宮崎駿とスタジオジブリの船出 第5話:ラピュタという名の船出
作者のかつをです。
第十八章の第5話をお届けします。
今では国民的映画となっている『ラピュタ』ですが、公開当時は決して大ヒットとは言えない数字でした。
それでも、その質の高さは誰もが認めるところであり、ジブリの評価を決定づけました。
※この物語は史実を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
1986年8月2日。
スタジオジブリ制作第一回作品『天空の城ラピュタ』が公開された。
宮崎駿が「小学生の男の子が楽しめる冒険活劇を」と意気込んで作ったこの映画は、まさにアニメーションの快楽そのものだった。
空に浮かぶ伝説の島。
少年と少女のボーイ・ミーツ・ガール。
空賊とのカーチェイス、巨大な飛行戦艦、古代のロボット兵。
そして、「バルス!」という滅びの言葉。
全編に溢れる躍動感。
空の青さ、雲の白さ。
久石譲の奏でる壮大な音楽。
それは、手塚治虫が夢見、東映動画が目指し、そして宮崎駿という天才が到達した、日本のアニメーションの一つの頂点だった。
観客たちは、スクリーンの中を縦横無尽に飛び回るパズーとシータに、自分自身を重ね合わせた。
ハラハラし、ドキドキし、最後には清々しい感動に包まれる。
「これぞ、映画だ」
鈴木敏夫は、劇場の暗闇の中で確信した。
しかし、現実は甘くはなかった。
『ラピュタ』の観客動員数は77万人。
興行収入は、前作『ナウシカ』を下回ってしまったのだ。
内容は最高だった。評価も高かった。
だが、数字がついてこなかった。
「なぜだ……」
原因はいくつかあった。
SFファンタジーというジャンルが、当時の一般層にはまだ少しマニアックに映ったこと。
宣伝が十分に行き届いていなかったこと。
しかし、ジブリにとって興行成績の不振は死活問題だった。
「一本の映画で稼いだ金を次の映画につぎ込む」という自転車操業のシステム。
稼ぎが少なければ、次は作れない。
スタジオに重い空気が漂った。
「これでジブリも終わりか……」
しかし、宮崎駿と鈴木敏夫は止まらなかった。
「数字は数字だ。でも、俺たちはいいものを作った」
「次だ、次を作ろう」
彼らは、すぐに次の企画へと動き出した。
次は二本立てだ。
宮崎駿の『となりのトトロ』と、高畑勲の『火垂るの墓』。
あまりにも無謀な、そしてあまりにも異質な二本立て興行。
起死回生の賭けに出るしかなかった。
『ラピュタ』という船は、商業的な大成功という港にはたどり着けなかったかもしれない。
しかし、その船出は、ジブリというスタジオが「傑作しか作らない」という強烈なブランドイメージを確立するための、重要な航海だった。
そして、この映画を見た子供たちの心に蒔かれた種は、数十年後、インターネット上で「バルス祭り」という世界記録を生み出すほどの、巨大な樹木へと成長することになる。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
『ラピュタ』の興行成績が振るわなかったことで、逆に鈴木敏夫プロデューサーの宣伝魂に火がついたとも言われています。その後のジブリの爆発的なヒットの裏には、この時の悔しさがあったのかもしれません。
さて、ジブリは存続の危機を乗り越え、さらなる挑戦へと向かいます。
しかし、いつまでも「解散前提」の組織ではいられなくなっていました。
次回、「理想は、続くか」。
スタジオジブリが、真の「会社」へと変わる決断の時です。
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