1 うってかかっても空を切るだけ
この物語は話の鍵として、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲ハムレットが出てきます。
シェイクスピア作品に関しては素人なりの勉強はしておりますが、つたなさにはお許しくださいますよう。
また、サブタイトルと後書き部分で引用したハムレットの文章は、小田島雄志・訳を拝借しております。
蒸し暑いあの夏の日、あたしはハムレット先輩と出会った。
駅から徒歩十分の場に行く行為は、真夏においては大変な重労働となる。目的の大学にやっとたどり着いたユカは、体中の水分が汗になって出ていくのが分かった。涼を求め、ユカは無意識のうちに建物の影を目指して足を動かす。
百周年記念講堂。その名の通りM大学が創立百周年をむかえた年を記念して建てられた講堂で、講義や講演会、その他催し物の舞台となる多目的広間だ。
「たしか、本番はここで上演するんだよね……練習もここかな?」
最初は日陰を求めてやってきただけだが、ユカは自分のしようとしている事に、この記念講堂が無関係ではないと気づいた。
それで、記念講堂の扉を開き、奥へと進んだ。中にはまずロビーがあり、ユカはその先の座席とステージがある空間へと入りこむ。
建物内がとても静かなので人気がないのは察せたが、やはり講堂には誰もいない。広い空間を独り占め出来る事で、ユカの気分は少し浮き立つ。彼女はいたずらっぽく笑うと、きれいな列を作る座席の合間をぬって、足早にステージへ向かう。
そして一気にステージ上までかけ上がった。
「さっすが、壮観……!」
ユカは今、整然と並ぶ座席がよく見渡せる、ステージの上に足をつけている。
高いところからの眺めが好きなユカはたとえその高さが自分の身長より小さいステージでも、高所にいる事でにんまり笑いが止まらなかった。
ひととおり座席を眺めたところで、ユカははたと気がついた。彼女は誰もいない講堂のステージでふんぞり返るために、わざわざ夏休みに大学へ来た訳ではない。元々は友人のサークル活動の手伝いに来ただけだ。
ひとつ息を吐くと、ユカはステージをおりるために階段に足をむけた。
その時、振り返ろうとユカが思ったのは何故か、判然としない。しかしその時、たしかに何かの気配がしたのだ。
頭をあげると、ステージの天井にほど近い場所に、人がいる。
「え……?」
その人は、タロットカードの“吊るされた男”さながらに上下逆さまになってステージライトにぶら下がっている。
頭上の相手とユカの視線が交差した、その瞬間。彼は笑っていたようだ。
(――目が、合っ…………うええぇ?!)
彼は、ライトを掴んでいた両手をはなす。あれでは落ちてしまう。ユカは目を伏せた。
衝突する音や、悲鳴、自分への被害などを想像してユカは身構えたが、そのどれも現実にならなかった。相変わらず、記念講堂は静けさに包まれたまま。
「……何してるの?」
人の声にユカは肩をふるわせ、おそるおそる目を開ける。
ユカの傍らには、ふしぎそうな表情の二十歳そこそこの青年が立っていた。その顔は、先ほどライトにぶら下がっていた男のもので、ユカの頭はしばし混乱する。
青年の明るい茶髪に乱れはなく、ニットの長袖シャツやデニムのパンツには汚れやダメージ加工すらない。もちろん顔に怪我などないどころか、よくよく見ればテレビの向こう側にいそうな格好いい顔立ちだ。
それなりの高さのある場所から飛び下りた人間にしては、見た目に乱れがなさすぎる。怪我がないのは何よりだが、ユカにはなにがなんだか分からなかった。
対する青年は、ユカの戸惑いを察したのか安心させるように微笑んだ。つられてユカも笑う。
「な、なーんだ……びっくりした」
とにかく、彼が無事だったのには変わりはない。きっとうまく着地したのだろう。ああ見えて彼はアクロバティックな才能があるのかもしれないし、ステージの天井だってそこまでの高さはない。何もおかしな事はない――あんな高所に彼がいた事以外は。
「って違う! きみ、オレの事見えるの?!」
ほのぼのしかけた空気を壊したのは青年の方だ。彼はいきなり真顔になり、ユカに顔を近づける。その瞳は焦りや驚きや戸惑いに揺れている。
ユカは言われた意味が分からずまごついたが、間近に迫った彼の見目のいい顔に、心臓が落ち着かない。
青年の肌はきれいで、やっぱりアイドルか俳優か何かのように見える。意外と長いまつげ、澄んで真摯な瞳、よく見ると茶色の髪は猫っ毛だ。
ユカは自身の化粧っけのなさや、髪も適当にまとめただけの染めてもない黒髪、動きやすさ重視の服が恥ずかしくなって、相手と距離を作ろうとする。
「……っ、その、ひとまずどいて、」
くれませんか、と続く言葉をユカは言えなかった。
目前に迫る男の肩を、ユカは押しやったはずなのだ。
それが今、なんにも触れる事が出来なかった。ただ空を切っただけ。まるで彼の体などなかったかのように。
まさか彼はものすごい勢いで身を引いたのかと、ユカはもう一度青年に手を伸ばす。
また、空気に触れただけ。
青年の着る白いニットは触れればやわらかなはずなのに、そんな感触はいつまでたっても訪れない。
自分の目が、自分の手が、ユカは信じられなかった。
まるでプロジェクターで映し出した触れられぬ絵の輪郭をなぞろうとしたかのよう。
「なに……これ」
空気や光に触れる事は出来ないように、目の前の彼にはさわる事が出来ない。
「そっかー、さわれはしないか。それもそうかー」
青年は困ったように苦笑する。
ユカの心臓が、さっきとはまったく違う意味でざわめいた。
考えたくもないが、ユカはこのような状態の存在が何を示すのか、漫画やドラマなどで知っている。
「も、ももも、もしかして」
言いたくもないが、ユカの舌が勝手に動く。
「幽霊?!」
彼を指差す手がふるえていた。
「どうも、そうみたいなんだ」
自分の体をすり抜けるユカの手をちらりと眺めながら、その幽霊はちょっとこわばった笑みを浮かべる。表情に怨念も苦悶も深刻さも見えないどころか、彼は気さくにVサインなんて掲げてみせる。
ユカと同世代のただの大学生にしか見えない彼は――ふつうの人間ではないらしい。
一度にあまりにたくさんの情報を与えられて、ユカの頭は真っ白になった。
あれではまるで
空気のように不死身だ、うってかかっても
空を切るだけでむだなまねごとに終わってしまった
(第一幕 第一場 マーセラス)




