制作進行、地獄の誕生 第3話:お願いします、あと1時間だけ
作者のかつをです。
第六章の第3話をお届けします。
制作進行が「悪魔にでも天使にでもなる」と言われる所以。
今回はそんな彼らの仕事の最も人間臭く、そして最も過酷な側面に焦点を当てました。
※この物語は史実を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
2025年、東京。
人気アニメーターのSNSアカウントに担当の制作進行への感謝のメッセージが投稿される。「いつも無茶なスケジュールに付き合ってくれてありがとう。君がいなかったらこの作品は完成しなかった」。その温かいメッセージにはファンからの「いいね」が殺到する。クリエイターと制作進行の良好なパートナーシップ。それは作品のクオリティを左右する重要な要素の一つだ。
私たちは、その理想的な関係性を当たり前の美談として受け止めている。
しかし、そのパートナーシップが本来は締め切りという冷徹な現実と、クリエイターの繊細なプライドとの狭間で繰り広げられるギリギリの心理戦であったことを知る者は少ない。
深夜、杉並区の木造アパートの一室。
若き制作進行の佐藤(仮名)は部屋の隅で小さくなって正座をしていた。
目の前の机ではこの道何十年というベテランの原画マンが、腕を組んだまま押し黙っている。
「……描けん」
低い声が部屋の重い空気を震わせた。
「アイデアが浮かばんのだ。こんな中途半半端なものを世に出すくらいなら死んだ方がマシだ」
締め切りはとっくに過ぎている。
佐藤の頭の中では次の工程のスケジュールが警報を鳴らしている。
この原画が上がらなければ、動画も彩色も撮影も全てが止まってしまうのだ。
しかし彼は決して「早く描いてください」とは言えなかった。
そんな無神経な一言がクリエイターの繊細なプライドをどれほど深く傷つけるか。
そしてその結果関係がこじれ、二度と仕事をしてもらえなくなるかもしれない恐怖を彼は知っていた。
制作進行の仕事の本質。
それは運転技術ではなかった。
人と人とのコミュニケーション。
時にカウンセラーのように相手の愚痴を聞き、時にセールスマンのようにおだて上げ、そして時に借金取りのように相手を追い詰める。
そのあまりにも人間臭い「交渉」と「懇願」こそが、彼らの真の戦場だった。
「先生、お気持ちは分かります」
佐藤はゆっくりと言葉を選んだ。
「先生の描くアトムがどれほど素晴らしいか、テレビの前の子供たちはみんな知っています。僕も毎週先生の原画を見るのが楽しみなんです。特に先週のあのアトムの悲しい表情……あれは神様、手塚先生のコンテを超えていましたよ」
お世辞ではなかった。
本心だった。
彼は自分が運んでいる一枚一枚の絵に、深い愛情と尊敬の念を抱いていた。
その純粋な思いが伝わったのか。
ベテラン原画マンの険しい表情がわずかに緩んだ。
「……そうか」
「はい。ですから先生、どうかお願いします。あと1カットだけでいいんです。今日の朝までにあと一枚だけ……。そうすれば後の工程は僕が何とかしますから」
佐藤は畳み掛けるように頭を下げた。
その額は畳に擦り付けられんばかりだった。
お願いします。
その言葉だけが彼らが持つ最強の、そして唯一の武器だった。
長い沈黙の後。
ベテラン原画マンは静かにペンを手に取った。
「……分かった。お前さんがそこまで言うのなら描こう」
佐藤は顔を上げることができなかった。
安堵とそして自分の無力さへの情けなさで、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えていた。
クリエイターの魂の輝きを守ること。
そして放送という絶対的な現実を守ること。
その二つの矛盾した使命の狭間で、制作進行たちは毎晩毎晩こうして、たった一人で頭を下げ続けていたのだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
この「待つ」という仕事は本当に精神をすり減らすものだったと言います。多くの伝説的なアニメーターが同時に、伝説的な「締め切り破り」でもあったのです。
さて、なんとか原画は上がりました。
しかしそれはまだ地獄の入り口でしかありませんでした。
次回、「放送事故との戦い」。
本当の時間との競争が始まります。
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