッチを点けた。昔ながらの白熱球のランタンがその一角だけを別の世界のように照らした。
花瓶に花が飾られていた。ゴミ屋敷に花か、賢三は声に出さず呟いた。
「ねえ、見ていい?」
絵莉子が聞くと、彼女は青白い顔のまま頷いた。無言のまま賢三たちは相談した。誰が掛かっているシーツをめくるのか。一番近くにいた卑田をみんなが見つめ、無言のまま決まった。手を伸ばす卑田から緊張感が伝わってきた。中の絵を傷めないよう、そっと、ゆっくりとめくり上げた。
描かれていたのは椅子に座った彼女だった。いや、正確には見たままの彼女の姿ではないのだろう。若かりし頃の彼女だった。引田はきっとこの頃の彼女は知らないだろうから、想像上の若かりし頃の彼女という感じだった。
絵莉子はその絵を見て、嗚咽を漏らした。賢三はぼんやりとその声を聞き流していた。その涙の意味がわかるようなわからないような、それでもやっぱり良くわからないような、そんな気分だ。
不思議な絵だった。描写は違っているというのに、なぜかここに描かれているのが彼女だということだけが、はっきりと明白だった。
月日は残酷に物事を奪っていく。それに対する抵抗なのだろうか。描いてしまえば、月日の流れを止められるということか。引田の頭の中にそれを焼き付けようとしたのだろうか。いや、違うのかな。もしかしたら、引田には本当に彼女の姿がそういう風に見えていたのかもしれない。
「私こんなにきれいじゃないって、思ったかしら?」
彼女はかすれた声で笑った。
「そんなことないよ。本当に」
絵莉子は鼻をすすりながら言った。
「本当? でも、いいの。私は彼に、私はあなたが描くようなきれいなものじゃないのよって、いつも言うの。くだらない、駄目な人生だったからね。どこで何が間違ったからこんな風になってしまったのかって、いつも話してたの。付き合ったヤクザに騙されて自己破産したこととか、親の病気のこととか、そもそも、ポン中だったせいかしら、とか。ここで座りながら、クスリ入れながら聞いてもらうの、たいてい私が最後は真面目に聞いてんのかってなんか投げつけてそのままエッチして寝ちゃうんだけどね。彼は笑いながらそんな話を聞きながらこの絵を描いてくれてたの」
「素敵ね……」と絵莉子はつぶやいた。
「でしょ?」
彼女は弱々しく微笑んだ。
「幸せだったな……。誰がなんと言おうと幸せだった」
ふわっとした沈黙のなか、自然にみんな引田が最後に描いた彼女の絵を見つめていた。不思議な表情だった。婦人画によくある、すましたリラックスした姿とは違い、椅子に腰かけた彼女は、苦笑いのような、照れ笑いのような、微妙な表情をしていた。それはきっと、引田にしか見せなかった表情なのだろう。
でも残念なことに、人物に表情があると、不思議と絵画ではなくマンガのようにみえてしまう。彼女が妙に若く描かれているせいだろうか。たぶんこの絵は、賢三が想像する良い絵画とは違うのだろう。
一番奥から出てきた絵画に作家の死後、その作家の人生の価値を一変させるような名画が発見、というストーリーを心の奥底で一ミリだけ期待していた賢三の目論見は外れ、不謹慎だが少しだけ笑った。
「いや、いいんだろう、これで」
卑田は小声でつぶやくように言った。たぶんカメラのマイクは彼の声を拾えていないはずだ。
「きっと引田は誰か、他の人に見られるなんて思って描いてなかったんだよ。だから、芸術的価値も、美術史的価値も、全部、なんも、考えてないもんな。タッチがどうだとか、技法がどうだとか、そういうしょうもない、クソみたいなものから自由になったんだろう」
絵莉子はため息をついて首を振った。
「……うらやましい。うまく言えないけど。彼女の愛され方が、うらやましい」
卑田たちの感想は賢三とは違ったようだ。それはどんな形であれ、いまでも、もがくように何かしらを創作しているものとしていないものの差なのだろうか。
そしてたぶんそんな感想ですら彼女には届いていない。仮に届いたとしても、きっと、なんにも響かないだろう。彼女の世界はさらにかけ離れていた。
少し落ち着いた様子の彼女は上半身を起こした。美佳は彼女の隣に腰を下ろし、背中を支えた。その動きは実に自然だった。
「彼は私の話を聞いて『運が悪かったね』って言ってくれたの」
運が悪い? それは慰めになっているのか。
「そうだね、悪いのは運だね」
美佳はそっと、彼女のシワの多くやせた手にムチムチとした手を重ねた。
そうか、悪いのは運か。悪いのは彼女の人格でも能力でもなく、運だ。
窓の外を見ていた卑田は、突然彼女に言った。
「しかしなんで引田はゴミを集めてたんだ? ゴミ捨て場って道はさんで向かいじゃねえか」
「何か、分別が……できないって。分けきれないって言ってた」
26
コンコン。
コンコン。
冷たいノックだった。温度の低い、硬いノックだった。賢三たちは不穏な空気を察してお互いの顔を見合わせた。じっと息をひそめ、ドアの気配を探った。
「真喜志さん、居るのかい?」
中年の男の声だった。声に心当たりがないか彼女の表情をうかがったが、不思議と彼女に反応はなかった。いまのは苗字なんだろうか、名前なんだろうか、いや、そもそも賢三たちは彼女の名前を知らない。
「知ってる人?」
やはり口を開いたのは美佳だった。美佳は彼女の手を握ったままだった。眺めることしかできない賢三にはわからない感情の変化が手のひらや握力を通して伝わるのだろうか。美佳はじっと入口を見つめた。
「入るよ。あけるよー」
どこかで聞いたことのある声だった。この場にそぐわないとぼけたような声だった。
「わかった。あいつだ」
入り口のドアが開いた。外気が吹き込んできてビニール袋をはためかせる。賢三はカメラを回したまま、窓の位置を探していた。
「やべえ! あいつか!」
卑田はゴミ袋の陰に身を隠した。
入り口にいたのは昨日の警官だった。今日はねずみ色の作業着を着ていた。町工場の社長のように見える。
「真喜志さん。やっぱり、帰ってきたんだね」
彼の口調はあくまで優しかった。
賢三は彼がひとりなのか、外に仲間がいるのかを確かめていた。ひとりだったら、窓から彼女を逃がせられるかもしれない。
「だいぶ片付きましたね。ご苦労様です。もうあとひと息じゃないですか。あ、逃げないで下さいよ。ひとりで来ちゃったんですから。ふう、ふう、これだけで息が上がりますね」
彼の動きは遅かった。わざとではないかと思うくらい遅かった。なんなんだ? なんか意図があるのか? 警官の食わせ者感が判断を鈍らせる。さ、どーする?
「みなさんお若いからそこに行くのも楽だったでしょうけど、僕はもう歳なもんでね。いやいや、太りすぎのせいかな」
彼は部屋の中で足を止めると、賢三らへ一礼した。そして、彼女には、やあ、と手を挙げて挨拶をした。彼女は彼の方を見もしなかった。
「何しに来たのよ?」
美佳は彼女の手を握ったまま言った。
「何って、まあ、その、僕も、警察の人間なもので……」
彼はちょっと困ったように微笑んだまま言った。ズボンに入れてあったタオルで汗を拭くと、彼はまたこちらへ歩み寄った。
「お願い! 彼女いまちょっと大変なんだよね。彼氏が亡くなったばっかなの。ちょっときつくない? それって」
彼は美佳の言葉に大げさに頷いて見せた。
「そのくらい僕にだってわかります。わかりますとも。いや、あなたたちよりもわかるかも知れませんね。だって僕はあなたたちよりもずっと前から彼女のことを知っていますからね。それに僕は真喜志さんと同い年だし。学年は一個違うんだけどね。ははは、細かいか。ええ、わかりますよ。彼女の心配も寂しさも。しかも僕だってカミさんと子供に逃げられてますからね。ははは、関係ないか。いや、あるな。ありますよ。僕らの歳の孤独はなかなかに寂しいものですからね。歳をとればとるほど別れは重たくなっていくんです。」
彼の言葉の端々には、彼らと賢三たちとの間には年齢的な断絶があり、彼女はこちら側の人間だと言ってきているように聞こえた。
ひたすら照明担当として話す人に懐中電灯を向けていたオカマは、自分にライトを当てた。
「ねえ、じゃあ、そんなに寂しいなら、彼女と友達になってよ」
「いやー、それがだめなんですよ。ははは。カミさんに逃げられたのも、そうゆう友達を作りすぎたせいなんですよ。犯罪者、被害者、加害者の家族、薬物中毒、売春婦、なんとかしてあげたいけど、なかなかね、距離感が難しいんだ。それに、僕はひとりしかいないからなあ」
あごの下からライトを当てたオカマの顔は完全にホラーだったが、彼は驚きもしなければ笑いもしなかった。
「真喜志さん。もう、いいだろう。約束じゃないか。彼の死を見届けるまでって」
彼はベッドに座った彼女に手を伸ばした。やっぱり彼女はなにか言いたそうな目をしているが、何も言わない。
「待ってってば!」
美佳が乱暴に彼の腕を振り払った弾みで、彼女はベッドから転げ落ちた。
バサッ。
彼女はゴミ袋の山に倒れこんだ。
彼女は虚空の一点を見つめて動かなかった。彼女の目はなんだかもうこの世のものとは思えないくらい濁っていた。その濁った目は、まるで沼だった。いや、目だけではない。全体が沼だ。まるで部屋全体が沼だ。彼女はその虚空を見つめたままずぶずぶとゴミ袋の沼に身体が沈んでいくようだった。
「待ってよ、彼女を捕まえてどうするの? それになんの意味があるの? いまさら法律だからなんて言わないでよ。悪い事なの? 誰かに迷惑をかけた? 誰かを傷つけた? 彼女は捕まって刑務所で何を反省するの? ただの罰なの? なんの罪でなんの罰なの?」
ゴミ袋を枕にして横になった彼女は、埋もれたまま少しだけ笑った。
「浩一くん……」
いまのが、引田の名前だったのだろうか。ああ、思い出した! とはならなかった。聞いても、そうだったけか、と思うだけだった。
埋もれながら彼女は何かを思い出したのだろうか。彼のゴミの中に彼の記憶を。彼の匂いを、彼の生きた跡を。
「真喜志さん……」
「いましゃべってんのはアタシでしょ? シカトすんなくそヒゲ!」
「待ってください。僕は彼女と約束したんです。彼が穏やかに最後を迎えられるように協力をするって。罪? たぶんそんなものはないですよ。僕みたいなおじさんにさえ彼らの暮らしは美しく感じました。たぶん、とても綺麗な日々だったのでしょう」
割れた窓の外からは、街の灯りが差し込んで、彼女の白い髪の毛が銀色にみえた。そして青白い皮膚はその青さを増し、あまりにも透明すぎて、この世のものではないようだった。
生きるのを、やめた。ということなのだろうか。自分でスイッチを切ったかのようだった。
「真喜志さん。この前も言ったけど、僕らの人生が、後一年って決まってたら、それでもいいんだろう。でも、残念ながら、僕らはまだ五十で、あと二、三十年は生きなきゃならないんだ。思い出だけで生きるには長すぎるんだ。君自身がもういいって思っても、まだまだ君の人生は続いてしまうんだ。だから、いったんここで区切りをつけよう」
少ししゃべっただけで彼の額には大粒の汗が光っていた。腰のタオルで顔を拭くしぐさは、あまりに彼女と対照的で、意図的な抵抗にすら思えた。
「生活を立て直すんだ。朝起きて、軽作業して、グループワークして、クスリを抜くプログラムもある。それで夜は早く寝て。長くたって二、三年だ。そのころには彼の死の痛みも引いているよ。それで、出てきたら僕が当面は面倒を見るから。な?」
美しくもなんともないけど、現実的な選択肢だった。聞いていてがっかりするくらい退屈だ。現実的な選択肢というのは、いつもこうだ。
でもきっと、他に選択肢なんて無いのだろう。
「ダメだ! 認めん!」
刑事が来てから、ほとんど一言も発していなかった卑田は、美佳とオカマを押しのけると、仁王立ちのまま、眠り続ける彼女の事を見下ろした。
「たぶんあんたの言っていることが正論だが、なんだか納得がいかねえ! おい、あんた。逃げろ、いいんだよなんでも、とにかく、いまじゃねえんだろう? じゃあ逃げろ! 納得いくまで逃げろ!」
卑田はためらいのためか、恐怖のためか、ブルブルと震えながら、刑事の腕をつかんだ。目を見開きひどい顔をしている。
「クソ、オレはこれまで警察の世話にならずに生きてきたのになー。これで前科とかつくんかなー、免許もゴールドだったのにな……」
そう言いながら卑田は刑事の身体を完全にロックした。言っている事とやっていることが完全に矛盾していた。
「おおおお、お前は会社員だから逃げろ! 絵莉子もだ! お前らは逃げろ!」
「待てよ、本当にそれでいいのか? 卑田。彼女の意思もわからないじゃないか」
「卑田! アタシはこんなんだから残るね。フェラとかして足止めすればいいの?」
「ダメだ! お前、俺の女じゃねえか! 何言ってんだ!」
「えー? そうなの? アタシその認識なかったんだけど!」
「賢三! 窓を開けろ! 逃げるならそっちだ」
賢三は彼女の意思が分かりかねて、戸惑っていた。こんなさなか彼女はまだ、沼のような目をして、ゴミ袋の沼に溺れていたからだ。彼女以外の全員が一生懸命汗を流しているさなか、彼女だけは我関せずで、別の世界にいた。
とりあえず賢三は言われたとおりに窓を開けた。風がゴミ袋を煽り、ビリビリと神経質に響いた。窓の外は環状線のネオンとトラックの音が、これが現実に起きていることだというメッセージのようにうるさい。
「真喜志さん!」
刑事が叫んだその瞬間、彼女はイーゼルに掛かった絵をつかみ、獣のように窓の外へ消えた。
「行けーっ! 走れーっ! ざまあみろーっ! 走れーっ! はははは」
卑田の叫び声に押されるように裸足の彼女の足取りは意外なほど軽く、躍動感に満ち溢れていた。彼女が曲がり角へ消えるまで、その足の動きのしなやかさに目を奪われていた。
「真喜志ーっ! がんばれーっ! がんばれーっ! う、ゲホ、ゲホ。グエ」
声を出しすぎた卑田は涙目になりながら、消えた先の角をずっと見つめていた。
行って、どうするというのだ? その先に何があるというのだろうか。日本の警察は優秀だし、逃げ切れるわけないじゃないか。行った先にまっているものなんて、引田のいない喪失感の人生じゃないか。それでも、行くのか? それは彼女の本能なのだろうか。縛られたくないという。
「お前たちもだ! 賢三!」
賢三は状況が飲み込めずに首を振っていた。ここで僕が逃げて、もうここには戻ってこないというのか。わからない。僕の中にここに来た意味や、結末の実感が何もない。
「賢三、行こう? あなたは逃げないと。家族がいるんだから」
それで、いいのか? このまま僕は逃げて、明日から何事もなかったように会社に行くのか? 何事もなかったのか? いったい引田の死とは、なんだったのだろうか。僕たちの集まった意味はなんだったのだろうか。このビデオを編集しているうちに、僕はなにかの答えにたどり着くのだろうか、ひとつの作品としてなにかの結論にたどり着くのだろうか。
「賢三!」
絵莉子に手を引かれて部屋の外へ連れ出された。街には騒音が溢れていた。エンジン音、クラクション、サイレン。真喜志さんがその音の渦を駆け抜けていくようなイメージが浮かんでは消えた。大量に駆り出されたパトカーは環八の渋滞で動けないだろう。その中を信号も横断歩道も無視して駆け抜けて行く彼女。
27
深夜の環八を抜けて、青梅街道を郊外へ向かって走っていた。絵莉子はハンドルを握ったまま、ずっとあたりを気にしていた。警察に追われていないかと思っているのだろうか。
賢三は助手席に座ったまま、まだ気持ちの整理がついていなかった。一応、カメラは回してあったが、もう何を撮っているわけでもなく、電源が入りっぱなしになっているだけ、という感じだった。
バックミラーにパトカーが映っていた。パトカーはサイレンを鳴らしているわけでもなく、賢三と絵莉子を意識している様子はなさそうだったのだが、絵莉子は突然ハンドルを切った。
「いったん、やり過すね」
絵莉子は青梅街道から細い生活道路へ入った。たぶん、追われてなんかいないよ。賢三はほとんど声になっていないくらいの声で、絵莉子に向かって呟いた。あの刑事が、応援を呼んで執念深く賢三と絵莉子まで捕まえようとするとは思えなかった。
卑田と美佳は大丈夫だろうか。さすがにあの二人は何かしらのお咎めを受けるのだろうか。
「運転しなれない車は疲れるな……なに? どうしたの? ひどい顔してるよ」
「いや、卑田と美佳のことが心配で……あと、オカマも」
「そうね……大丈夫だといいんだけど。犯人を逃がすって、重いのかな」
「さあ……?」
賢三は自分から心配だと言っておきながら、どうでもよくなってきてしまった。薄情というよりも現実感が乏しかったせいだと思う。
あたりは閑静な住宅街だった。どこに向かっているんだろう? と思ったが考えることが面倒になってしまって、なんとなく絵莉子の横顔を見ていた。
絵莉子は突然ブレーキを踏んでハザードランプに手を伸ばした。
「どうしたの?」
「ごめん、こんな時に……」
賢三が振り返った先には、住宅街の薄暗い生活道路があるだけだった。何やら絵莉子は口元に手を当てて何か考え込んでいた。
「……猫が」
絵莉子がそう言うので、カメラをズームした。ここからだと何かの塊にしか見えないが、轢かれた猫がいるようだった。
「生きてるの?」
「わかんない。でも、あのままだと……脇によけてあげるだけ、いい?」
「……え?」
賢三は絵莉子が何を言っているのかさっぱりわからなかった。現実感が乏しいせい? ではなさそうだった。
「なに? どうしたの?」
「うん、ちょっと、お願い」
少しずつ絵莉子がなにをしたいのかが分かりかけてはきたものの、情けない話だが、賢三は絶対に触れないと思い、それを絵莉子に伝えようとしたが、口をはさめる空気ではなかった。
車を降りた絵莉子はしゃがんで顔のあたりを調べているようだったが、しばらくして首を振った。
賢三は仕方なしに絵莉子後ろから猫の様子を覗き込んだ。猫はまだ轢かれて間もなかったようで、まだかなり猫としての原型を留めていた。驚いた表情のまま固まった顔や、飛び出した内臓が、いまにも動き出しそうで、痛々しいやら、恐ろしいやらで、気が滅入った。
「ごみ袋とか、手袋ってまだ入ってるよね?」
賢三は無言で頷いた。絵莉子はひとり、車内から数枚のビニール袋をとってくると、はおっていたシャツを脱いで猫の上に掛けた。
絵莉子が猫を持ち上げる時に、べりべりと固まった血液がはがれる音がして賢三は顔をそむけた。
絵莉子は一度持ちあげたものの、袋が風にあおられて上手くいかない。賢三は思わず袋を押さえつける為に手を貸していた。絵莉子の額には滴が目に見えるほど汗が浮き出ていた。賢三は何度も頭の中で、こんなときに、何もこんなときにこんなことしなくてもいいのに。と繰り返していた。
「ありがとう、もう、大丈夫」
絵莉子は歩道との境の生垣にそっと猫の遺体を横たえると、目を閉じて十字を切った。尊厳のようなものが、少しだけだけど、そこに生まれた気がした。
「この時間だと、ダメか……でも、一応かけてみる」
絵莉子はケータイでどこかへ連絡しているようだった。その間に数台の車が脇を通過していった。通過していく車はみんな怪訝な顔でふたりを見ていった。
「ごめん」
電話を終えた絵莉子は、汚れた服と手を見て、謝ってきた。賢三は、いいよ、大丈夫、という意味合いで何度か頷いた。
「ねえ、どこかで、洗いたい」
「……うん」
車に戻った。絵莉子が手を気にしていたから、運転を代わった。だいぶ賢三も目が覚めたようだった。さっきまでの現実感の無さがすこし薄れ、頭が働くようになった気がする。
「ごめん。ちょっと前まで、猫飼ってて」
走り出した車の中で、絵莉子は言った。
賢三はうんうんと頷いただけだったけど、本当はもっと絵莉子に何か言いたかったのかも知れない。こんな時に、こんな状況のなかでも絵莉子は、猫を見過ごすことが出来なかったのか。特別なことなんかじゃないっていうことか。絵莉子にとってはそれがいたって自然な行動だということか。それにしたって、いまじゃないじゃないか。警察に追われているっていうのに、あんなことがあった後だっていうのに。いや、僕は別に文句を言いたいわけじゃなくて、なんか、すごいなあ、って思ったんだ。
「どうしたの?」
「いや……なんでもない」
「ん? あ、ほら、さっきのところホテルだったよ」
「ああ、駐車場がね、わかりにくくて、ははは」
まあ、いいさ。そういえばこのところちゃんとしたベッドで寝ていない。柔らかいベッドと、洗濯したてのシーツか。とりあえず、ぐっすりと眠りたい。
28
絵莉子は案外慣れた手つきで部屋を選ぶと、デビットリンチの映画に出てきそうな激しい色使いのエントランスを通り、無言のままエレベーターに向かった。
エレベーターのドアが閉まり、動き出したところで絵莉子はやっと口を開いた。
「一番安い部屋は嫌。でも、一番高い部屋って選んだことない。結局いっつも、下から二番目の部屋にしちゃうの」
「こういう所、使うんだ?」
「昔、付き合ってた人は、実家暮らしだったから」
部屋に入るなり、絵莉子はベッドに倒れこんだ。賢三は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、半分くらい飲んだ。
「私もその頃実家に帰っていたから、それでね」
妙な気持だった。昔の彼女の昔の男の話を聞くというのは。絵莉子は身体を起こして、賢三の持っていた水を欲しがった。
「何で実家に帰ったの? お父さんと上手くいってなかったじゃないか」
「三十過ぎくらいに、離婚して、そのあと一時的に、って思っているうちに、居座っちゃって。ちょうどその頃親も定年だったから、夫婦二人っきりで息が詰まるよりも良さそうだったからか、昔よりも優しくなってて、そのまま、なんとなく……」
「離婚、したんだ?」
「うん……」
残りの水を飲み干した絵莉子は「疲れた……」と呟き、もう一度ベッドに横たわった。
「頭の回転は速いんだけど、繊細で孤独な人でね。そういう雰囲気が好きだったんだけど、他者への攻撃性の強い人で、たまにそれが、私にも向くんだ。孤独だったからそうなんだろう、私がいればおさまるんだろうって、思ってたの。実際彼も自覚はしてて、私がいれば大丈夫って言ってたんだけどさ、なかなか、ね……」
賢三はわざとさほど興味が無いような、素っ気ない返事をした。そんな賢三の顔を見た絵莉子はちょっと驚いた顔で取り繕うように言った。
「そりゃあ、この歳まで何もなかったわけじゃないもの。男運がね、私、あんまり良くなくて。あ、その中では賢三は良い方だよ、その中では、なんて言われたって嬉しくないか、ははは」
絵莉子は笑った勢いのまま起き上がると、シャツを脱いで、肌着のままシャツの汚れを確認していた。肌着から見える華奢な背中があまりにも無防備で賢三は彼女から目をそらした。
湯船にお湯を入れてきた絵莉子は賢三の隣に座って言った。
「男運って、運なのかな? そういう人を選ぶ自分のせいなのかな?」
たぶん、絵莉子が選んでしまったのだろう。それは絵莉子の性質なのかもしれない。でも、わざわざいまそれを彼女に言って何になるのだろうか。
運が悪かったね。
そうか、引田はそういうことが言いたかったのか。あなたのせいじゃない。あなたが悪い訳じゃない。
「運、か……」
「引田君が彼女に、運が悪かったって言ったじゃない? あれを聞いて、私、いいなあ、私もあんなこと言われたいなあ、って彼女のことがうらやましくなっちゃったんだ」
でも引田は、それを気休めで彼女に言ったのだろうか。違う気がする。引田はたぶん、そういう男ではない。運。運命。なんだろう? それは引田の、一種の哲学だったのだろうか。
「何は運で、何は自分のせいなんだろう、前世や、DNAは? 何は自分のせいだから反省しなきゃいけなくて、何は仕方ないんだろう?」
絵莉子はそう言うと途方に暮れたように天井を見上げた。天井には星たちと天使が描かれていた。何か、意味があって描いたのだろうか。
「絵本は、描いているの?」
「いや……。んー、えーと、実家にしばらくいたのは、ちょっと、病気でね。子宮頸癌だったんだ。最近やっと、少しずつ、バイトとかが出来るようになってきたところでね。絵本なんて、描いている余裕がなくてさ……」
「そうだったんだ……」
「いや、別にね、バイトは、ずっとしているの。絵本なんて食べていける世界じゃないから。お父さんが探してきてくれて、市の施設の事務なんだけどさ。電話受けと、書類の入力なんだけどさ、時短で働くのを月末以外は許してくれるから、体調に合わせて働けるからさ。いや、私の話はいいや、つまんないんだよ。本当に、つまんないの。そうだ、私の話なんかいいや、賢三は就職しているんだもんね、仕事、何しているの?」
「僕の仕事? 家電量販店……まあ、要は電機屋だよ」
賢三は手短に今の仕事を説明した。アルバイトから社員登用されたこと、出世コースにのれて、専門学校卒の、しかもあんな専門学校で、バイト上がりとしては異例の昇進をしたこと、スーパーバイザーとしての仕事の事。
不思議と絵莉子はその話一つ一つに「意外!」だとか「すごい!」だとか大げさな反応を見せた。
なぜだろうか、それなのに賢三はしゃべりながら、なんてどうでもいい事ばかりしゃべっているのだろうという虚しさを感じていた。
初めは会社の事を社外の人に話してもわからないだろう、という虚しさかと思ったが、ちょっと感じが違う。なんだ? まさか、価値が壊れたんじゃないだろうな。
「すごいね、偉い。なんか、人生を切り開いていってる感じがするね。カッコいいよ……」
「全然、そんなことないよ。卑田には、人生が終わってるって言われたよ」
「ははは、卑しーは、悔しかったんじゃない」
「いや、当たらずとも遠からずって感じかな」
「そんなこと言ったらさ、私なんてさ……ほら、私結構上手くやれるじゃない、八方美人って感じで。意外とモテるのよ。あははは。オジサンにばっかりだけどね。飲み会なんかあるとね、私の隣って取り合いになるのよ。すごくない?」
「そうなの? なんかされたりしないの? 大丈夫?」
「大丈夫よ。ほどほどくらいまで色気のある話に付き合ってあげるんだ。そうじゃなきゃ面白くないじゃない、向こうだって。でも一定のラインよりも入ってこようと思ったら、ピシャリって感じかな。もういい歳だしね、上手くもなるわよ。だってね、完全に拒絶じゃ私みたいな立場の女なんてひどい扱いになるんだもん。うまく立ち回らないと」
ラブホテルの照明は、時間ごとに色を変え、絵莉子の顔を照らしていた。青から、紫、赤、緑。
「三十八にもなってバツイチで、子供もいなくて、アルバイトしている女なんてさ、簡単だと思われてんだろうね……あーあ、やだやだ」
絵莉子はあくまで冗談を言っている雰囲気を作り続けた。
そう言った絵莉子の額は血管が浮き出て、赤黒く色付いていた。照明? いや、違う。声にはさほど抑揚が無かったが、彼女の中に激しい感情があり、身体に熱がこもっているようだった。それはきっと怒り、だけではない。屈辱、悲しみ、歯がゆさ、嫉妬、そういうものの混ざった何かが、彼女の額から頭の先へ飛び出してしまいそうだった。
……危ない!
賢三はとっさに彼女を抱きしめていた。そうしないと、頭から何かが出てきてしまいそうだった。彼女も反射的に賢三の腕をつかんだ。身体が熱い。こんなにも人は熱を持つのか、と驚くくらい熱かった。
「賢三……! ダメだ。色んなことがありすぎて、頭痛い」
賢三は思わず絵莉子にキスをしていた。
不思議な感触だった。十二年前に、タイムスリップしたかのような感触。質感、匂い、何ひとつ変わっていないようにすら思えた。賢三は確かめるように身体に手を伸ばした。初めに腿の内側をなでる手順も昔のままで、少しだけ彼女は笑った。相手がどういう手の動かし方をすると、どんな愛撫をするのか、お互いこんなにも忘れないものなのか、彼女も暗黙のルールに則り、事を運んでいく。
彼女の肌の感触を確かめながら、賢三はこれが穴か? と自分に問いかけていた。罠のように仕掛けられた人生の穴。それにしても、ずいぶん大がかりじゃないか。てっきり僕は引田の死や、ゴミ屋敷や、卑田や美佳、そして真喜志さんの存在が穴なんだと思っていたよ。絵莉子がそうだったなんて、意外だった。
「出してもいいよ、たぶん、もう出来ないから」
不意に悲しげな顔をした彼女は、少しだけ真喜志さんに似ていた。悪い意味ではなく。
きれいな女性だな。と思った。いまさらというか、あらためてというか。
絵莉子は両手で賢三の頬を撫でた。撫でながらじっと賢三の顔を見ていた。何を思ってそうしているのか、彼女も昔を思い出しているのだろうか。
賢三はその手に手を重ねた。手の甲に、少し年齢を感じた。何の意味があるのか、賢三はその手の甲を、まるで傷んだ部分のようにずっとさすっていた。
29
朝を迎えた。
窓の外には学校へ向かう子どもたちの声や、通勤らしき車の音がせわしなくなっていて、どうやら今日も世界は通常営業をしているのだと、賢三は少しほっとした。
絵莉子に替えのシャツを用意してあげないと。
回らない頭で思いつく現実的なことといえばこれくらいしかなかった。
隣で絵莉子は黙って目を開けていた。
しばらくの沈黙の後、絵莉子が言った。
「また、逢える?」
賢三は無言のまま頷いた。
「ドキュメンタリーが出来たら見せてよね」
「わかった」
「あの三人は大丈夫かな、何かわかったら教えてね」
「どうなんだろう、大丈夫だとは思うけど」
「引田君の絵、持ってこれなかったね」
「ああ、そうだね」
絵莉子は突然身体を起こすと、馬乗りになって賢三を見下ろした。
「ねえ、あのさ、そういうのと関係なく、普通に逢ったりも、できるのかな……?」
絵莉子の首元から十字架の首飾りが吊り下がって、目の前をぷらぷらと揺れていた。そういえば絵莉子はクリスチャンだった。
「絵莉子がそうしたいのならば、それでいいよ」
絵莉子はうんうんと頷きながら、しばらく賢三の顔を見つめていた。
「まったく、優しいんだから……」
絵莉子は賢三から降りるとベットの縁に腰をおろして振り返った。
「でも、いつか、殺したくなっちゃうかも」
そう言って絵莉子はあごに手を添えて笑った。
30
家に帰ると玄関に娘が飛び出してきて、足にしがみついてきた。自転車に乗れるようになったことを何度も何度も賢三に説明しようと繰り返し話しては目を輝かせていた。妻はそんな光景を微笑ましく眺めながら、賢三の身体や食事の心配をしては、労いの言葉をかけてきた。
そして翌日から仕事に戻った。休んでいた分、多少仕事は溜まっていたが、ほとんどの事は誰かが代わりにやってくれていたようで、午前中には取り返せてしまった。有給が取れないと思っていたのはただの妄想だったのかもしれない。
そりゃそうだ。普通の会社員に、絶対にその人じゃなきゃ出来ない仕事なんてそうそうあるものじゃない。そんなことくらい分かっている。分かっているのを、分かっていないふりをしていたというか、自分に言い聞かせてきたというか、まあ、そんなものさ。
終わりの人生、か。
賢三の生活は、表面上何ひとつ変わっていないはずだった。美しくもなんともねえ日常的業務をそこそこ効率良く進めながら、それなりに上手くやっているつもりだった。
でも、そこには確実にある種の手詰まり感があった。
唯一ソニックユースの後輩だけは、すれ違いざまに「最近雰囲気変わりましたね、髪の毛でも切りました?」なんて言ってきたが、まさか賢三が穴に落ちたことなんて気付くわけもない。
卑田や美佳、あとついでにオカマにはあれ以来会っていないし、連絡も取っていなかった。意図的にしていないというわけではないのだけれど、タイミングというか、会うべき時が来れば会うんじゃないかと思ったまま、なんとなく日にちが過ぎていってしまったという感じだった。
そして、また逢えるかな? そう聞いてきた絵莉子からは、まだ何の連絡もなかった。
まあ、いいさ。こっちだってそれなりに忙しい生活があるからね。逢うべき時がくればね……。賢三は自分にそう言い聞かせ、極力普通の生活をしていた。
そう、それでも、関係があるのか無いのかわからないが、小さな変化が一つだけあった。あれ以来、上司との飲み会がひどく苦痛で、彼らが女性の部下に絡んでいくときの顔が、見るに堪えないと感じてしまうようになってしまっていた。そのときは体調がすぐれなくて、とごまかしたが、こんなこと、この先もずっとそうやってごまかし続けることなんて、出来るのだろうかと、暗い気持ちになった。
賢三は、たぶん、絵莉子からの連絡を待っているのだと思う。
たぶん。いや、本当は身悶えするくらいに待っているのだと思う。でも、日々の生活がその感情の置き所を難しくしてしまったせいか、押し殺しているうちに死んでしまったような、その感情との距離感をとても難しいものにしてしまった。
何度か、こちらから電話でもして、「やあ、元気?」なんて言ってしまおうかと思ったが、あの夜に起きたことを自らが貶めてしまうような気がして、結局、出来なかった。
そういえば、あの日、絵莉子は別れ際に不思議なことを言っていた。
「いまさらだけど、やっぱり、夢を持つって、素敵なことね」
そのときは、賢三はその使い古された言い回しに首をかしげたような気がする。それでも絵莉子は満面の笑みを崩さなかった。
「きのう、みんなに会えて、良かったよ」
「それで、なんで、夢?」
「みんな、夢があっていいなあって思ったの」
賢三は彼らの姿を思い浮かべ、苦笑した。
「いいことばかりには見えないけど」
「いいの。それでもいいの。だってみんな途中じゃない。途中であることは、素敵なことだよ」
そのときにはさほど気に留めず、再会の余韻か何かで言っているのかと思ったのだが、手詰まりであることに気付いたいまになって、絵莉子の言いたかったことがわかった。
そうか。途中なら、誰に何を言われる筋合いもない。ロックスターになる途中、女優になる途中、何かの芸術家になる途中。ある日にいまを振り返って「あの頃はハードコアだったぜ。ま、いまとなればそれも必要なハードコアだったってことかな」って、言ってしまえるかもしれないじゃないか。いや、本当にそうなるかどうかの話ではなく、そういう可能性の話。本人が途中だと思って、その可能性に手を伸ばしていれば、はた目には絶対に届かなくて、滑稽に見えたとしても、届くかもしれないと手を伸ばし続けていられたら、それはそれ自体がとても幸せなことなんだと思う。
結局、賢三の手に残ったのはドキュメンタリーの素材たちだけだった。それらはパソコンのハードディスクの中で、とても無様に、ひどく不格好で、恥に満ち溢れているというのに、狂おしいほどに何かを表現したがっていた。言葉にならない言葉のように、弾けもしないギターのように、完成しなかった小説のように、世界を変えられるかもしれないと感じたあのアイデアのように、その何かだけが、その得体の知れない何かだけが、賢三の手元に残されていた。
「なあ、そこのお前! そんなところで画面見てたって何にも変わんねえぞ。そんなとこにいねえでこっちに来いよ!」
ピンスポットに照らされた男のきつい青森弁に誘われて、賢三は部屋を飛び出した。
玄関では妻が、笑っているようにも泣いているようにも見える顔で言った。
「お父さん……帰ってきてね」




