14 それが死を迎えたハムレットの心
学園祭当日は、よく晴れた。秋なので日差しも強くなく、お出かけにはもってこいの日だ。
演劇サークルの上演は、午後一時から、三時まで。それまでわずかな間、出店を楽しんだユカだったがすぐに忙しくなった。
サークルのメンバーは、昼前には会場である百周年記念講堂に集まった。広くない控え室で、部員はあれやこれやと最後の仕上げに余念がない。
すっかりガートルードに変身した塔子に、ユカは感嘆するしかない。
「ほわあ……、トーコ、王妃メイクすごいね……。とても十九歳には見えない」
昨日と同じ衣装を着ているが、この日の塔子は昨日や普段とはメイクも髪型も違う。まず髪型はすべて頭の後ろに編み込んで固定してある。メイクに至っては、いつもより濃く、なおかつ目の下にクマが出来ている。舞台映えのためというより、若い娘を、年増の女に見せるためのメイクだ。
「老けて見えてもうれしかないけどね。でもこれからやるのは母親だから」
そう言う塔子の眼差しは、既に彼女のものではなく、厳かにも見える。
友人の塔子だけでなく、他の役者たちも様変わりしている。役のためにわざわざ髪を染めた者もいて、一瞬誰だか分からなかった。男でも化粧をする者もいて、舞台に立つという事は、別人になるという事だと肌で感じられた。
「川上さん、村田が呼んでたよ」
芝居の本番にはじめて触れるユカが感動しきりでいると、まだ仕事があるのだと呼びかけられる。
「じゃ、トーコがんばってね」
見た目はもう年のいった王妃のはずの塔子が、「おう」と普段通りの声を出すのでユカは笑いながら控え室を出た。
リョウの幽霊が住む百周年記念講堂からは、M大学の学園祭の様子が見える。
「学祭か……」
あの場に行けなくとも学園祭の雰囲気を楽しんでいる、とはいえない表情で、ハムレット先輩は窓辺に立っていた。
学園祭の記憶が、ハムレット先輩にも、ある。出店などの様子は、自分の在学中の光景が思い浮かんだ。だが、例年M大演劇サークルはなんらかのお芝居を上演しているから、彼もこの日は芝居の準備で忙しかっただろう。
生前は、演劇に情熱を傾けていただけあって、芝居の稽古を見て過去をいくらか思い出せた。だが、肝心な事はまだなにも思い浮かばない。
(なんだ……オレは何を忘れてるんだ……?)
もしかして、忘れたいと願うほどの事をしてしまったのではないか。
ハムレット先輩は、苦い顔になる。
記憶を取り戻す事に、後ろめたさがある。このままでいいはずがないのに、足踏みをしてしまう。まるでハムレットだ。
小泉リョウは、死してなおハムレットを演じてしまうのか。
幽霊は、劇中のハムレットと同じように、ふがいない自分に腹を立てた。
十二時半の開場から、記念講堂にはユカの想像以上の観客がやってきた。
そもそもが大学自体がそれなりに名の知れた学校で、学園祭にやって来る学生も一般客も多い。加えて、M大の演劇サークルは代々一定のレベルを保てていると評判なのだ。
この日、ユカの仕事は基本的には大道具の村田の手伝いだ。舞台背景を動かしたり、役者に小道具を手渡したり。何かあればすぐに手伝えるように、常に舞台袖に待機する。
ゆっくりお芝居を見ている暇はないだろうと思いつつも、ユカは観客の一人のような気分でもって、役者たちを見守っていた。
開幕直前のユカの仕事は終わった。あとは舞台袖で周りの様子をチェックするだけだ。
やがて、時計が昼の一時を告げる――。
「はじまった……っ!」
ステージの幕があがった瞬間、ユカはぞわりとした。不安もあるが、奇妙な高揚感におそわれたのだ。
ここはデンマークのお城、エルシノア城。
「誰だ?」
お決まりの最初の一言は、夜の見回りをする男から発せられる。
ウィリアム・シェイクスピアの悲劇『ハムレット』の開幕だ。
ほとんど最初の方から、ユカの友達が登場する。舞台袖から、塔子の手がふるえているのが見えた。いつもあんなに自信満々で強気な、塔子が。ユカは、まるで自分がステージの真ん中に押し出されたような気分になる。
「ねえハムレット? その夜みたいな服は脱ぎ捨てて、王に親しみの目を向けてはくれないかしら」
息子に理解を示そうとしているが、噛んで言い含める声音。ハムレットの母親、デンマーク王の妃、年を重ねた女が、口を利いた。ガートルード最初のセリフだった。
(トーコ……すごい……)
これまで稽古で彼女の演技は見てきたが、先ほどの手のふるえを思えば稽古とは比べものにならないほど気を張っているのだ。それなのに、あの、よく通った声量。母親の慈愛がにじむ口調。息子を憂いながらも自分はかつての夫の死をのりこえたかのような、穏やかな眼差し。
クローディアスの手をとり、新しい夫をかすかにはにかんだ目で見る女。
ユカは、何度も見ていたはずの場面なのに引き込まれた。
部長の演じるハムレットの父の幽霊が、ステージ上にあらわれる。
父の暗殺を知るハムレット。よく見たら、ホレイショーは最初の頃からハムレットのかたわらにいた。ホレイショーはユカがあまり気にとめていなかった人物だ。
ハムレットは復讐を決意し、友達のホレイショーにすら、これからする事をはっきりとは告げない。
「世界の関節が外れてしまった。なんて事だ、それを直す運命にあるとは」
藤堂のハムレットが、天をあおぐ。
オフィーリアが、ハムレット王子の変貌を発見し、ポローニアスがその探りを入れる。ハムレットは未だ復讐を実行に移せない。そのうちに、ハムレットの城に旅の役者たちが訪れる。ハムレットは劇でクローディアスの様子を伺う事にする。
クローディアスにしてみれば、自分の罪を突き付けられるような内容の劇だ。芝居を見て、明らかにうろたえるようなら、クローディアスは本当にハムレットの父を殺した事になる。
「明かりだ、明かりを持て!」
案の定、クローディアスは劇を最後まで見られずその場を立ち去る。自分の犯した罪そっくりの筋書きを見せられて、クローディアスは神に祈ろうとする。
「祈る心はある、しかし罪の重さの方が強い」
クローディアスは罪のゆるしを求めるが、今なお血ぬられた手で王冠も王妃も握っている。それでは罪はゆるされないのではと、心の底からはゆるしを乞えない。
「今殺しては、天国に送る事になる」
形ばかりの祈りの姿を見て、ハムレットはクローディアスが心から改悛したのだと思いこむ。堕落した時に殺せば地獄に行くだろうが、今は違う。そうハムレットはまた復讐を先のばしにする。
「心よりの言葉でなければ、天には届かぬ……」
クローディアスは、身の入らぬ祈りをやめた。
二階の、覗き窓のあるステージを見下ろせる場所で、ハムレット先輩はユカたちサークルの演技を見ていた。
まだハムレットを知りはじめたばかりの頃、リョウはクローディアスの祈りの場面を勘違いして受け取った。
解釈の幅はあれど、クローディアスはさほど自分の罪を悔い改めてはいない。後悔はしていよう、誰かに知られるのも恐れていよう。だが、彼自身が言ったように、犯した罪で手に入れたものを手放す気などない。だからゆるしてもらえないだろう、と諦めて見えなくもない。
ハムレットはハムレットで、クローディアスを確実に地獄に落としたいがために、祈りの瞬間ではまずいと判断する。
最初の頃、リョウはハムレットがクローディアスの祈る姿の、人間らしさにためらいを覚えたのだと、感じた。
あんなにも憎らしく、人とも思えぬと見なした相手が、あまりにも人間らしかったから、手が止まったのだと。
こいつにも人の心があるのだと――。
お前には人の心がないのかよ
カチリ、なにかのはまりあう音がする。
もうやめて
割れた花瓶。
ようやく、欠けたピースがすべて合わさったように、小泉リョウの記憶が、よみがえる。
やはりハムレット役は小泉に
顔も分からない仲間の一人。
お前がヒロを好きなのは知ってる
自分の、無理に冷静さを保った声。
ごめんねリョウくん
ふるえる女の喉。
何様のつもりだよリョウ
目には殺気が。
もっと言い方があるだろうが
ヒロのものとも、自分のものともつかない怒号。
このクソ野郎
まじりあう、汚い感情。
殺してやる
先に泣きそうな顔をしたのはあっちだった。
どうしていいか分かんねえよ
オレだって、
こんなつもりじゃなかった
どうしたらいいか、
どうしたら解放されるのか、
分からなかった。
お前には人の心がないのかよ
その時芽生えたのは、
殺してやる
まぎれもない殺意。
本当に殺すつもりだった。
あの時、血が広がっていったのが見えた。
赤い、血が――
ユカは、手があくたびに舞台を見守った。
ステージではハムレット王子がポローニアスの体を引きずって運んでいる。ガートルードは呆然とするしかない。息子が、隠れていたポローニアスを殺し、自分をひどく責め立てたのだから。
「ポローニアスはどこだ」
「ご飯中でしょう。ただし、食べられる側のご飯時」
部下を殺されクローディアスは次は自分かと危ぶんだのだろう。ハムレットをイギリスに送り、殺す手はずを整える。
偶然が重なりからくも逃げ出したハムレットは、デンマークへ戻ってくる。
ハムレットのいない間に、元恋人のオフィーリアは死んでしまい、葬儀の場でハムレットはレアティーズと揉み合いになる。
「どれだけの数兄が集まろうと、私の彼女への想いには敵うまい!」
ハムレットは、心からオフィーリアを嫌ってなどいなかった。それどころか逆のように思える。
そしてクローディアスがハムレット暗殺計画をふたたび練る。今度は二重の罠にかけ、確実に息の根を止めようとする。 レアティーズにハムレットと剣の試合をさせ、レアティーズの剣には毒を塗っておく。かなり強い毒を。そしてもうひとつの罠は、毒の杯。
ハムレットはその罠には気づかないが、胸騒ぎがする。毒の剣でハムレットもレアティーズまでも傷を受けた時、母ガートルードが倒れる。
「お酒……お酒に毒が」
王妃は目を伏せる。
「出口をふさげ! 犯人はどこだ!」
「犯人はここに。僕にも、毒の塗られた剣の先が刺さりました。あなたのその傷も、同じ毒におかされています。すべて国王がくわだてた事……」
息も絶え絶えのレアティーズに、暗殺計画を知らされ、ハムレットはクローディアスに飛びかかる。毒の塗られたままの剣を彼に刺し、毒の酒まで浴びせる。
「ホレイショー、私はもうだめだ……君は、この事件をみなに伝えてくれ」
母を失い、友になりたかった男を殺してしまい、敵を討ったハムレットにも、死が訪れる。
この世の理不尽を集めたような物語だ。
だが、最後にホレイショーが残された事は、この結末における希望なのではないか。急にユカはそう思えた。
ホレイショーはいつだって理性的だった。わりとすぐかっとなるハムレットを制止する役だ。冷静な彼ならば、ハムレットの死を無駄にせずに未来につなげられるかもしれない。
ホレイショーだけは生き残ってくれたから、まだ希望がある。
ユカの勝手な解釈でも、それでいい気がした。
幕がおろされ、講堂は拍手で満たされた。お芝居は成功に終わったのだ。ユカはほうと長い息を吐く。
(ああ、なんか、演劇っていいなあ……)
舞台袖にいるのに、ユカまで大きな拍手をしていた。ら、村田に仕事をしろとツッコまれた。カーテンコールをしり目に、ユカは裏方の仕事に戻る。
なんとか一息つけた頃、ユカは自分を手招きする男子がいるのを目にした。ハムレット先輩だ。彼女は周囲を見回して、そっと部員たちからはなれる。
ハムレット先輩はユカの先を歩き、一人で話していても問題なさそうな人のいない場所にやってくる。念のためユカもしばらく辺りをうかがう。大丈夫そうだと分かると、わっと口を開く。
「どうしたんですか、呼び出すなんて珍しい。あっ、お芝居どうでした? てゆうか昨日なんで急にいなくなって……」
その時のハムレット先輩の瞳が、笑っていたのに、悲しそうだったから、ユカは異変に気づいた。
「戻ったんだ、記憶」
まるで死期を悟った老人のように、達観した目をして、
「ぜんぶ」
小泉リョウは告げた。
それが死を迎えたハムレットの心だ、そう伝えてくれ、
事ここにいたったもろもろの事情も。あとは、沈黙。
(第五幕 第二場 ハムレット)




