第5話
アッラは本当に大丈夫だったのだろうか、という疑念を完全に払拭できないままオルタは朝を迎えた。
いや、彼女もそれなりの年齢なのだから大丈夫なはずだ。
しかしあの後また変な輩に絡まれてしまう可能性は捨てきれない。
オルタが食堂に入り、は母に「おはよう」と挨拶をすると、釈然としない顔をしていることを注意される。
少し考えすぎたかと反省しながら母が用意してくれた朝食をとり、身支度を済ませる。
深夜遅くに帰ってきた父はまだ寝室で寝ている。
どうも元老院の方で要件が重なって忙しいらしいが、どんな仕事なのかは家族にも話せる内容ではないらしい。
とは母の小言だが、まあ父にはよくある話だ。
学校へ行くオルタを見送ったあと、母は寝室へ戻り父の寝顔を観察する仕事に専念するのだろう。
起こしてやれよと思うが。
いつも通りの時刻に家を出て、中央通りに向けてオルタは歩き始める。
中央通りに出ると乗合馬車の停留所に誰か居ないかを確認する。
知った顔の同級生はおらず、後輩が四人ほど談笑している。
馬車が来るのを待っているようだ。
躾がなっている後輩たちが丁寧に挨拶してくるので、おはようとか勉強頑張れよと返して停留所を後にする。
そうしてまだ人がまばらな中央通りを南に走っていく。
まばらと言っても人の数が少ないのではなく、道幅が無駄に広すぎるのだ。
中央通りは道というより、とても南北に長い広場といって差し支えない。
ここに人が溢れている姿を見たのは記憶にある限り数える程度だ。
記憶に新しいのは昨年行われた国葬と、三年前の執政官の就任式のときだ。
道幅が広いため走っても人にぶつかることはなく、オルタは安心して移動出来る。
安心というのは自分が怪我をするということではなく、人にぶつかり危害を及ぼすことがないという意味だ。
今まで何かとぶつかったことはないが、仮に馬車とぶつかっても馬車の方が壊れる。
オルタの身体はそういったものだ。
雨や雪といった悪天候の日を除いて、魔法学校に入学してからずっとこの道を走って通学している。
大抵の学生は学校の乗合馬車か自前の馬車、もしくは馬に乗って通学している。
徒歩通学をしているのは城壁近くに住んでいる学生の一部だ。
マセドナの街の北部から走ってきているオルタは、多くの学生から体力バカと思われている。
事実であるため、そのことをオルタが気にしたことはない。
街の南門を出て城壁外の街を素通りし、学校の門をくぐり見知った顔に挨拶をしながら教室を目指す。
今日の朝一番の講義は、調査旅行のオリエンテーション。
場所は三階だ。
入室しざっと部屋の中を見渡すが、いつもなら先に来ているソキオとスーの姿がない。
二人揃ってサボりという訳はないだろうから、何かあったのだろうか。
通学中に何か見かけた記憶もないけれど。
「ようオルタ、久しぶりじゃないか」
座席に座ろうとするや否や、嫌な奴に声を掛けられる。
朝からバニオなんかに声をかけられるとは珍しいこともあるものだ。
顔自体は毎日見かけるので久しぶりということもない。
この男は無駄に筋肉ばかりの肉体をしていて、頭の中身は筋肉量に反比例した立派さだ。
反比例という言葉も理解できないから皮肉にならない。
平民の生まれながら魔法が使えることと、士族よりも裕福な家だということでデカイ面をしている。
物理的にも頭がデカイのが外見特徴でもある。
実家が裕福なのは、無限にお湯を沸かすことが出来る魔法機械を保有しており、燃料なしに風呂屋を経営できているからだ。
薪代が無いと利益が莫大なものになるらしい。
「ああ、おはよう」
相手にする価値はないが、声をかけられた以上無視することは出来ない。
一応は挨拶をして、そのまま話を断ち切りたい。
断ち切りたかった。
「あれれ、バニオさん。こんな獣臭い役立たずと挨拶なんてしたら口が腐るでござるよ」
さらに嫌なやつが増える。
この面倒臭い喋り方をするデブは、粉挽き屋の息子のハリナ。
バニオと一緒で魔法が使える裕福な平民だ。
ただそれだけ。
実家が裕福なのは、人の力無しに回り続ける石臼を所持しているから。
これも魔法機械であり、勝手に粉を挽いてくれる。
そのため何もしなくてもお金が入ってくるらしい。
この二人は魔法学の実習で、魔法が使えないオルタを冷やかしていた輩の中心メンバーである。
朝から嫌なやつに絡まれるとは、今日は一体何なんだろうか。
何か悪いことをした罰でも当たったのだろうか。
うん? 今こいつ俺のことを臭いとか言ったか? 言ったよな獣臭いって。
「聞いたぜオルタ。人間に相手にされないからって、亜人の女に構って貰ってるんだってな」
「いやいや爪弾き物同士お似合いというやつでござる」
言っていることから推測すると、昨日自分がアッラと一緒にいるところを見た、もしくは誰かからの告げ口をもとにした嫌がらせか。
一般的に亜人に対する認識は大体非道いので、一部の商人でもなければ仲良くすることはない。
そんな存在と仲良くしていたらこんなことにもなるか。
事実なので言わせておいてもいいが、朝から嫌な気持ちにさせられたままでは癪だ。
何か言い返してやろうかとオルタは口を開こうとしたが、それは丁寧な優しい声に遮られた。
「おはようございます。オルタさん。あら? バニオさんにハリナさんもご一緒ですか。今日も良い一日にしましょうね」
「おはよう、フローレッセ」
「お、おはよう」
「……ぁようでござる」
嫌なやつ二人が急に勢いをなくして萎んでいく。
フローレッセが可愛いからといって、そんなに緊張しなくても良いんじゃないだろうか。
そしてそのまま「じゃあ俺達はこれで」とそそくさと去っていく。
こうなると一体何がしたかったのか分からない。
去っていった理由の方には心当たりはある。
あの二人は弱いものに接する態度は大きいが、強いものに接する態度は小さいからだ。
二人の実家も裕福な家とはいえ、マセドナで一番大きなホテル経営者の一人娘には適わない。
声を掛けてきた強者のフローレッセはそのまま、オルタの隣に着席する。
そのときウェーブが掛かった肩までの金色の髪が少し揺れ、熟した果実に似た甘い匂いがした。
気のせいだろうか、いや気のせいではなくいい匂いだ。
嗅いでいると落ち着く、いや逆に正直興奮してくる。
「ありがとう。助かったよ」
「何のことです? 私が席に着くのに障りがありましたので、おどき頂いただけです」
とぼけがちにニコリと一笑する。
どうやら一つ借りを作ったようだ。
士族から見てお嬢様お嬢様している割に、内面は少し腹黒いのかもしれない。
芯が強いともいうのだろうか。
「おはーオルタ。あら、フローレッセもおはよう」
朝なのに元気で軽い声が聞こえる。
今更になってソキオとスーが教室に入ってくる。
いつもは先に学校に来ているというのに、どうしたことだろう。
「おはようございます。ソキオさん、スーちゃん。」
「おはよう。どうした朝から不機嫌な顔をして」
この二人のどちらかでもいれば嫌な奴に絡まれることも無かっただろう。
そう思うとちょっと恨めしく、不機嫌な顔にもなる。
「何でもない。何でもないが、少し遅くないか」
「ははーん。さてはスーちゃんが居なくて寂しかったなこの男は。あれ? 違うのかな?」
ふざけた口調でスーがからかってくる。
同時にオルタのほっぺたを指先で突いてもくる。
フローレッセが困惑の表情で見つめてくるのでオルタも困る。
「茶化すなよ」
オルタはスーの手を振りほどく。
「そうそう、馬車に乗り合わせた子が気分を悪くしたんで途中で引き返しちゃって。それで遅くなっちゃった。いつもは元気な子なんだけどね」
「それは心配ですね」
フローレッセが相槌を打つ。
この娘はスーのことをちゃんと構ってくれるので、スーの相手が面倒くさいときに居てくれると楽ができる。
「そうね。家まで送り届けたから大丈夫だと思うけど。帰りに寄って確認しといたほうがいいかな? それは心配しすぎか」
「親御さんからうちの家に挨拶があると思うからそれで状況はわかると思うよ」
流石に共和国トップの家の御曹司は言うことが違う。
政治上の有力者に子供を助けられたら、士族としてお礼の挨拶を欠かす事はできない。
そのことを言っているのだ。
「それもそうね。私の家にも来るんだとしたら、どっちか先に学校に来たほうが良かったのかも。失敗したかな」
スーの父親も元老院の最大派閥の長なので、かなりの有力者だ。
具合を悪くした子の心配よりも、むしろその両親の立ち回りを心配してしまう。
「おーい、着席しろー」
気の抜けた声がするので教室の前のドアを確認すると、教授が二人の助手を連れて入ってくる。
しかし何か物足りなさを感じる。
「なんか一人足りてなくないか?」
教授は助手を確か三人連れていたことを思い出して、オルタは前に座るスーに問い掛ける。
「いつものチャラい感じのお兄さんが居ないね。大中小って感じの中が居ない。これは事件の匂いがしますよ」
「ふっ……中って……」
フローレッセが口を抑えて笑うのを堪えている。
そこまで面白いかな。
「じゃあこれより遺跡学術調査のオリエンテーションを開始する。各グループは近い席に集まるように」
オルタのグループはスー、ソキオ、フローレッセの四人である。
つまり現在の席の塊である。
オリエンテーションは今回で五回目になる。
他のグループも予め纏まった形に集まっており、今の声で移動する人の姿は見られない。
慣れたものである。
オリエンテーションの中身は大したことがなかった。
旅行の準備と移動計画とスケジュールを確認すること。
それに遺跡について予習しておくこと。
準備については今更な話である。
移動計画とスケジュールは前回までのオリエンテーションの中で話し合って決めている。
内容も教授とも相談しているので問題ない。
遺跡について詳しいことは何も分かってない。
分かっていることといえば一つ。
太古の昔に『大災厄』が起きた頃、今では『大逆者』と呼ばれる者が造ったということくらい。
その造られた目的は何も分かっていない。
だから調査に行くというのに予習も何もあったものではない。
何を予習すれば良いのだろうか?
まあ必要となる知識はソキオがいればなんとかなるだろう。
他に教授が言っていたことで大事なことは、グループのメンバーで入念に打ち合わせをしておくこと、だろうか。
これはオルタが唯一懸念している事項だ。
「ふー……終わった終わった」
スーがため息をつきながら右腕を左肩に回し左腕をグルグルする。
肩が凝ったのだろうか。
身体の異常を感じたことがないオルタには、分からない感覚である。
「次の講義の場所どこだっけ?」
次の時間はどこに行けば良いのか、思い起こしても分からないのオルタはで三人に問い掛ける。
そもそも次が何の講義なのかすら分からない。聞いてはみたものの、本当になんだっけ。
「ないよー」
「ない」
「講義はありません」
三人から厳しい言葉がオルタに浴びせかけられる。
そうだ、次の時間の講義は先々週で終わったのだ。
先週も同じやり取りをしたことを思い出す。
「凄い短い講義だったな!」なんて、その前の週に笑い飛ばしたことを忘れていた。
「ですから、今日の講義はこれで全部終わりです。これからどうしますか? お三方がよろしければこれからお食事でも一緒にどうでしょうか」
フローレッセからお誘いを受ける。
しかしこの後は土曜日放課後の過ごし方に従い、ノーチェの家にお邪魔することになっている。
「俺達はこれからちょっと寄るところがあ……」
「丁度良いわ! 私達これから古い友だちの所に行くんだけど、フローレッセも付き合わない?」
スーがフローレッセを誘う。
この行動は正しい。
調査旅行での唯一の懸念事項は、フローレッセのことをソキオやスー程にはよく知らないことである。
誘いを断る必要はなく、スーのように積極的に誘わなければならない。
オルタは二重に失敗したことに気づく。
「良いんじゃないかな。ノーチェにもフローレッセを紹介しておきたいし」
ソキオがスーの思惑を言ってくれたので、「そうだな」とオルタは追認する形をとる。