第1話 そして、柔らかいものを蹴った
そして、柔らかいものを蹴った
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僕の名前はタクト。
でも、それはこの身体の名前だ。
三ヶ月前、目が覚めたとき、僕はこの村の藁の山の上に寝転がっていた。
頭の中には、他人の記憶がぐちゃぐちゃに詰まっていた。
十八歳。
村人。
薪割り。
薪売り。
で、僕自身は——
前世はただの普通の人だった。
どれくらい普通かって言うと、人混みに紛れたら絶対に見つけられないくらい普通。
小心者でもあった。
何かあったら、最初に出る言葉はいつも同じ:
「どうしようどうしようどうしよう」
で、ある日。
僕は道を歩いていた。
——車に轢かれた。
目が覚めたら、ここにいた。
この手は薪みたいに細い。
この身体はちょっと歩いただけで息切れする。
その後、僕はもう色々考えるのをやめた。
毎日薪割り。
薪売り。
本物の村人みたいに生きてた。
あの日までは。
町へ薪を売りに行く道で。
僕は柔らかいものを蹴った。
下を見た。
手だった。
人の手。
叫びそうになった。
足がすぐに竦んだ。
最初に出たのは——
逃げよう。
でも、どうしてか、動けなかった。
草の上に誰かが寝転がっていた。
銀色の鎧を着てる。
胸に大きな傷がある。
血はもう乾いてる。
目はまだ開いてる。
その顔を長いこと見つめた。
そして思い出した。
村の掲示板に貼ってあった顔だ。
勇者候補。
王国は魔王を討伐できる人を探していた。
何人か選ばれたらしい。
彼らは呼ばれていた——
勇者候補。
まさかこんなところで死んでるなんて思わなかった。
風が草原を吹き抜ける。
草がサラサラと揺れる。
僕はそこに立って、頭が真っ白になった。
長いこと経った。
五分?十分?
ようやくゆっくりしゃがみ込んだ。
震える手で、彼の目を閉じてやった。
隣に革袋があった。
布地がいい。
村人が使えるようなやつじゃない。
その革袋を見つめた。
手はまだ震えてる。
開けるべきじゃないって分かってる。
これは死んだ人の物だ。
誰か来るのを待って。
王都に届けるべきだ。
でも——
開けてしまった。
中に手紙があった。
羊皮紙。
赤い紋章が押してある。
王都の紋章だ。
村の掲示板に貼ってあったやつ。
手紙にはこう書いてあった:
「魔王討伐の勇者候補に任ず」
その下の行を見た。
名前が。
空欄だった。
長いこと見つめた。
それから周りを見回した。
誰もいない。
風だけ。
草だけ。
そして、寝転がったままの候補者。
手紙を折って。
革袋に戻した。
立った。
二歩歩いた。
止まった。
また戻った。
もう一度しゃがみ込んだ。
もう一度その手紙を取り出した。
もう一度見た。
名前の欄は。
やっぱり空欄だった。
その夜。
僕はあの丘の上に一晩中座っていた。
色んなことを考えた。
あの空欄のことを。
前世のことを。
何もやりたいと思ったことはあっても、何もやり遂げられなかったことを。
死に方さえ普通だったことを。
車に轢かれて。
それで終わり。
死んだ時、手にはコンビニの袋を握っていた。
でもこの人は。
せめて鎧を着たまま死んだ。
空が白み始めた頃。
僕は立った。
足が痺れてた。
あの手紙を折って。
自分の胸の中に入れた。
何をしてるのか分からなかった。
本当に分からなかった。
ただ、そう思った——
もし今村に戻ったら。
明日も薪割り。
明後日も薪割り。
あと何年かしたら、多分他の皆と同じように、静かにどこかの冬に死ぬんだろう。
まるで生きてなかったみたいに。
地面に落ちていたマントを手に取った。
埃を払った。
自分の肩に掛けた。
ちょっと重い。
大きすぎる。
地面に引きずってる。
俯いたまま。
王都へ向かって歩き出した。
二、三歩歩いて。
止まった。
振り返った。
あの人はまだそこに寝ていた。
口を開けた。
何か言おうとした。
でも何も言えなかった。
向き直って。
また歩いた。
二、三歩歩いては、また振り返る。
誰かが後ろから追いかけてくる気がした。
叫ぶんだ:
「この偽物者!」
でも誰もいない。
ただ風が草原を吹き抜ける音だけ。
歩き続けた。
心臓は早鐘を打ってる。
足はまだ震えてる。
マントは地面に引きずられて、土だらけ。
でも、どうしてか。
一歩。
一歩。
前に進む。
一時間ぐらい歩いてから、やっと振り返ることができた。
村はもう見えない。
あの丘も見えない。
ただ道だけ。
ずっと先まで続いてる。
王都までどれくらいあるのか分からない。
魔王がどこにいるのか分からない。
勇者候補が何をすべきなのか分からない。
このマントがあと何日持つのかさえ分からない。
でも歩いてる。
足はまだ震えてるけど。
太陽が昇ってきた。
背中に当たって、少し暖かい。
俯いて、地面に映った自分の影を見る。
マントの影が長く伸びてる。
まるで本物の勇者みたいに。
——なわけない。
自分で思わず笑いそうになった。
本物の候補者はあの丘の上に寝てる。
で、俺は。
車に轢かれて死んだただの普通の人が。
彼のマントを着て。
王都へ向かってる。
この話、最初から最後までおかしい。
でも止まらなかった。
勇気があるからじゃない。
ただ——
前に進む以外に、何ができるのか分からなかっただけだ。
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五日目の夕方。
前に火の光が見えた。
村じゃない。
ただの道端の野営地だ。
一人の人が焚き火のそばに座っていた。
銀色の髪が、火の光に照らされて、かすかに光ってる。
少女だった。
十五、六歳くらい。
黒い服を着て。
膝の上に剣を置いてる。
道端に立って。
行っていいものかどうか迷った。
彼女が顔を上げた。
僕を見た。
「君も王都へ?」
声は淡々としてる。
一瞬、戸惑った。
頷いた。
彼女は何も言わずに。
また火を見続けた。
僕はそこに立ったまま。
行くべきか、留まるべきか分からなかった。
しばらくして。
彼女は顔も上げずに言った:
「座れば?」
「火は私のものじゃないし」
ゆっくり歩いて近づいた。
遠く離れて座った。
火は暖かい。
マントにくるまって、炎が揺れるのを見てた。
しばらくして。
彼女が突然言った:
「君、勇者?」
体が硬直した。
頭の中で「ブーン」って音がした。
終わった。
バレた?
どこで?
マント?
歩き方?
それともこの顔が全然勇者に見えない?
口を開けた。
話そうとした。
でも声が出ない。
彼女が僕を見た。
そして視線をそらした。
「マントに王都の紋章がある」
「それを着てるのは、勇者候補だけ」
下を見た。
マントの内側に。
確かに小さな紋章があった。
今まで気づかなかった。
長い沈黙の後。
僕は言った:
「……はい」
声は小さかった。
自分にも聞こえないくらい。
彼女は追及しなかった。
ただ「うん」って言っただけ。
しばらくして、彼女が言った:
「私も王都へ行くところなんだ」
「明日、一緒に行かない?」
僕は固まった。
彼女は火を見たまま、僕を見ない。
「一人だと退屈だから」
言いたかった:
俺は偽物なんだって。
君は一緒に行くべきじゃないって。
僕はゴブリンにも勝てないって。
でも何も言えなかった。
ただ頷いただけ。
「……うん」
その夜。
僕はぐっすり眠った。
多分、久しぶりに誰かと話したから。
もしかしたら、やっと一人じゃなくなったから。
一晩だけでも。
明日、彼女に偽物だとバレても。
例え——
もういい。
やめた。
明日のことは。
明日考えよう。
初めて書きました。ゆっくり更新しますが、よろしくお願いします。




