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9 役者とは時代の縮図

「なんだ、よく分かってるじゃん。ホントについこの間ハムレットの名前を知ったばかりの子とは思えないくらい」

 教師に褒められたくらいの気持ちになってユカは照れる。

「毎日稽古してるそばにいれば、少しは詳しくなれますよ」

 さすがに稽古のジャマはしたくないので、部員に長々とレクチャーを頼む事はない。だからこそハムレット先輩に訊ねているのだ。

「で、何が分からないの?」

 全体としては、ユカは既にハムレットという戯曲を知らないとは言えなかった。元演劇サークルの先輩の評価は、彼女が思う以上に高い。

「オフィーリアなんでああなったのかな? って。おかしくなっちゃったのがよく分からない」

 ハムレット先輩は立ち上がる。しばらく座っていたらで全身の筋肉がこわばってしまったような気になったので、生きていた時の癖で体の筋を伸ばす。

「そうだな、たぶんだけど」

 かつてオフィーリアの恋人役を演じた男は、また脚立に手を伸ばして息を吸う。

「オフィーリアは、父親に身分違いの恋だからってハムレットと別れるよう言われたけど、心ではたぶんハムレットをまだ想ってたんだよね。そこに、狂気を装ったハムレット王子にきつくあたられて、もう既に気持ちは弱ってたと思う。更にトドメの、父親の死。ハムレットは自分がポローニアスを殺したのを隠してはいなかった。きっと誰が父親を殺したのか、オフィーリアも知ってしまったのだろう。想う人が自分をひどくなじり、正気を失い、挙げ句の果てに自分の父親を殺しちゃったんだ。それも正当な理由もなさそうな感じで。問いつめようにも本人はイギリスに行ってて不在だし。オフィーリアとしては、もう何も信じられない。ってなりそうじゃない?」

 ユカはハムレット目線でばかり見ていたし、オフィーリアのあまりの変容ぶりに驚いてばかりいた。

「なりそうかも……」

 気がつくとハムレット先輩は脚立のてっぺんに座り足をブラブラさせている。よくよく高いところにのぼるのが好きだ、この幽霊は。ユカは初めて会った時を思い出す。

「心の弱い娘だったのかもしれない、オフィーリアは。あるいは、それほどまでにハムレットやポローニアスを愛していたのかも」

 ある意味ではオフィーリアは二人の愛する者を失ったのだ。ハムレットが狂気を装い激昂した時にもひどく悲しんでいた。自分がひどく責め立てられたからだけではなく、仰ぐべき素晴らしい人物がそうではなくなったと嘆いた。その時点でオフィーリアは気高い王子ハムレットを失ったのだ。その頃からオフィーリアは冷静じゃいられなかっただろう。

 兄レアティーズのように、ハムレットを憎み敵討ちを誓う事も出来ないオフィーリアは、心根の優しい娘だったのだろう。憤りや苦しみを誰にもぶつけられず、自分の内側をむしばんでいった。

「そう言われるとなんか分かったかも~!」

 言いながら、ユカも腰を上げる。ずっと座っていたから彼女も体を動かしたくなったのだ。

「それで、オフィーリアはなんで死んじゃったんですかね? 水死なのは知ってますけど」

 なんとなくでハムレットの映画を見たユカには、オフィーリアの死はさっと流されてしまったように見えた。実際、戯曲の台本ではオフィーリアの溺死の場面は存在せず、のちに彼女の死だけがみなに伝えられるだけ。

「自殺にさえ見えそうな事故死。とにかく正気じゃなかったから、単に小川に落ちたのに陸に上がる事すら考えられず、溺れ死んだだけかもしれない。もしかしたら、本当に死にたかったのかもしれない。そこははっきりしないけど、ただの事故とは言い切れない死に方だったのは確かだね。葬式の時にレアティーズが簡素な儀式に、これだけ? って怒ってたけど、あれはオフィーリアが自殺かもしれない不審な死に方をしたから」

 レアティーズはオフィーリアの葬儀でとにかく荒れていた。

 ユカの脳内ではレアティーズがもう一度妹に触れようと墓穴に飛び込んだ場面が印象的で、あとはぼやけている。

「そうでしたっけ……」

 特に理由もなくユカはステージからおりると、向かい側の最前列の座席に座る。ユカが見上げると、ハムレット先輩は脚立からおりていた。

「うん。キリスト教の世界だと、自殺はとんでもない大罪になる。だからそんな事する罪人にはマトモな葬式なんて必要ない、っていう対応なんだね。ハムレットも最初の方で“神が自殺を禁じてなければ死んじゃいたい”ぐらいの事を言ってたりするし。もしかして今回はそういう部分が削られてたりする?」

「ハムレットが言ってたのは覚えてます」

 キリスト教の教えでは自殺が罪などと、ユカは知らなかった。確かによくない事だとは思うが、自殺するとまともな葬式もしてもらえないとは。

 以前、部長がハムレットは宗教の違いも分かっていないと理解出来ない点がある、と言っていたがまさにこの事だ。

 話を聞くうちに、ユカはもう一度通してハムレットの映画を見たくなる。

「あと他には、ハムレットの狂気のフリって必要あったのかな? とか、ガートルードはどこまでハムレットを信じてたのかな、とか、あとは……」

 ユカにとってよく分からない点はまだまだたくさんだ。

 指折り数えるユカの近くで、くすりと笑う声がする。ハムレット先輩はユカの斜め後ろの席に座っていた。

「なんだか急に勉強熱心ですねえ、ユカさん」

 どこかからかうような声に、ユカは振り向く。

「だってサークルのみんなの話についていけなくてさびしいんだもん~~。みんなシェイクスピア作品が好きみたいだけど、あたしには正直よく分からないし」

 数ヶ月後にハムレット上演をひかえる人々の間で、その戯曲の話題がたえるはずはない。ユカが彼らについていくにはもっとたくさんの知識が必要だ。その上、理解が出来てもイマイチ魅力が分からない。

 年下の兄弟でも見るような穏やかな目をして、ハムレット先輩は後方の席からユカの横へと顔を押し出す。

「別に無理に好きになる必要はないんじゃないかな。人の好みはそれぞれだ。何百年も生き残る作品にはそれなりの理由があるって分かればそれで」

「えー、その理由ってなんですか」

 ハムレット先輩の言う、長年を生き残る理由こそが、ユカにはよく分からないのだ。つまらなそうな顔のユカに、ハムレット先輩は苦笑する。

「そうだなあ……」

 幽霊は立ち上がった。

「研究者じゃないんだし、別にこれが分かれば正解、みたいなものを探さなくてもいいんじゃないかな?」

 歩きはじめたハムレット先輩を、ユカはつい目で追う。彼は座席から通路に出る。

「シェイクスピアが活動したのは今から四百年ほど前。ひとくちに四百年と言っても、現代とはかなりの違いがある。たとえばあの時代は、排泄物を窓から外に捨てるのが普通の、不衛生な時代だった。時には市民が“熊いじめ”をしていた。捕まえてきた熊にわざと怪我をさせ、何匹もの犬と戦わせたんだ。それから魔女狩りもしてたね。本当に魔術なんて使えない普通の人々が迫害されたり処刑された。国王が本気で“魔術の禁止令”まで出した事もある。正直そんな時代、今の感覚からしたら全然ついていけない。でも、そんな時代に生きたシェイクスピアの作品には、今でも通じるものがある。理解出来るところがある。共感さえ出来てしまう。そう考えると、なんかすごくない?」

 言われて、ユカはシェイクスピアが生きたという十六世紀のイギリスを想像してみる。

 きっと、日本人で現代人のユカには何もかもが通じない世界だろう。それなのに、シェイクスピアの残したものは、ユカにも理解を示せるところがある。

 父の敵討ちをためらう、人間くささ。おしゃべり男を煙たがる感覚。実行にうつせない自分に怒る気持ち。

 四百年の時を超えて、無学な女子大生にも、伝わるもの。

 そんなものがあると、その事がすごいと分かれば、これもひとつの楽しみ方。

「時の流れにもかき消されない力がある、その事に頷けるのなら、少しはその作品を愛せているんじゃないのかな」

 彼はユカのとなりの席に腰をおろす。初対面の相手にも気さくに話しかけそうな笑顔で彼女を向く。

「ハム先輩って……」

 高名な戯曲の事を把握しようと知識だけをただ突き詰めたユカ。それなのにハムレット先輩は違うやり方で世界を広げてくれた。

「ん?」

 素直に、すごい人だと思った。けれどユカにはその言葉が言えなくて、思っただけで照れくさくなる。

 それに――好きなものについて語る彼の表情は生き生きとしていて、格好よかった。

「いろいろ、考えてるんですね」

 ふいにユカはハムレット先輩のとなりに座っているのは得策じゃないと気づく。彼女は腰をあげステージを見ながら、降参の笑みを浮かべる。

「まるでオレが普段から頭からっぽみたいに言うじゃない」

 先輩が茶化してくれたのは助かった。

 更にユカの携帯電話が着信を告げる。塔子からメールが届いて、ユカの帰りが遅いのをどうしたのかと訝っている。

「そろそろ戻らなきゃ」

 少しこの幽霊と話し過ぎたようだ。ユカはそのまま講堂の出入り口に向かおうとする。

「ちょっと待って、オレの情報は新しく増えた?」

 問われて、ユカははっとする。すっかりハムレット講座に感心してしまったが、記憶喪失の幽霊の成仏を手伝うつもりだったのだ。

 最近はハムレット先輩情報を仕入れようとアクションを起こしていないユカだが、少し前に塔子から聞いた話を思い出す。

「“小泉”の名前が禁句っぽいことは分かったんですけどー、あとはなにも」

「えーなにそれ。オレなんかやばい事してたのかな」

 まだ確定していないが、今回も小泉という名前が出てきたので、ハムレット先輩も自分に関係のない名前とは見なせないようだ。

「思ったんだけど、歴代部員の名簿とかアルバムとかないのかな。見てきてよ」

 さらりと言われた言葉に、ユカは大きく目を見開いた。その手があったか、と。

役者とは時代の縮図、生きた年代記だ。


(第二幕 第二場 ハムレット)

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