黒板の一番上に手が届かない話
「おい、やめろよ! 手が届かないだろっ!」
「へ―んだ。男のくせに私より背が低いのが悪いんだよー、あははっ!」
僕が怒っても彼女は反省する様子も見せず、悪戯っぽい笑みを崩さない。
黒板の上の方、日直である僕の手が届かないところに落書きをして、彼女は満足そうだ。
消せずに歯ぎしりしていると、彼女は目を細めて笑う。
「悔しかったら、早く身長を伸ばすんだね」
「ぐっ……僕だって背が低いのを気にしてるのに」
幼い頃からの腐れ縁。
初めて会った時から、中学生になった今も、彼女が僕を見下ろしている。
「今、140センチだっけ? 小さいねー、まるで女の子みたい」
「140センチじゃない! 150センチだ! 10センチも違うぞ!」
「そうだっけ? どっちにしても私より小さいのは変わらないけどー」
僕の頭に15センチ定規を乗せて、「ほら、こうすれば私より大きいね」と彼女は馬鹿にしてくる。
手で定規を払うと、彼女はさらに目を細めた。
こうやって身長のことでからかわれるのは日常茶飯事だった。
いや、身長のことに限った話ではなく、いつでもどこでも彼女は僕をからかった。
そのたびにいつもむかついて、小さな不満が募っていく。
何度、彼女と距離を取ってやろうと考えたことか。
だけど――
「散々馬鹿にしてるけど、これでも身長は伸びてるんだ。お前なんてすぐに追い越すから!」
「あはは、期待しないで待ってるよ」
彼女の笑顔を見るたびに、不満とは違う、言いようのない感情が胸を塞ぐ。
埋め込まれた種の如く、芽吹きはせずとも確かにあるその想い。
名前のない感情が、彼女の行為をすべて許してしまう。
今だって、声を荒げてはいるもののそこまでの怒りはない。
どうして、こんな気持ちになるのだろう。
一体どうして――
「――どうして」
「え? 何が?」
「あ、いや、えっと……」
思い浮かべていた言葉が、思わず口をついて出てしまった。
今更撤回することもできず、誤魔化すように軌道を変える。
「どうして、お前は僕をからかってくるんだ?」
「えー、そうだなー……」
顎に手を当て、彼女は考え込む。
反応が面白いからとか、そんな返答が来ると思っていた僕は、即答しない彼女を意外に思った。
そんなに大層な理由があるのだろうか。
「私が君をからかう理由……それはね――」
「な、なんだよ……」
じっとこちらを見つめてくる彼女の瞳を見ていられず、思わず視線を逸らす。
すると、フッと息の抜けるような笑い声とともに彼女がチョークを構えた。
「――君の反応が面白いからだああああああっ!」
大きな声を出したと思ったら、彼女は再び、黒板の一番高い位置に文字を書き殴った。
もちろん、僕の手は届かない。
「あああああっ! なにすんだよ! ふざけんな!」
「あはははははっ!」
弾けるようないい笑顔を浮かべながら、彼女は僕から逃げるようにして教室を飛び出した。
追いかけることを試みたが僕よりも彼女のほうが足が速い。
しかも、不意を打たれたせいで完全にスタートが遅れてしまった。
僕が廊下に飛び出した時には、既に彼女の姿は小さくなっていた。
「くっそ! 明日は覚えてやがれ!」
背を向け逃げる彼女に、ありきたりな捨て台詞を吐く。
すると彼女は立ち止まり、くるりとこちらを振り返った。
「私が君をからかう本当の理由、大きくなったらわかるかもねー!」
「はぁ!?」
「あ、でもそれじゃあ、いつまで経っても無理かー!」
「何言ってんだよ! 無理じゃねーし! すぐにお前よりも大きくなるからな!」
「あははははっ、頑張れよー」
それだけ叫ぶと彼女は再び走り出し、廊下の角を曲がってその姿を消した。
「……最後までからかってきやがって」
愚痴をこぼしながら、誰もいない教室に戻る。
遠くから吹奏楽部の演奏が聞えるだけの静かな教室は、先程までの騒がしさも相まってひどく寂しく思える。
傾いた日差しはダウナーな気分を加速させるが、僕はそれを吐き出すように小さくため息を吐いた。
「……ったく、あいつ。何が大きくなったらわかるかもねー、だよ」
自分が大きいからって、馬鹿にするなっての。
とはいえ、確かに大きくならなければできないこともある。
例えば、黒板の高いところに書かれた文字を消すとか。
黒板上端を横断する白い文字の羅列を見上げて、少し億劫になる。
椅子に乗って消すことを思い至り、自分の椅子を取りに戻ろうと考えたその時だった。
「――あれって」
何気なく眺めた、文字の羅列の最後尾。
ほとんどが読み取れないほどに崩れているのに対し、やけに綺麗な文字列が一つ。
『好きな人には意地悪したくなるでしょ?』
うるさいほどに心臓が高鳴っている。
脈打つ音に遮られ、もはや他の音は聞こえない。
のぼせるほど頭に血が上り思考は意味をなさないでいた。
永遠にも似た数秒を過ごし、そして、ようやく僕は自覚する。
ああ、あの名前のない感情の正体は――
手の届かない、消せない想いが、僕の胸の奥で静かに芽吹いた。