1995/1/17
阪神大震災の記憶も薄れかけてますが、忘れてはならないことです
筆者は大阪府吹田市にて、阪神大震災に遭遇。
うちは被害なく、職場の伊丹空港の格納庫に向かった。
驚くようなことが起きていた。
三点でジャッキアップされていたボーイング767はジャッキごと移動、格納庫の階段は水道管の破損で滝のようになっていた。
職場の計測器を管理する計測室では100キログラム近い鋳鉄製の定盤が私が座る席の近くに落ちていた。
また印象に残ったのが、5:45をさして止まったままの時計が落下していたこと。
さらに印象にあるのは、夕方、伊丹空港にきていたアメリカ空軍のCー130だった。
何か支援物資を卸しているのを見た記憶がある。
そのあと、後日に自衛隊のCー1やアメリカ海兵隊のKCー130等も見たが、自衛隊より初動の早い米空軍に敬意と、一方、羨ましい気持ちを感じたのも事実であった。
このとき「かつらぎ」は定期検査の準備中で、燃料を下ろしたりしているところであった。
神戸にある阪神基地は、被災しながらも状況報告。
近隣の支援などできることから着手。
当時の政権の初動の鈍さ、今にして思えば犯罪?とも思える位だが、「自衛隊反対」を唱えていれば立場を守れた人たち(>_<)が政権についちゃってたから、これ自体が「災厄」であった。
二度と繰り返してはならないと思う。
被害の様子が伝わり、カメよりも鈍い政権もようやく動きだした後、「かつらぎ」も出航準備が整った。
とにもかくにも、現地の阪神基地の機能を回復するために、浮かぶ司令部として現地へ派遣されたのである。
そして阪神基地付近になんとか接岸してからは、「活用されていない機能はない」位の活躍である。
呉から前進してきた総監部の受け入れ、飛行甲板でヘリコプターへの給油、造水機能を活用しての給水支援、などである。
給水は給水車への支援とあわせて陸上自衛隊の野外入浴セットへの支援を実施、同様に投入された輸送艦と共に入浴支援を実施した。
このような実績は後に計画された輸送艦「おおすみ」級の計画時に参考とされたり、全通甲板型のDDHの計画にも反映されたのである。
備えあれば憂いなし!であるが、「平和反戦」唱えても「備えなくして、憂いが残る」のである。
あの当時、予備自衛官は法律改定前で投入されませんでした。
毎年の訓練で伊丹駐屯地に出頭した時、グラウンドに多数の天幕を設営して支援に来ていた全国各地の部隊には感謝でしたね。
熊本の第4師団、埼玉の化学学校等の車両を見た覚えがあります。




