1.小さな冒険への一歩
2013.7.31.名称一部修正
冬の空に、とても冷たい風が吹いている。
どこにでもある小さな公園に、独りの中年の男が、大切そうに毛布にくるんだコーギーを抱いていた。男が抱いているのは昨日死んだ彼の飼い犬のチャミであり、チャミは既に冷たかった。彼にとって唯一つの生きる支えを彼は昨日、失ってしまったのである。両親はとうの昔に死んでいる。彼は一人っ子であり、仮想ゲームにしか生きている意味を持たない低収入者である。
もう彼には生きる為の希望も明るい未来もない世界に留まる意味を持たない。
「もう、生きていくのは疲れた。」
だから彼は昨日から何も飲まず食べもしない。既に彼の意識は混濁している。
「もうじき、お前のいる場所へ逝ける。」
彼の最後の言葉だった。
彼は、そのまま動かず次の夜明け前に凍死する。
ふつうの努力と、ふつうの才能しかない彼のような庶民にとって、世界競争社会はあまりにも厳しかった。
そんな彼が、チャミに出会ったのはこの公園だった。
それは、何年か前の事だった。
彼は、その日、アルバイトを首になり、値引のシールが着いた安い食パンを抱えて、いつもの様にベンチに座って食パンを食べていた。
金が少ない時の彼の食事である。
彼が首になってしまった理由は、仮想ゲームの世界に入り浸り、何度目かの遅刻をした為だった。そして、彼はその時、このまま死のうかと考えていた。
「このまま、生きていても、意味なんて無い。」
そんな事を考えていた彼の目の前に、突然、胴長短足の犬、チャミが現れる。
「おう?」
彼が、驚いていると、コーギーの飼い主の老人が現れる。
「すみません。ほら、チャミ、行くぞ。」
しかし、コーギーのチャミは動かず、彼と食パンをキラキラした目で、見つめている。
彼が、食パンを千切る。
「あげてもいいですか?」
老人が、少し困った顔をするが、チャミは口から舌を出し、片方の前足を上げる。
多分、おやつをあげる時のポーズだと思った彼が老人に視線を移すと、仕方ないという表情で老人が頷く。
彼は食パンを千切り、与える。
更に前足を上げるが、もう彼は食パンを与えない。
本来、人の食べ物は、犬にとって味が濃すぎるのである。だから、老人は彼が食パンを与えることに困ったのである。
コーギーのチャミと老人が去った後、彼は立ち上がった。
「もう少しだけ、頑張ろう。」
コーギーのチャミを見て、彼に少しだけ意味ができたのである。
それから、新しいアルバイトを始めた彼は、時々、公園で、老人とコーギーのチャミに会う。
もちろん、彼はコーギーのチャミに会う為に、アルバイトの休みは、公園になるべくいるようにしている。
そんなある日、いつもよりゆっくりとした足取りの老人がコーギーのチャミを連れて公園に現れる。
彼は、いつもの様に食パンを千切る。
しかし、老人は胸を押さえながら、彼のとなりに腰掛ける。老人の表情は苦しそうだ。
彼が問いかけると、老人はチャミのリールを彼に渡して言う。
「この犬をお願いします。」
老人は、そう言うとベンチから倒れてしまう。
その後、急いで救急車を彼が呼ぶが、老人は既に逝った後だった。
その後、彼はコーギーのチャミを引き取り、チャミの為に、真面目にアルバイトをしていた。
彼は、気が付いてはいなかったが、知らない内にアニマル・セラピーで、少しだけ生きる意味を見つけることができたのだ。
しかし、その小さな意味もコーギーのチャミの死と共に無くなる。
そして、冬の公園のベンチで、フツウ・タダロウは、まぶたを閉じて死んだはずだった。
しかし声が聞こえてきた。
「既にお前は死んでいる。目を覚ませ!」
タダロウは、死ぬ前のやけにはっきりした幻聴だと思った。だから、目を閉じたまま、もう一度死のうとした。しかし、再びはっきりした声を、タダロウは聞く。
「わしは忙しい。さっさと転生の希望を言え!」
やけにはっきりした声なので、仕方なく目を開けて、声のした方を見る。そこには、金魚バチのようなものを被った犬が、宇宙服を着たような格好でいる。その姿は、鼻の部分が出っ張った青森の遮光器土偶に近い。
タダロウは人生の最期まで意味の無い夢だなと思った。
ただ、何か言わないと土偶ような存在が納得しない感じなので、取り合えずコーギーのチャミの様に可愛い存在に成りたいと希望を言った。
「可愛い存在になりたい。」
この言葉を最後にタダロウは、今度こそ本当に意識が無くなる。
タダロウが意識を取り戻したのは、6才の誕生日だった。
それは、自分の前に、何かの裏側に名前と共に6才の誕生日おめでとうと書かれた紙が置かれていたのでわかった。
名前はノン、どうやらコーギー犬族という人と犬の間のような存在になったようだ。この時タダロウはどうやら別の世界に転生したことを理解する。
自分と自分の両親が共にかつての人とは違う存在で、言葉を話しているのである。異世界への転生だろうと理解する。
更に飼っていたコーギーがどうやら転生して人に近い存在になっていた事に驚く。もちろんノンの転生は嬉しい。ただ、どうやらタダロウは、ノンの内心に居候していた。
(まあ、暫く様子を見よう。)
何しろ、彼はまだ状況が分からない。
そして誕生日にも関わらず、ネコまんましかちゃぶ台の上にない。
家族は目の前にいる大きなコーギー犬族が父、隣で産まれたばかりの赤ちゃんを背負ったブルドック犬族が母だった。
とにかく、転生の時に可愛くなることを希望したが、それだけでは、不充分だと思うタダロウだった。
それにしても、ノンの家族が貧乏な場合、まずいとタダロウは思う。
(いや、まだ、貧乏だと判断するのは早い。)
貧乏とは相対的なものなのだと思い、ノンの内心にいるタダロウは、とりあえず転生先のノンの様子を見ることにする。
食事は、あっという間に終わる。職人の採用試験は、食事時間である。つまり、ゆっくり食べる人は採用されない。ウメの父、タダ夫は職人であり、食べるのは速い。
ただこの世界でも、世界競争の影響でタダ夫は失業している。
ちゃぶ台の上の食器をかたずけると、内職の準備を母親のマサ子が始める。タダ夫は姿を消す。ノンは当然のようにマサ子の横に座る。ノンは内職の手伝いで、お小遣いを貰っている。
内職は、観光地で売っている旗とか、ケースの糊つけとか、造花とか、さまざまなものだが、手間賃は安い。いつもは完成したものを渡してから、手間賃としてお小遣いを貰う。しかしノンは首を少し曲げ、ニコと微笑みながらマサ子にねだる。
「お小遣い欲しいワン!」
可愛いくノンにねだられると、仕方なくマサ子が今日の分の手間賃を渡す。
可愛い存在である事は、役に立つ。これは内心のタダロウも実感した。
豚人族であるミツルの父親は役所に務めており、エリートではないが真面目に勤めている。母親は専業主婦でミツルに優しい。
この両親は共に豚人族であり、両親の影響でミツルは、真面目で優しい性格である。
この異世界では、豚人族は凶暴であるより、真面目で平和的な存在が多いようだ。だから、ミツルの両親は現状に満足している。
しかし、ミツルの心の奥底には何かがブクブクと漏れていることをミツル本人は感じている。
だから両親が賛成していなくても、ミツルはウメと遊んでいる。ミツルはウメといると少しだけ冒険できると思えるのだった。そこにウメがやって来る。
今日は、ミツルはノンと少しだけ冒険する予定だ。
「金竜寺へ行くブー」
ミツルがノンに確認する。
ノンも昨日もらったお小遣いを握って頷く。
二人は金竜寺の繁華街へと向かって歩きだす。
ミツルの家から先の道路は石で舗装されている。ミツルは運動靴で、ノンは裸足だが、ウメは、気にしていない。(ほとんどの子供は運動靴など履かない。確かにノンの家は貧乏だが、他の子供たちもほとんど裸足だ。)
しばらく歩くと金竜寺の繁華街にあるカレーライスのビックリ屋に二人は着く。
ビックリ屋はビックリするぐらい店がボロボロで、窓はあちこちヒビが入っている。
看板にはビックリするほど安い値段で、ビックリする量を、ビックリする食器で食べさせるビックリ屋と書かれている。
しかし、昨日この為に貰ったノンのお小遣いでは足りない。
「お小遣いが足りないワン。ミツルだけで食べればいいワン。」
少し悲しげにノンが言うとミツルが言う。
「奢るよ。」
ノンの表情が明るくなって二人で店に入る。元々ミツルがノンを誘ったのでミツルとしては奢るのは当然だった。
カレーライスが盛られた皿は、あちこち欠けている。スプーンも曲がって歪なので、ノンとミツルは苦労しながら食べる。
もっともミツルは口に入れた後、パサパサの古米に苦労しながら何とか食べる。やはり普通の米を食べているミツルには何年もたった古々米は旨くなかった。外に出てからミツルが聞く。
「米は旨かったブー?」
ノンは胸を張って答える。
「旨かったワン!」
この時、ミツルはノンが羨ましいと思った。
人は、美味しいものを食べると、不味いものが分かる。いつも古々米を食べるノンには、カレーライスは十分美味しい。
でも、ミツルにとっては、ビックリ屋の冒険は、今一つの結果だった。
繁華街なので、パチンコ台がありノンがミツルに言う。
「さっき奢て貰ったからこれはワン(僕)がだすワン。」
金竜寺のパチンコ台は、小銭で子供がお菓子を当てる機械だった。昔の日本でもパチンコ台は子供の遊ぶものだった。ちょうどマンガが子供の遊びから大人も参加するように、パチンコ台も昔は子供の遊びだったが、日本では大人の賭け事に変わっている。ただ、この異世界ではまだ子供の遊ぶものだった。
ミツルはノンから小銭を受け取り、パチンコ台に入れ、玉を弾く。あちこち玉が弾かれるが、当たりにならない。今度はノンが挑戦する。しかしやはり当たりにならない。
とりあえず、ミツルの小さな冒険は達成され、その日二人は家に帰る。後で二人は英雄の伝説を作ることになるが、二人は、その日、小さな冒険の一歩を踏み出した。