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11-2


 体を動かしていると、濃霧がかかったみたいにぼんやりしていた思考がクリアになってきた。気持ちがいい。今日みたいな日は、バイトに来れてほんとうによかった。


「ひゃっ」


 急に体がガクンと揺れ、倒れかける。誰かに膝カックンされたのだった。バッと振り向くと、その人はニヤニヤしてこちらを見ているのだった。谷さん!


「な、なにするんですか」

「ちょっと顔色よくなったよね。元気でた?」

「あ、はい、その節はご心配をおかけして」谷さんがわたしを心配してくれた! 嬉しくて声がちいさくなる。

「手、だして」

「え?」

「いいから、」と言って谷さんはわたしの腕をひっぱる。

「わっ」急にそんなことをするので、不安定なわたしの体は再びぐらつく。結果彼の胸にあたまをぶつけそうになってあわててのけぞった。「な、なにを」


 腕をひっぱるのと反対の手には油性のマジックペンが握られていて、キャップを口にくわえてはずすと、おもむろにわたしの右手のひらに何やらを描きはじめた。


「きゃ、く、くすぐったっ」

「暴れないでよ、線ブレたじゃんか」

「だって、ははは」

「はい、できましたよっと」


 手のひらには、花丸が描いてある。


「がんばりやさんの朝ちゃんにごほうび。テスト終わったらまたバイクでどっか行こ。な、がんばれ」


 あたまをポンポンとされ、ブワッと涙が浮かびそうになって、あわてて飲みこむ。


「谷さあん」

「がんばってる朝ちゃんが好きだよ。じゃ、お疲れー」

「すッ……!?」


 好きとか! 好きとかっ!

 わたしはがばりとあたまを下げ、厨房にある裏口のドアが閉まる音が聞こえるまでずっと、その姿勢でいた。

 悪いことばかりじゃない。捨てる神あらば拾う神あり。本当に、今日は来てよかった!

 残りの三時間、ときおり手のひらを眺めてはニヤニヤしながら、わたしはバイトに励んだのだった。




 和也先輩とは、バイト前に少しだけ話をした。

 授業が終わったら軽音部室に集合ということになっていたのだけれど、チャイムが鳴ったあともわたしはなかなか動くことができずにいた。席から立ちあがることはおろか、顔さえあげられないままじっとしていると、和也先輩から電話があって、われわれは部室ではなく下足とは反対方向の――つまり5組の奥にあるほうの――階段、二階の踊り場で集まることになった。気を遣ってくれたのだ(なるべく歩き回りたくないでしょ?)。どうやら今朝からの一連の出来事については二年生のほうまで波及していたらしい。電話に応答するなり開口いちばんが「大丈夫?」なのだから、さすがはリーダーである。あたたかい。

 踊り場へは、二年生ふたりが先に到着していた。階下から淀んだ顔つきでのそのそ登ってくるわたしを見つけた和也先輩は、苦笑いしていた。もう一度「大丈夫?」と言われてしまう。

 わたしはかんたんにぼそぼそと、事態のいきさつを説明した。そしてクラスのなかで透明人間化したことについて。

 和也先輩は申し訳なさそうな顔をした。こういったときは練習に打ちこむのが一番の気晴らしになるんだろうけど、しばらく練習はお休み(しょうがない。ギタリストが手を怪我しているのだから)。ちょうどテスト前だしいい機会だ、テストが終わるまでは勉強に専念しましょうということになった。


 あんまり北川のこと、責めないでやって。ごめんだけど。そう言ったのち顔をあげ、やっぱりすまなさそうに和也先輩が言った。和也先輩が謝ることじゃないですよ。わたしはなんとか笑って、同意を求めるように、一段上に座って静かにしている和樹先輩のほうを見やった。が、堀尾様ときたら我関せずといったふうにくしゃくしゃになった文庫本を開き、文字を追うのに専念しているという。肩をすくめるしかない。しょうがないのでもう一度、和也先輩が謝る必要はないと繰り返した。


 ――あいつ自分がモテる自覚ないんだと思う。

 ――いや、そんなことないと思います。


 今朝の下駄箱事件を説明すると、和也先輩は「あ、そう?」と引きつった顔で笑った。


 ――でもね、あいつモテはじめたのってこの一二年くらいなんだよね、じつは。

 ――ええ? うそだあ……。

 ――だから自分が特定の女の子と仲良くしたらその子がいじめられ……あっ、や、ごめん!


 ズシンと頭上に大岩が落ちてきたようなダメージ。やはりこれはいじめの前触れ……。いえ、大丈夫です。なんとか笑ってみせる。


 ――……とにかくね、ただ自覚ないだけだと思うんだよ。それはおれらからもまた言っておくし、フォローもするから。つらいことあったらいつもでも頼って。


 わたしは心からお礼を言った。あたまを下げる。ありがたい。ありがたい、とは思うがしかし、気は晴れなかった。浮かない気持ちは顔にでていたのだろう。すぐに「なにか心配なことある?」と訊かれてしまった。


 ――話聞くよ?

 ――や、そうじゃないんですけど、


 でも。前々から疑問だったんですけど。みじかい逡巡ののち、わたしは思いきって訊ねてみた。


 ――北川くんとヨルって、どういう関係なんでしょうか。

 ――どういう関係、というのは?

 ――気のせいかと思ってたんですけど、二人、仲悪くないですか?


 北川くんと話をするようになったのはつい最近のことだったし、そしてこの頃ヨルとは接する機会もなくなってしまったのだからこれはほとんど憶測、というかただ「そんな気がする」というだけのことでしかないのだけれど、北川くんとヨルのあいだには過去に何らかのしがらみがあったのではないか。こないだ、北川くんと並んで1組の前を通ったとき、一度だけヨルとすれ違ったことがあった。どちらも何一つ言葉を発することなどなかったのだけれど、北川くんからは挑発するような気配を感じたし、ヨルはあからさまに北川くんを睨んでいた。


 ――ヨルって、ずっと前から北川くんのことを敵視していたような気がします。


 そのときのヨルの目を見たとき、思い出したのだった。ヨルはときどきこんなふうな目をした。たいていそれは、いや、百パーセントそれは、北川くんに向けられたものだった。北川くんとは一学期のあいだまったく会話を交わしたことがなかったので事情をうかがい知る余地などなかったものの、ヨルたちが同じ中学校出身ということはめぐちゃんから聞いて知っていたから、昔何かあったんだろうなあとは思っていたのだけれど。


 ――まあそうだね、あいつと君の彼氏……や、元彼か。は、たしかにそうだ。仲が悪いんだよね。


 和也先輩と堀江様がヨルのことを知っていたらしいことがまず、意外に感じたけれど、そうかと思いなおす。彼らもヨルと同じ中学校出身だし、仲のいい北川くんが敵対している相手なのだったらご存知でも不思議ではない。


 ――なんでですか、とかっていうのは、聞かないほうがいいんでしょうか。

 ――それはどうだろうなあ。


 先輩は苦笑いすると首を振り、うーんとしばらく唸った。それから、俺の口から言えることは少ないんだけど、と前置きをして、こう続けたのだった。


 ――北川ん家もワケありっていうか、あいつもあんまり愛情をたくさん与えられてすくすく育ったわけじゃないからさ。

 ――は、はあ……?


 なんの脈絡もない言葉で、わたしは首をかしげてしまった。ヨルのことはいったいどこへ行ってしまったのだろう? それでなくても体も脳も疲弊しきっていて、人の言葉を理解するのに時間がかかってしまう(だから今、こうして振り返り咀嚼しなおしているのだけれど)。

 愛情が少ない家庭? 家族の仲がうまくいっていないということだろうか。

 や、というか……頬をぽりぽりかいて、和也先輩は笑った。


 ――まあ、そんなこんなで強めのコンプレックスがあんの。相当根深い感じのね。


 俺の口から言えることはこれぐらいかなと和也先輩は言ったけれど、正直全然わからなかったし(いくらなんでも少なすぎます先輩)、何も解決はしなかった。奥歯の隙間に魚の小骨が刺さってとれない気分。


 ――大事なもの守ろうとしてるんだよ、あれでも、あいつなりにさ。あんまり怒らないでやってくれたらうれしい。


 そうですか、とは返事をしたけれど、いまだにその意味はよく理解できていない。

 和也先輩はまた「俺らにとっても、朝日ちゃんは大事な仲間だよ」と言ってくれた。その言葉が嬉しくて照れてうつむき、話はそれでおしまいとなった。結局北川くんとヨルのあいだに存在するしがらみの正体についてはわからずじまいだったわけだけれど、まあいずれ機会があれば訊けばいい。それは今でなくたって、いい。右手のひらの花丸を眺めながら、わたしは思った。


 しかし、現状はそうかんたんに収束するわけがなく、わたしたちの関係はこじれる一方なのである。





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