宮崎駿とスタジオジブリの船出 第2話:もう、会社には縛られない
作者のかつをです。
第十八章の第2話をお届けします。
スタジオジブリの設立理念。
それは「会社を存続させること」ではなく、「作りたいものを作ること」が最優先されるという、極めて異例なものでした。
※この物語は史実を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
『風の谷のナウシカ』を作り終えた宮崎駿と高畑勲は、燃え尽きると同時に、ある確信を得ていた。
「自分たちが作りたいのは、こういうものだ」
彼らが求めていたのは、毎週の締切に追われ、作画の質を落としてまで放送を続けるテレビアニメではなかった。
時間と予算をかけ、妥協することなく細部までこだわり抜いた、一本の「映画」としての長編アニメーション。
しかし、当時のアニメ業界には、そんな贅沢なものを作り続けられる場所はどこにもなかった。
東映動画のような大企業でさえ、テレビシリーズの合間に映画を作るのが精一杯。
フリーのアニメーターとして活動していた彼らにとって、理想の制作環境は夢のまた夢だった。
そんな彼らに、編集者・鈴木敏夫がとんでもない提案を持ちかける。
「だったら、場所を作っちゃえばいいじゃないですか」
「長編映画を作るためだけの、専用のスタジオを」
それは、ビジネスの常識からすれば狂気の沙汰だった。
アニメスタジオの経営は、毎週決まった収入が入るテレビシリーズがあって初めて安定する。
ヒットするかどうかも分からない映画一本に全てを賭け、作り終わったら解散する。そんな不安定な組織が成り立つはずがない。
しかし、宮崎と高畑は、その狂気に乗った。
いや、彼ら自身が誰よりも、その狂気を求めていたのだ。
「会社のためじゃない。作品のために集まる場所だ」
「一本の映画で稼いだ金は、全部次の映画につぎ込む」
「失敗したら、それでおしまい。潔く解散する」
それは企業というより、芸術家たちが集う「工房」に近い構想だった。
安定も、保証もない。あるのは「良いものを作りたい」という純粋なエゴイズムだけ。
1985年、東京・吉祥寺。
とあるビルの二階に、小さなスタジオが設立された。
その名は「スタジオジブリ」。
サハラ砂漠に吹く熱風(GHIBLI)に由来するその名前には、「日本のアニメ界に旋風を巻き起こす」という彼らの挑戦的な意志が込められていた。
(ちなみに宮崎は「ジブリ」と発音したが、原語の発音は「ギブリ」に近いというのは有名な話だ)
社長は徳間書店の徳間康快。実質的なプロデューサーは鈴木敏夫。
そして制作のトップには、宮崎駿と高畑勲。
彼らは背水の陣を敷いた。
退路は断たれた。
次の作品がコケれば、この城は一夜にして砂上の楼閣となる。
しかし、そのギリギリの緊張感こそが、彼らが必要としていたガソリンだった。
誰にも縛られない。スポンサーの顔色も伺わない。
ただ、自分たちが「面白い」と信じるものだけを作る。
その高潔で危険な船出に、日本中の腕利きのアニメーターたちが注目していた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
「一本作って失敗したら解散」。このいつ終わるとも知れない緊張感が、初期のジブリ作品の圧倒的な熱量を生み出していたのかもしれません。
さて、箱はできました。次は中身です。
最高のアニメを作るためには、最高の腕を持つ職人たちが必要です。
次回、「最高の職人だけを集めろ」。
宮崎駿による、妥協なきスタッフ集めが始まります。
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