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「七瀬、ごめんな……」
とは、バス停で別れ際に告げられた言葉。
あの後も志摩君は私の体によりかかって泣き続け、時に呟くように言葉を漏らし、そして落ち着きを取り戻して目元の赤みが引いた頃に二人で猫カフェを後にしたのだ。
それを思い返せば恥ずかしくて堪らないのだろう。謝罪してくる志摩君の顔は真っ赤で、そのうえ雑に頭を掻いている。その姿はサッカー部エースの志摩君とも猫カフェで過ごす志摩君とも違う。
それがなんだか愛おしく、苦笑しながら気にしないでと告げれば照れくさそうな笑みを浮かべた。その表情はどこか晴れ晴れとしていて、私の胸にも安堵が湧く。
「部活も終わったし、明日からは切り替えて受験勉強しなきゃな」
「なんだかまだ実感が湧かないけど、本当にこれから忙しくなるのかな」
「今まで部活で忙しいって逃げてきたけど、ついに勉強三昧か……。でも、七瀬さえ良ければ、また時間見つけて来ないか? ほら、勉強の息抜きも大事だろ」
だから、と話す志摩君に、思わず私の胸が高鳴る。
もしかしたら「受験だから当分は来ない」と言われてしまうかもと考えていたのだ。……そして、正直なところ私は本格的に受験勉強を始めても猫カフェに来るつもりでいた。−−もちろん息抜きにである。通う頻度も少なくするつもりだし、ちゃんとお母さんの許可は貰っている−−
だからこそ志摩君が同じ考えで、そしてその時も私と……と考えてくれていたことが嬉しい。自分の表情が柔らかく笑むのが分かる。
どれだけ嬉しそうな表情をしているのだろうかと考えつつ、それでも彼を見上げて「もちろん!」と頷いて返した。
「カフェで勉強してるって言えば、なんかそれっぽく聞こえるしな」
「それじゃ勉強道具持って行こうか。消しゴムなんて直ぐに転がされて持ってかれちゃいそうだけど」
「ログあたりに取られるだろうなぁ。……それと、その……なぁ七瀬」
「ん?」
冗談めいた話から一転してどことなく言い難そうな声色に変わる志摩君に、私は彼を見上げて首を傾げて返す。いったいどうしたのか、彼の頬は赤く、そして一度私と目があうと慌ててそらしてしまった。
何か言い難いことがあるのだろうか。迷いすら感じさせるその表情に、私はどうしたのかと伺うように志摩君を見つめ……そしてとある考えに至って「大丈夫だよ」と告げた。
気まずそうな表情、らしくない歯切れの悪さ、そして赤くなった頬、それらから導き出される答えは一つ。
「大丈夫だよ。私、今日のこと誰にも言わないから!」
「……ん?」
「猫カフェの事は知られちゃたけど、今日のことは絶対に誰にも言わないよ!」
きっと志摩君は今日泣いてしまったことを言わないでくれと言いたいのだろう。
私だって外で泣いたことを後々言われるのは恥ずかしいし、言い触らされるなんて御免だ。そのうえ志摩君は男の子なのだから、いくら試合に負けたという理由があっても知られるのは恥ずかしくて耐えられないことだろう。
だからこそ念を押すように「誰にも言わないから!」と告げれば、どういうわけか志摩君は苦笑を浮かべて「相変わらずだな」と告げてきた。
「俺達が初めてここで会った時も、俺が整体に通ってるって勘違いしてたよな。そのうえ俺の右足が不調で、それを隠してるって言い出して」
「そ、それは……。だって、志摩君と猫カフェが結びつかなかったんだもん。志摩君、帽子深く被って顔隠してたし。あとビルの前でうろうろして怪しかったし」
「怪しい……うん、確かに怪しかったよな。でも七瀬も『絶対に誰にも言わないから!』って話半分で押し通してきてさ」
「なんか触れちゃいけない話題だって思えたんだもん。……もうあの時の私の勘違いは良いよ!」
過去の勘違いを改まって言われると恥ずかしさが募り、慌てて本題に戻す。そもそも、元々は志摩君が言い淀むのが悪いのだ、だから私が−−今回もまた−−勘違いしてしまった。
それを告げて先を促せば、志摩君もまた話を戻す気になったのだろうコホンとわざとらしい咳払いをした。どうしてだろうか、再びその頬が赤くなっていく。
そうして志摩君が数度「それで」だの「俺が言いたいのは」だのと言い淀み、それでも意を決したと言いたげに私の名前を呼んだ。普段とは違うその真剣味を帯びた声色に、まるでつられるように私も緊張してしまう。
ジッと見つめられると心臓が痛くなる。彼の言わんとしていることを聞きたいような、それでいて怖くて聞きたくないような、そんなどっちつかずな感情がより心音を響かせる。
「その、さ……受験終わったら……。猫カフェ以外にも、どっか行かないか?」
「……どこか?」
「たとえば映画とか、モールの方とか……買物したり、オムライスの有名な店があるからそこ食べに行ったりとか。他にも、別の場所に遊びに行ったり……。俺、猫カフェにも行きたいけど、七瀬と色んなところに行きたいから」
だから、と話しながら志摩君が俯いてしまう。
その頬は真っ赤で、頬どころか耳まで赤く染まっている。気恥ずかしそうに乱暴に頭を掻き、そうして最後に一度「七瀬さえよければ」と告げた。
対して私はと言えば、俯くことも視線をそらすことも出来ずに呆然と佇んでいた。
志摩君の言葉が頭の中で繰り返される。
私と猫カフェ以外にも行きたいと言ってくれた。色んなところに行きたいと言ってくれた。
頬を赤くし、俯きながら……。それでも言ってくれた。
頭の中は混乱状態で、そんな中でも彼の言葉を幾度となく反芻すればその意味は理解できる。
だが分かった途端に今度は混乱が熱に変わり、自分の頬が急激に熱くなっていくのが分かった。きっと真っ赤になっていることだろう、それこそ志摩君と同じくらいに。
だけどここで真っ赤になって佇んで終わりでは居られない。そう考え、緊張で痺れそうな手を強く握ってゆっくりと息を吸った。心臓が跳ね上がって呼吸の邪魔をする、志摩君を呼んだ声が酷く上擦って震えている。
それでも、緊張を震える手に押しこめ、そしてそんな手をギュウと握りしめ、「私も」と彼に答えた。
「あの、わ、私も……志摩君と……遊びに行ったり、したい」
「そ、そっか……!」
私の返事を聞き、志摩君がパッと表情を明るくさせる。
真っ赤になった頬で嬉しそうに笑う彼の笑顔は眩しくて、私も頬の熱を感じながらもはにかんで返した。
そうして志摩君と別れ、帰路に着く。
その間も私の心は落ち着きを取り戻すことなく、時には高揚感に溢れ時には締め付けられるように切なくなり、そして志摩君の笑顔を思い出せば高鳴る。なんとも慌ただしく、疲れさえ感じてしまいそうな程だ。
頬もきっと赤くなっているだろう。それを見せればお母さんに何を言われるか分かったものじゃなく、家まで着いても直ぐにはチャイムを押さず、数度深い呼吸をして何とか平静を取り繕って自宅へと戻った。
「パブロ、今日はいろんなことがあって疲れちゃった……」
夕食を終えて入浴も済ませ、自室のベッドに横たわる。
相変わらずベッドの上にはパブロが居るのだが、今はそれに文句を言うより胸に湧く高揚感を誰かに話したい気分でいっぱいだった。となれば、その相手はパブロしかいない。
今日のお礼にあげたシュシュを咥えたパブロは私の話に対して時折は目を瞑り、たまにシュシュをアグと咥えなおしたりと相槌を打ってくれる。――多分相槌だと思う――
そんなパブロを相手に今日一日のことを話していれば自然と話題は志摩君との別れ際の事になり、ポッと頬が赤くなってしまった。
あの時の志摩君の表情が忘れられない。
顔を赤くさせて、私の返事を待って、そして嬉しそうに眩い笑顔を見せてくれた。
「私、己惚れても良いのかな」
どう思う?とパブロに話しかければ、シュシュを咥える口元が微かに動いた。
私の気持ちを肯定しているのか、それとも己惚れるなと否定しているのか、もしくは浮かれすぎるなという忠告か。いい加減にしろとうんざりしている可能性もある。
そのどれかなどやっぱり私には分からず、だからこそ勝手にパブロの言わんとしてることを察した気持ちになり、熱を分け与えるようにその身体に頬ずりした。




