宮崎駿とスタジオジブリの船出 第4話:吉祥寺の小さな城
作者のかつをです。
第十八章の第4話をお届けします。
伝説の作品が生まれた場所は、決して豪華な場所ではありませんでした。
狭く、煙たく、そして熱い。
そんな初期のジブリスタジオの空気を描きました。
※この物語は史実を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
2025年、東京。
現在のスタジオジブリは、小金井市にある緑に囲まれた美しい建物だ。しかし、その歴史の第一歩が刻まれたのは、吉祥寺の駅近くにあった、ごく普通の貸しビルの一フロアだった。
1985年。
『天空の城ラピュタ』の制作真っ只中。
吉祥寺のスタジオ、通称「第1スタジオ」は、混沌と熱狂の坩堝だった。
約300平方メートルのフロアに、90人近いスタッフがひしめき合っていた。
机と机の間は人が一人通るのがやっと。
窓は締め切られ、部屋中にはアニメーターたちが吸う煙草の煙が白く立ち込めていた(当時はまだ、分煙という概念は希薄だった)。
その煙の奥、部屋の一番奥の窓際に、宮崎駿の席があった。
彼は白いエプロンをかけ、誰よりも早く出社し、誰よりも遅くまで机に向かっていた。
彼の背中は、スタッフたちにとって無言のプレッシャーであり、同時に最大の道しるべでもあった。
「宮崎さんが描いているうちは、帰れない」
そんな空気がスタジオを支配していた。
一方、プロデューサーの鈴木敏夫は、スタジオの入口近くに陣取り、絶え間なく鳴る電話の対応や、制作費の計算、宣伝プランの練り上げに奔走していた。
彼の仕事は、宮崎という巨大なエンジンが暴走しないように、あるいはガス欠にならないように、燃料を注ぎ続け、レールを敷き続けることだった。
そして、もう一人の巨頭、高畑勲。
彼は今回、プロデューサーという立場で参加していたが、その理路整然とした視点は、感覚派の宮崎を補完する重要な役割を果たしていた。
狭いスタジオの中では、常に怒号と笑い声が交錯していた。
「間に合わないぞ! 急げ!」
「飯だ! 出前が来たぞ!」
徹夜明けのスタッフが床で仮眠を取り、起きたそばからまた鉛筆を握る。
ラジオからは当時のヒット曲が流れ、それが制作のBGMとなっていた。
そこは、洗練されたオフィスというよりは、文化祭前夜の教室、あるいは野戦病院のような場所だった。
しかし、そこには確かに「魔法」が生まれる気配があった。
鉛筆の削りカス、消しゴムの山、インクの匂い、コーヒーの香り。
それらすべてが混じり合った独特の空気の中で、パズーが空から降りてきたシータを受け止めるシーンが、ドーラ一家がはばたくシーンが、一枚一枚、命を吹き込まれていった。
吉祥寺の小さな城。
そこは、世界中の子供たちに夢を届けるための、世界で一番熱い工場だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
宮崎駿監督がエプロンをするのは、絵の具や鉛筆の粉で服が汚れないようにするためですが、今ではそれが彼のトレードマークのようになっていますね。
さて、この混沌としたスタジオから、ついに記念すべき第一作が飛び立ちます。
次回、「ラピュタという名の船出」。
冒険活劇の金字塔が、いよいよスクリーンへ。
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