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〔11.感覚がうしなわれていく〕



「お疲れーって、え? どした、朝ちゃん。マジで疲れまくってんじゃん」


 前後の記憶も曖昧なまま、いつのまにかバイト先へたどり着いていた。ふらふらしながら自転車を停め、ふらふらしながら更衣室のドアを開ける。久しぶりのバイトだった。最近はさらにシフトを減らし、ほとんど土日しか入っていない。

 女子更衣室へ入ると、おなじみのとおり谷さんが寝そべった姿勢でマンガを読んでいた。わたしの顔を確認するなり、いかつい顔がまるでほぐれるようにして爽やかな笑顔が現れる。つられて自然と笑っていた。もう死にそうとかって思っていたけれど、ちょっとだけ、元気がでた。


「谷さん……もう今日は終わりですか?」

「や、六時まで残ってって言われたから休憩中ー。アキタが来ないし、長谷川も休むつって。大学生来るからあと一時間働いてって。あれ、朝ちゃん今日シフト入ってたっけ?」

「秋田さんの代わりで。ここのとこしばらくお休みで迷惑かけてたし」


 平日はバンドの練習のためしばらくシフトは入れられないということは先輩方にもお伝えしていたので、みんな都合が悪くなってもわたしにだけは声をかけないでいてくれたらしい。けれどもさっき、秋田さんから誰もつかまらなくてと半泣きの電話があったのだった。


「あいつどうしたの」

「補習だそうですよ」

「はは、バカ。けどよく来れたね? 忙しいんでしょ」

「数日間、練習お休みなんです」

「あ、そっか。ガッコはみんなテスト近いって」


 それだけじゃないんですけどね……呟いた声は谷さんには届かなかっただろう。スニーカーを脱いだわたしは彼に背を向けて、自分のロッカーを開き、鞄をつっこんだ。制服を出す。わたしのロッカーは二段になったうちの下の段なので、膝立ちで一連の作業に取りかかっている、と、強めの力がグイとわたしの腕を引っぱった。思わず声をあげてしまった。いつのまにか身を起こした谷さんが、わたしを振り向かせたのだった。びっくりした。


「朝ちゃん、マジでどうした? 死にそーなくらい顔色悪いよ。めっちゃ白いぞ」

「や、や、べ、べつにそんなっ」ちちち近い近いんですけど顔がっ!

「なんか、泣いた? 目の下ほら、なんか腫れて……あ、顔色よくなってきたっぽい」


 赤くなるのは不可抗力である。わたしはもう内心大叫びだ。頼むから覗き込まないでくださいそんな至近距離でっ。


「どうした? 先生に怒られた? 友だちとケンカした?」

「や、えっと、その」目を合わせることができず、視線は更衣室じゅうをせわしなく泳ぎまくっている。

「北川くん?」ずいっと、さらに顔が寄せられ思わず変な声を漏らしてしまう。

「や、北川くんだけがどうとかって言うんじゃないんですけどっ」心底ふかいため息がでる。もはや目を開けられなくて、わたしは可能な限り顔をそむけた状態でギュッと目をかたく閉じていた。いい加減身がもたないので腕を離してほしい。ドキドキしすぎて血が足りない。

「北川くんとなんかあったの?」

「なんにもなかったとは言えないですけど……」


 そこで更衣室のドアが勢いよく引かれる。顔を覗かせたのは、お昼のパートのお姉さんだった。わたしはあわててうしろにのけぞった。あっと谷さんが声を漏らすのと同時、腕が解放された。


「よかった! 杉村さん来てたのね」

「すみません、すぐ着替えますっ」

「ごめんね、けど急いでほしいの。急にたくさんお客さんが来て。谷くんももう入って。注文来てる」

「えー? おれあと10分は休憩のこってんのにー」

「言ってる場合か。ってあんた女の子が着替えてる横で何してるわけ! 出なさい!」

「っ、痛って! 殴ることないじゃないっすかっ。いつものことじゃん! 朝ちゃん、気にしてないよね」

「ぜんぜんきにしてないですよ」

「めっちゃ気にしてる顔じゃないの。茹でダコになっちゃって。ほら、谷くんっ」


 朝ちゃん、またあとでね。お姉さんにずるずる引っぱられながらもニコニコしてこちらに手を振り、谷さんは出ていった。わたしは息を大きく吐いた。それから微笑む。今日、来てよかった。谷さんと一時間は一緒に働ける。物事は悪い側面ばかりじゃないのだ。いいこともちゃんと、用意されている。




 めぐちゃんと別れて教室に戻ると、お昼休憩に出る前と空気が一変していた。ざわめいていた教室内へわたしが足を踏み入れたとたん、みんなピタリと話すのをやめてしまった。女の子たちを中心にピリッとした緊張ようなものが瞬時に張りめぐらされ、こちらを睨んでいるのだ。立ち止まりそうになってしまったけれど、よくないことだと反射的に思っていた。どうにかそろそろと足をすすめ、席に戻った。まるで前後に切り立った壁のあいだに張られた細い綱のうえを渡るような心持ちなのだ。へんな汗が止まらなかった。

 スカートのポケットにしまっていた携帯が震えたので取りだすと、北川くんからのメールだった。『ごめん、今日は帰る』。練習ができないとはいえ、放課後は今後のスケジュールについて話し合う必要があったはず。理由も説明せず帰るとはどういうわけだろう? と首をかしげていると、怒りをはらんだ低い低い声がおもむろに耳へ飛びこんできた。


 ――二股とか最低。


 二股? わたしは無意識に声のしたほうを向いてしまった。それから後悔した。心臓が不吉な音を立てて揺れた。めぐちゃんと同じ中学校出身の、これまで仲良くしてくれていた彼女らが、こちらへ殴りかからんばかりの怒気を含んだこわい顔して、睨んでいたのだった。

 え、二股ってなに。腰を浮かそうとしたところで五時間目のチャイムが鳴って、同時に先生が入ってきた。クラス委員の男の子が起立と言い、みんなフイッと視線を逸らした。背中をいやにつめたいものが撫でるように過ぎていった。二股なんかしてないし、そもそも誰とも今は付き合ってないよ。弁明の機会はうしなわれてしまった。

 そして五時間目が終わった頃、わたしはもう教室に“存在しない”ことになっていた。







 五時のシフトに入るときには、まず餃子のタレや割り箸、ナフキンなどを補充する。しかし今日はすでにお客さまが入っているため、そして立て続けにご新規さんがやってきたため、お水を出したり注文を聞いたり料理を運んだりと、大忙しだった。五時から六時までは通常、それほどご来店がないためホールは一人で対応するのだけれど、今日はお昼のパートのお姉さんが残ってくれ、それでも二人でホールじゅうをバタバタ走り回らなくてはならなかった。

 六時10分前に、大学生がシフトインする。立てつづけに三組お客様がいらっしゃって、各グループ分の水とおしぼり→オーダー取り→ドリンク提供まで終わらせたところだった。


「珍しい、杉村さんだ」

「おつかれさまです、お久しぶりです」

「すごい人だね、平日なのに。二人でホール、しんどかったでしょ? ちょっと水飲んでおいで」


 お礼を言って、冷蔵庫からグラスを一つ取りだし、キッチン内に入る。蛇口をひねって、まずは両腕に水をあて体を冷やす。汗をかいている。もう秋なのに。




7月のチェスターの訃報…ご冥福を祈ります。というわけでもないですが、11章目はシックスティーン・スピリットの章題〔Numb〕です。

本日からしばらく毎日更新です。よろしくお願いします!



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