13 このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ
その、人にあらざる存在は、高いところにある窓際のヘリの上に座っていた。月の光をスポットライトにしている。たくわえた月の光で体が光っているかのように、彼の姿ははっきりと見える。
近づいてきたユカに気づいたハムレット先輩は、一度目元をやわらげたが、すぐに視線をよそへやる。
ユカは頭を上げて二階の窓くらいの高さにいるハムレット先輩を見上げた。彼は、幽霊だからどこにでも自在にのぼれるのだろうか。
とても久しぶりに見たハムレット先輩の横顔は、真剣なもので、ユカは少しだけとまどった。
暗い中でも、きれいな顔がよく分かる。
いつもの表情と違う。いつの間にか、ユカは息をつめていた。それほどまでに、ハムレット先輩は深い瞳をしている。
「To be, or not to be, that is the question」
元ハムレット役者は、詩をうたうように言った。観客席の奥にまで届きそうな大きな声ではなかったのに、ユカにはこれが彼の芝居をしている時の声だと感じられる。
「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ――」
黒い喪服の、ハムレット王子がそこにいる。
ユカは、急にこの人がどこか遠くに行ってしまうように思えて、拳を握る。
「先輩」
呼ばれた彼は、ユカの方を向いたが、視線は彼女を通り越してステージを見ていた。
「ハムレットの中でも、一番有名な一節だよね」
ハムレットの物語をよく知らなかったユカですら、今の一節には聞き覚えがあったほどだ。さすがに英文では知らなかったが。
「父親に言われて敵討ちするはずが、ハムレットは恋人を突き放したり、その父親でお節介なやつを煙に巻いたりしてるだけ。その時、旅の役者一行がやってきて、ハムレットに芝居の一場面を見せる。真剣な様子で芝居にうちこむ役者を見たハムレットは、自分と照らし合わせて、何を復讐をなまけているんだろうと独白する」
この時の、役者の一行はハムレット王子にとって重要な存在となる。
役者たちに、ある芝居をやらせようとハムレットは考える。それは、一人の男が叔父を殺して王位と王妃を手に入れる物語だ。
「生きるべきか死ぬべきか、はそのあとのシーンで使われる」
ハムレットたちが芝居を見る前の話だ。この時のハムレット王子はまだ、同じところをぐるぐると歩いているような状態だった。
「でも、この日本語訳はあまりにも有名すぎて、他の可能性を奪っている」
この話はいったいどこにつながっているのだろうかと、ユカは疑問になる。
また彼のハムレット講座だろうか。今でもユカは、ハムレットという戯曲を知りつくしてなどいない。話を聞く分にはかまわないのだが、突然彼はどうしたのだろうか?
「どういうことです? ハムレットは、復讐に悩んでいて……」
それでもユカは、幽霊の話につきあった。
いつか部長が言っていた、日本語に訳すと出てくる意味の通じなさの話を、されているのだろう。
そうだとしても、ハムレット王子があの場面で何を思いわずらっていたのか、ユカは分かっているつもりだ。
ハムレットはあの時、決意が出来てないようだった。
だからこそ、芝居を使ってクローディアスの罪を再確認し、それから復讐に臨もうとしていた。
なかなか先へ進めない、若い心のためらい。
「そう、復讐の機会をこのまま見過ごしていいのか……いけないのか、分かっていながら行動出来ずにいて、だからこそ自分に問いかける」
かつて小泉リョウという名を持っていた男の意識は、もう百周年記念講堂にはなかった。
川上ユカも、たくさんの座席も、ステージも扉もなにもかも、消える。
本当に夢の中にいるように、
To be,
思考は判然としなくて、
――お前に何が分か――
映像の中に一瞬うつる、別の画像が閃く
or not to be,
「to be、は何も、生きるべき、という意味だけを持つのではない」
この話をしたのも、あいつと一緒だった。
“be”には“そのままの状態でいる”という意味合いがあるから、それを“生きた状態でいる”とするのにおかしな事はない。
だが、それを口にする前のハムレットの行動を見てみると、あまりにも突然生きるだの死ぬだの言い出したように見えるのだ。
死ぬ話をするのはもっとあとだ。
あいつは、そう信じて断言した。
あいつが言った事は、もっともらしかった。
顔も未だ思い出せないあいつが、歪んだ画像の中にあらわれる。
――がお前の元を去ったのも――
過去についての映像は不鮮明で、
怒りと憎しみと殺意に満ちたその男の瞳が、誰のものなのか、自分のものなのかも、分からなかった。
男の口が大きく開かれた。
口論を、していたような気がする。
「このままでいいのか、いけないのか」
生きるべきか、よりもふさわしい訳は他にある。
呼吸はもう必要ないのに、幽霊は大きく息を吸った。
ゆっくりと、意識をして、見慣れた百周年記念講堂の風景を思い浮かべる。さっきまで何をしていたかも、脳裏に描いて。彼は、小泉リョウの記憶から抜け出そうとした。
吸ったつもりの息を吐く。長く。
過去から、死後の世界へ。
目を閉じた覚えはないのに、“ハムレット先輩”は、目を開ける。
ハムレット先輩は、首をのばして講堂の内部を見回した。
長い間、ここからはなれていたような気がする。
最後にステージに視線をやったら、無意識のうちにわずかに眉が寄る。
「きみたちの稽古を見ていて、少しだけ思い出したみたいなんだ」
M大学の、演劇サークルの練習風景を、見た。
「記憶を」
小泉リョウのかつて居た場所を。
その場所で、
(オレは誰かにその疑問を抱かせたのだろうか?)
このままでいいのか、いけないのか。
誰かを追いつめて。
取り返しのつかないあやまちを、犯してしまったのか。
「ほんの少し……ね」
“小泉リョウ”ならばそれくらいやってのけるだろうという納得が、今では出来てしまった。
彼は、自分がおきれいな人間じゃないと分かってしまったのだ。よみがえった記憶の中の、あの悪意が本物だと分かったから。
いつになったら、声をかけてもいいのか。ユカも、ハムレット先輩がどこかに行ってしまったと気づいていた。
瞳はまだうつろながらも、ステージを見ていた彼がユカに視線をおとす。
やっと、彼に声が届く気がしてユカは息を吸う。
「――成仏、出来そうな感じですか?」
記憶が戻ってきたのなら、彼がこの世に残る理由がなくなるのでは。
幽霊が、いつまでも人の世界でさまよっているよりも、神様なり閻魔大王なりのところへ行って、次のステップに進むのが、自然のことわりではないか。
だから、ハムレット先輩が記憶を取り戻したのはよい事のはずなのに、何故だかユカは心からよろこべない。
ハムレット先輩は、一度目を伏せると、考え込むような仕草をする。
目を開いた時にはもう、冗談を言いたいのを我慢しているような顔で手をあおいだ。
「いやっ、そこは全然! つかどんな感じだと成仏するんだよ」
たいして困ってなさそうな苦笑さえ浮かべて、いつもの彼に元通り。
ユカの方こそ、どんな顔をしたらいいか分からなくて困っていると、その幽霊はにやっと笑う。
げっ、とユカが慌てた時にはもう、ハムレット先輩は高所から飛びおりていた。
またやられた。思わず目をつむっていたユカだが、やはりなんの物音もせずにハムレット先輩は着地していた。
ユカから数歩だけはなれた場所で、ハムレット先輩は両手をあげて体をのばしている。
また、いつもの彼だ。いつもの“ハムレット先輩”。
「どうせなら、明日のお芝居見てからの成仏にしてくださいよ」
「……そうだねえ」
どうせこの記念講堂から出られないのに、生返事。とはいえ、この講堂の中にはいくつか部屋があって、トイレやロビーや放送室や二階がある。そっちへ隠れてしまえば、芝居を見ない事も出来る。
という事は、ここしばらくもハムレット先輩はトイレや二階にいたからユカの前にはあらわれなかったように見えたのか。
「そういえばどうしてしばらくずっと、顔見せてくれなかったんですか?」
振り返ってみると、そこにはハムレット先輩の姿はなかった。
「いない?!」
またどこかへ消えてしまった。一声かけてくれればいいものを。
さっきよみがえった記憶に思うところがあるようだったから、ハムレット先輩もあまり平静じゃないのかもしれない。そう思う事にして、ユカは百周年記念講堂をあとにした。
このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。
どちらがりっぱな生き方か、このまま心のうちに
暴虐な運命の矢弾をじっと耐えしのぶことか、
それとも寄せくる怒濤の苦難に敢然と立ちむかい、
闘ってそれに終止符をうつことか。
(第三幕 第一場 ハムレット)




