道標 7
「え、伯爵様がお戻りに」
「はい……。今夜お会いになられるとのことです……」
「そんな、急に」
「……何か、不都合でも……」
珍しく、カティアの部屋にブラックンがやって来た。
カティアの胸は知らず知らずのうちに弾んでいたのだが、話の内容は長い外出から伯爵が戻って来たとのことった。
カティアの肩に、何か重しでも乗ったような重さが感じる。
ブラックンが急に余所余所しい言い方をするのも悲しい。
カティアは無理やり笑顔を作って言う。
「分かりました」
「では、今夜お部屋にお迎えに上がります……」
「はい……」
ブラックンが何か言いたそうな、顔をしているのはきっとカティアの思い込みだろう。
カティアはくるりと背を向ける。
これ以上ブラックンを見ていたら、想いを告げてしまいそうだ。
それは、それだけは、いけない。
だが。
部屋を辞しようとするブラックンの腕を、カティアは掴んでいた。
ブラックンが息を呑んで目を見開くのが見えた。
「ブラックン……!」
「…………」
二人の間に、しばし沈黙が流れた。
「……ゴミが、付いていました」
「……ありがとうございます……。では」
パタリ、とドアが閉じると同時にカティアの目からぽろりと涙が零れた。
それは、後から後から拭っても止まらない。
「どうしよう」
カティアは座り込んだ。
こんな思いでは、伯爵様にもブラックンにも顔を合わすことが出来ない。
こんな、想いで初夜を迎えるなんて、とても出来ない!
だって、だって……。
ブラックンへの焦がれるような想いでは、伯爵様を傷つけてしまう。
カティアの胸にどうにかしなければ、という焦りが生まれる。
このまま、想いを抱えたまま伯爵様と結ばれるのか。
「出来ない……!」
カティアは、決めた。
そして夜。
あたりは真っ暗だ。
「よいしょ……っと!」
誰もいない、裏手の二階の部屋の窓からカティアは身を乗り出した。
手には布で作った縄梯子を握っている。
「誰も、居ないわね」
左右を見て、後ろを見てカティアは呟く。
此処を静かに去る。
それが、カティアが決めたことだった。
静かに去って、どこかで一人暮らそう。
親元には帰れない。
ふいに、子どもたちの顔が浮かぶ。
猫のおねーさんと慕ってくれた子は大丈夫だろうか。
あ、そう言えばロイドに挨拶もしてなかった。
ジュシュアに、パジャマのボタンの縫い付けをと頼まれていたっけ。
それに。
ブラックンにも何か言いたかった……。
そんな思いが決心を鈍らせたのだろう。
「きゃっ!」
握っていた布の縄梯子から、カティアは手を滑らせた。
このままでは二階からの高さだ、怪我をする……!
その時だった。
真っ逆さまに落ちるはずだったカティアの手を誰かが掴んだ。
「カティア! しっかり握っていろ!」
はっきりとよく通る男性の声。
カティアの知らない人だ。
間一髪落ちるのを免れて、カティアは部屋に戻れた。
荒い息をつく男性はカティアをぎゅっと抱きしめた。
「馬鹿者! 落ちて怪我をしたら、どうするんだ!」
「ごめんなさい!」
「猫じゃないんだから……。本当に全く!」
ぎゅうぎゅうと腕を締め付けられて、カティアは何故だかホッとしたのだった。
「あの、貴方は……?」
拘束を解かれて、やっとの事でそう尋ねたカティアは答えを聞いてそれこそ猫の様に飛び上がった。
「貴女の夫です」
それが、目の前の男性の正体だった。
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