『鉄腕アトム』とリミテッドアニメの発明 第2話:眠らないスタジオ
作者のかつをです。
第五章の第2話をお届けします。
ブラックな労働環境。しかしそこには確かに青春の熱狂があった。
今回はそんな単純には割り切れない、初期のアニメスタジオの混沌としたリアルな日常の空気を描いてみました。
※この物語は史実を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
2025年、東京。
「アニメ業界の働き方改革、進む」。ニュースサイトがそんな見出しの記事を掲載している。労働時間の管理、福利厚生の充実。かつて「ブラック」と揶揄された業界も少しずつその労働環境を改善しようと努力を続けている。クリエイターが心身ともに健康でなければ良い作品は生まれない。その当たり前の価値観がようやく浸透しつつある。
私たちは、その健全な労働環境を当たり前の目標として語ることができる。
しかし、かつて日本のアニメ制作の最前線が、若者たちの情熱と自己犠牲というあまりにも危うい燃料だけで動いていた狂乱の時代があったことを知る者は少ない。
1962年晩秋、富士見台、虫プロダクション。
そのオンボロの砦はもはや24時間眠らない巨大な生命体と化していた。
スタジオのどの部屋の窓からも夜が更けても煌々とした光が漏れている。
中では何十人もの若いスタッフたちが、まるで何かに取り憑かれたかのように一心不乱に机にかじりついていた。
放送開始日はもう目前に迫っている。
手塚治虫が「3万枚も描く必要はない」と謎めいた言葉を口にしてから、スタジオの空気は少しだけ軽くなった。
しかしだからといって仕事が楽になったわけでは全くなかった。
神様から具体的な「革命」の内実がまだ明かされないまま、彼らはただ目の前にある膨大な枚数の原画と動画の山と格闘し続けるしかなかったのだ。
時間は絶対的に足りなかった。
家に帰るという概念はもはや誰の頭の中にも存在しなかった。
スタジオの床のあちこちで仮眠用の寝袋が無造作に転がっている。
数時間の仮眠を取り起き上がると、彼らはまたゾンビのように自分の机へと戻っていく。
食事は近所の中華料理屋からの出前だけが頼りだった。
栄養のバランスなど誰も気にしていない。ただ空腹を満たすためだけの燃料補給だった。
衛生環境は劣悪を極めていた。
インクと絵の具、そして何日も風呂に入っていない若者たちの汗の匂いが入り混じった、独特の濃密な空気がスタジオに充満していた。
それは現代の労働基準法に照らし合わせれば一発でアウトになるような異常な空間だった。
しかし不思議なことに、その地獄のような環境の中で彼らの瞳は暗く淀んではいなかった。
むしろその奥には異様なほどの明るい光が宿っていた。
「俺たちは今、歴史を作っているんだ」
その強烈な自負と高揚感。
漫画の神様である手塚治虫と同じ屋根の下で同じ釜の飯(出前)を食べ、同じ目標に向かっている。
その特権的な一体感が彼らの全ての苦しみを麻痺させていた。
深夜、作業に疲れた者がギターを弾き始めると、どこからともなく合唱が始まる。
誰かが面白い失敗をすればスタジオ中に爆笑の渦が巻き起こる。
それは過酷な戦場でありながら同時に、かけがえのない青春の祝祭の空間でもあったのだ。
しかし誰もが心のどこかでは気づいていた。
この狂乱の祭りは長くは続かない。
このままでは放送が始まる前に全員が倒れてしまう。
限界はすぐそこまで近づいていた。
彼らは神様が一日も早くその約束の「革命」を起こしてくれることを、ただひたすらに祈り続けていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
この虫プロの文化祭前夜のような独特の雰囲気は、多くのOBたちのインタビューで語られています。このカオスな熱狂の中からしか生まれ得ないエネルギーが確かにあったのでしょう。
さて、いよいよ限界が近づいた若者たち。
ついに神様がその革命の全貌を明らかにします。
次回、「動かさずに、動いているように見せる魔法」。
アニメの常識が覆ります。
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