ある春の夜
ある春の夜、
私はいつものように長屋の二階の自室の、
窓際にもたれかけながら、
すぐ外の桜を眺めていると、
ウグイスが枝に止まったのが見えた。
だが鳥は夜、
目が利かぬと聞く。
珍しく夜でも動けるやつがいるのかと、
感心していると、
そのウグイスは少しずつ、
こちらへ近づいて来る気がした。
私はそれを見て、
ふと手を伸ばしてみようと考えた。
ウグイスの近くに腕を伸ばすと、
私の手に向かって、
ヒョイっと飛んで見せた。
おぉ、とつい喜んでしまったが、
このあとはどうするか考えてはいなかった。
とっさに自分の部屋を見渡してみる。
ウグイスが止まりやすそうなものはないかと。
そのとき、以前買った木でできた椅子が目に付いた。
窓際に座ったまま椅子を手繰り寄せ、
背もたれのあたりに手に乗ったままの、
ウグイスを近づける。
するとウグイスは、
背もたれに飛び乗った。
また私は、おぉ、と感心する。
実に愉快な気分になって、
さっきまで、
飲もうと思って準備したままにしてあった、
酒に手を伸ばし、
ウグイスに向かって、
「乾杯」と言った。
面白いことに、
乾杯、の意味がわかるのか、
グラスにクチバシでコツンとつついて見せた。
それをみてまた愉快な気持ちになって、
今度はウグイスのために、
もう一つ部屋の奥からお猪口を引っ張り出した。
「こっちはウグイス殿の為に」
と言い、酒を入れていく。
椅子の肘掛にお猪口を置くと、
ウグイスはその側に寄っていき、
少しすると注いだ酒を一頻り睨んだあと、
口をつけてみせた。
どうやら酒豪のようだ。
私はどんどん愉快な気持ちになり、
しまいには歌い出してしまった。
以前、つい酒の勢いで歌った時は、
隣人に至極怒られたのだが、
今回はその隣人はどうも出かけているようで、
怒鳴られることなく、
ついには一曲歌い終わってしまった。
私が歌っている間も、
ウグイスは歌に合わせてくるくる回っているようにも、
はたまた一緒に歌っているようにも見えた。
それがなんとも嬉しく、
調子に乗ってつい一曲二曲と歌っているうちに、
声が随分大きくなってしまった。
だが、それに合わせるように、
外の賑わいが一際賑やかになり、
まるで私が歌うのに合わせて、
通りの人々が歓声を送っているようにも思えた。
調子に乗って歌っていたら、
外から拍手が聞こえた気がした。
窓の下を覗くと、
一階の食事屋の看板娘が、
こちらを見ると、
ニコリと笑顔を見せた。
彼女曰く、
以前から私の歌声を耳にはしていたそうだが、
なにぶん、忙しい時に聞こえることが多かったそうで、
落ち着いた頃には私も歌い終わっているのか、
はたまた酒が回り寝付いてしまったのか。
という風になかなか誰の歌声なのかを知る機会に恵まれなかったそうだ。
それを下の食事屋の看板娘に、しかも、
この近辺では一番の別嬪だと言われるような彼女からこの事を聞いた私は酒のせいか、茹で蛸のように顔を真っ赤にしてしまった。
ええい、酒の勢いだ、とでも言うように、
彼女に「私の歌声はどうだったか」と聞いてみた。
すると彼女は満開の桜のような華やかな笑顔で、
「やっと誰の歌声なのかを知れたのです。ここ最近で一番嬉しい出来事です。
是非良ければもう少し貴方の歌声を披露して聴かせて欲しいです。」
その話を聞いて「私なんぞでよければ」と少し呂律の回らぬ口で返事をしてしまった。
その瞬間、ウグイスは私の隣を通り抜け、
空高く飛んだ行ってしまった。
この事がきっかけで、
私は彼女と親しい仲となり、
時折、下の食事屋で歌を披露する機会が増えた。
季節が変わっても、ふとあのウグイスはどうしているだろうか、と思い出す。
あのウグイスのお陰で、私の周りの世界は変わったのだ。
私はそれ以降、毎年春になると、
窓際にお猪口に酒を少しいれて置いておくことにした。
また逢えるのではないかと小さな期待を込めながら。
閲覧ありがとうございました。
恋愛要素が後半ちょっとあるだけのお話でした。
楽しんで頂けたら幸いです。