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第9話

 先程までの紺青の空は刻一刻と薄明を帯びてきて一日の始まりを思わせる。

 東の空に昇りつつある太陽の光が目に眩しい。

 約束の場所――いつもの欅の下にオルタが到着した時、アッラの姿は見当たらなかった。


「いねぇなぁ……」


 約束をすっぽかされたのだろうか。いや、そんなことはないと思いたい。

 以前にも姿を見せなかったときがあった。それは彼女と再び出会えた時の話だ。

 その時居た場所は――欅の上。


 ふと、欅の木を仰ぎ見るとそこにアッラの姿があった。

 しっかりとした太い枝にだらしなく垂れるように、寝ている。

 猫かお前は。


「アッラ。俺だ、オルタだ」


 声を掛けると尻尾が反応し、力弱く揺れる。


「起きろ、起きてくれ」


 今度は耳がピクピクと動く。

 それでもまだ弱い。

 声を掛けるだけでは駄目そうだ。


 木を登って起こすのでは一苦労なので、それじゃあと小石を拾い体に投げ当てる。

 当然だが、鳥を殺すような勢いはない。

 それほど狙いを定めていなかった石は、アッラの頭を直撃する。

 体に当てるようにした方が良かっただろうか。


「っ……」


 何かが当たったという感覚でアッラが目を覚ましたようだ。

 石が当たった後頭部を擦りながら起き上がる。

 そこは枝の上、不用心に体を動かすのは危険だ。

 具体的にはバランスを崩すことになる。


「うわぁ~っ」


 体勢を崩したアッラは、情けない声を上げながら地面へと落ちてくる。

 しかしそこは体のバネに定評のある半獣人。

 顔から落ちたにも関わらず、地面に付く前に両手で受け身をとり、前転して衝撃を受け流す。


 そこまでは良かった。

 まだ寝ぼけていたアッラは前転の勢いを殺しきれず、顔から地面にぶつかる。

 直接落ちてぶつけるよりはマシだろう。


 アッラは五秒ほど地面に突っ伏していたが、ようやく起き上がりオルタの存在を認める。


「あいたた……。あらオルタ、ようやく来たのね。おはよう。待ちくたびれて眠ってしまったわ」


 昨晩から今まで寝ていただろうに、開口一番強がりを言う。

 ご丁寧に欠伸までする。


「おはようアッラ。待ってくれるんなら樹の下に居てくれると探さなくて助かるよ」


「今度からそうすることにするわ。アドバイスありがとう」


 目を見開きそりゃそうだ、という顔をしてアッラは応える。

 あくまでも待っていたことにするらしい。

 本人の気が済むんならそれでいい。


「それでこんな朝早くに呼び出して、どこまで遠くに猟をしに行くっていう言うんだい」


 オルタは今日の目的地を確認する。あまりに遠い場所だと、移動するだけで一苦労。

 下手すれば今日中に帰ってこられないなんてこともあるかもしれない。


「それはそれで大事なんだけれど、私達にはもっと大事なことがあるんじゃないかなぁ?」


 アッラの視線はオルタが持つバスケットに向いている。

 まずは食事ということだろう。


「朝食は食べてないの?」


「今起きたところだからね。食べてないよ」


 見て分からんか、と言いたげなアッラ。

 自分を待っていたのではなかったのか、という野暮なツッコミを入れて時間を無駄にはしない。


 オルタもお腹を空かせているのは同じなので、手早くバスケットの中身を広げる。

 切り込みの入ったパンに。

 ハムと野菜が挟まれたものが二つ入っていた。


 母がよく作る軽食の一つだ。

 何をするとも誰と一緒とも話していないのに、丁度二人分なのは気が利いている。

 三人だったら喧嘩になっていた所だぞ。


「美味しそうね」


「美味しいよ」


 食べ慣れているものなので食べるまでもなく味は分かる。

 パンを手に取りかぶりつくと、いつも通り美味しい。

 そのことが心が落ち着かせる。


「美味しいねぇ、美味しいねぇ。ハムなんて久しぶりに食べたよ」


 気付いたときにはアッラは既に食べ終えていた。

 オルタはまだ半分程度だ。

 これを急いで食べるか、食べないか。

 それは今後の用事次第だろう。


「それは良かった。大事なことが済んだところで、これからの計画について話して貰って良いだろうか」


 オルタは食べる手を止め、アッラに問い掛ける。


「猟をするとは伝えておいたね。だからこれから森に行くんだ」


 廃墟の森を指差して語りだすアッラ。

 それは想像がつくことだ。

 獲物はこの丘より森の方が種類は豊富だろう。


「ここで鳥を取るのもいいけど、それだと大きく稼ぐには沢山取らないとならない」


 うん、そうだね。言っている事の理屈は合っている。

 でも、大きく稼ぐ?


「そこで一発を狙って大きな獲物を取ればいいということに気付いたの」


 うん、そうだね。

 言っている事の理屈は合っている。

 でも――


「その大きな獲物っていうのは何だい?」


「そう、それ。それが中々問題でね。行ってから決めたいと思ってる」


 計画は有って無いようなもの、という訳だ。


「狙う獲物の種類はある程度絞っていたほうがいいと思うんだけど」


 森に入って探す以上、闇雲にさがしても見つかる気はしないとオルタは思った。


「猪か鹿。熊……は売り捌くのが難しいからいいや。そもそも見たこと無いし。兎や狸は数が必要だから今回は出来る限り避けたいね」


「なるほど、いい案だと思う。でも他に……例えば狐は?」


 豚牛鶏羊といった家畜の肉を除いて、市場に並ぶ肉はアッラが挙げた動物のものが多いだろう。

 狸は食用というより毛皮目当てになるが、狐もそれは同じ。


「可哀想だから狐は無し。そもそも数が必要になるのは避けたいよ。兎や狸と一緒さ」


 数が必要だから、というよりは自分に近い種族は避けたい方が、理由としては強いみたいだ。

 親近感なのだと受け取っておこう。


「でも毛皮は取れるだろう?」


「毛皮は手間が掛かるからね。その分時間が掛かっちゃう。今回は手っ取り早く換金ができる肉を取れる獲物がいいんだ」


 アッラには何か急ぐ必要があるのだろうか。

 思えばお金が必要な理由もそうだが、それを急ぐ理由も聞いていない。

 機を見て問いただすことをオルタは心に決める。


「肉はそんなにお金になるのか?」


 確かに肉は高価だ。

 今食べているハムだって一般家庭の食卓であれば贅沢な部類になる。


「市場に並ぶと売れるからね。持っていくと必ず引き取ってもらえる。そこが重要なんだ。毛皮は在庫があると買い取りを渋られる」


 真剣な目でアッラは説明をする。

 毛皮は日常的に売買されない高価過ぎる品物に該当するようだ。


「そうか……そうだな。肉が売れ残っているところは見たことがない」


「腐りかけの傷んだ肉でも値段を下げれば売れるらしいよ。だから肉を取るんだ。じゃあ、そろそろ行こうか」


 オルタがパンを食べ終えたのを見計らい、アッラは立ち上がる。

 目指すは廃墟の森だ。

 オルタも立ち上がりアッラの後ろに続いた。


 目指した場所は正確には廃墟の森の方角であった。

 一時間も歩いただろうか。

 壊れた家や石畳の合間から木が生い茂り森を形成していた場所、つまり廃墟の森と呼ばれる場所は既に通り過ぎた。


 今いる場所は太陽が登りつつあるのに薄暗く冷たく、そして空気が湿気を帯びている。

 地面は完全に土であり、岩には苔がむしている。

 大昔から人の手が入っていない場所だろう。

 街の跡地に森が侵食してきている廃墟の森とは違って、完全に天然の森。


 出発する前にアッラは廃墟の森を指差して森に行くと言っていた。

 あれは方角を指差していたに過ぎなかったという訳だ。


「かなり深いところまで来ていないか?」


 オルタはどこまで行くつもりなのかを確認する。

 これ以上深く進むと街に帰るのも大変になる。


「そりゃ、街に近いところで大きな獲物は取れないよ」


「でも猪ならたまに街にも出るぞ? 河の方から侵入してくるみたいだ。もっと街に近い所で見つけられるんじゃないのか?」


 マセドナの街は城壁で囲われている。

 門番が居るところを抜けて来ることはないと思うので、街の北側の河から侵入してくるのだろう。


「そりゃそうだけど、難点があってねぇ。ここら辺りの方が見つけるのは楽なんだよ」

 アッラが立ち止まり地面を指差す。何かを言いたいらしいが、オルタには伝わらない。

「地面がどうかしたか?」

「足を退けてみなよ」


 言われてオルタは右足を半歩後ろにずらす。

 そうすると自分の足跡が地面についているのが見えた。


「足跡か」


 それを見てようやく納得する。

 先程から湿った地面に足を取られることが度々あった。

 こんな土の状態であれば、足跡は見出すことは難しく無いだろう。

 それが大型の獣であればあるほど。


「そう。他にも糞とか餌を取った後とかを見つけるんだけど、廃墟の森だと石畳が邪魔して足跡が追い掛けるのが難しいんだよ――例えばこういう風にね」


 再び歩きだしていたアッラが立ち止まり、先程と同じく地面を指差す。

 オルタが目を向けると、大きな蹄のあとが地面にしっかりと付いていた。


「なんか……でかくない?」


 蹄を見たオルタは得体の知れない不安感に襲われる。

 どれだけ大きな体の獣なら、この大きさの蹄になるのだろうか。

 種類の見当がつかない。


「一発狙えるいい感じの獲物の匂いを感じないかい? 新しく見えるし、これは近くにいるやつだ」


 アッラは邪悪な笑顔を見せる。

 これはかなりの額になると金勘定をしている顔だ。


「蹄の向きに進んで行ったんだから、これを追っていけば近づけると思うんだよ。行こう」


 蹄の跡を追い掛けて歩きだすアッラについていくオルタ。

 どこまで先に進めばいいのだろうか。

 その答えはなく、ただ前に進んでいく。


 三十分は過ぎただろうか。

 ただ静かに森の中を歩いていると時間の経過が分からなくなる。

 なぜこの瞬間に時間を意識したのか、それはアッラが意味ありげに足を止め、オルタを手で静止したからだ。


「この木の根元なんだけれど、皮を剥がれてまだそんなに時間が立ってないようだね」


 オルタも木を見る。

 立派な枝振りをした、大きな木だ。

 その根本の方に一部、皮がめくれている箇所があった。

 アッラの言う通り新しい。

 さもつい先程まで誰かが皮を剥ぐ行為をしていたかのようだ。


「足跡を追っていた獣がやったものだと思いたいねぇ。やはり鹿か?」


「そうだろうと思うよ。猪だったら牙の跡がつくと思うし、そもそも足跡の歩幅ももっと狭いし蹄も小さくなる」


「けれど足跡が分からなくなったな」


 木の根元の土はぐちゃぐちゃと踏み荒らされている。

 これでは皮を食べた後にどちらに行ったか分からない。


「そんなに遠くまで行ってないと考えて、音を追ってみようと思う。静かにしててね」


 アッラは目を瞑り耳に手を当てる。

 音を漏らさず拾うために集中しているようだ。

 ならばとオルタも呼吸を整え耳に神経を集中する。


 夜間でもオルタの目が利くように、耳も人並み外れて感覚が良い。

 肉体の強化というのは五感にも作用するものらしい。

 オルタの耳が微かな足音を捉える。

 あちらの方向か、とアッラを確認すると彼女はオルタが捉えた方向を指差していた。


「あっち」


 アッラは声を小さくしてオルタに方向を伝える。

 恐らくは獣に音を拾われないためだろう。

 それを察知したオルタは小さく頷く。


 足音を殺しながら、先程指差した方向にむけて足を進める。

 少しして足元に再び蹄の跡を見出すことが出来た。

 こちらの方角で間違いない。


 しばらく歩くと微かな鳴き声が聞こえてくる。

 耳を集中しなくても聞える距離、つまりかなり近い。


 それを見つけた瞬間、二人は慌てて大きな木の後ろに回り込み、相手の視界に入らないようにした。


「あれだよな?」


「あれだよね?」


 二人で認識を合わせる。

 どうやら認識は一致したようだ。

 でもこれって……。


 オルタは獣の様子を伺うことにする。相手は苔を喰んでいた。

 こちらに気づき顔を向けたものの、意に介せずといった風に苔を喰むことを止めようとしない。


「鹿はシカでもヘラジカじゃないのかあれ? もっと山の方に住んでいるやつだろう。なんでこんなところに居るの」


 相手は体長三メートルになろうかという巨体のヘラジカだった。

 本来なら河の対岸にある北の山の方に生息している獣のはずだ。

 ソキオの家に立派な剥製があり、それについて訪ねたときに聞かされた話だ。


「まだ涼しいからね、こっちまで河を渡って餌を取りに来るんだ。夏が近づくと山に帰るんだけどね。でも本当に出会えるとは思わなかった。ツイてるってやつだ」


 アッラが説明してくれる。

 急いでいた理由はこれか。

 これだけ大きな獲物は猪の比ではない、一発で大金が稼げるだろう。


 どうやって仕留めるかの算段がついていればの話だが。

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