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Best pitching

作者: 史桜

 流れ落ちる汗が太陽に反射してちらと光る。マウンドに立ってまだ10分も経っていないのに、ユニフォームは汗の水分を含み、ランニングをした後のように濡れていた。

 頬を伝う雫を腕で乱雑に拭い、俺はわずか18.44メートル先の相手に目を向ける。


 夏の高校野球県大会決勝の9回裏。相手の攻撃、点差は2点でこちらがリードしている。

 これだけ聞いたなら有利に思えるだろう。だが、状況ははっきり言って最悪だった。


 ノーアウト満塁。それが俺が登板した今の状態だった。

 最後の最後で、ウチのエース龍平(りゅうへい)はぼろぼろに打ち崩された。相手校の打線が龍平の球を完璧に捕まえてしまったのだ。

 スリーラン本塁打(ホームラン)。一挙に3点返されて5点あった差が2点までに縮まった。それからも向こうの猛追は止まることなく安打(ヒット)を連発。3人の走者(ランナー)が各(ベース)からホームを狙っているという現在に至った。

 流石にここまで打たれた投手(ピッチャー)を出してはおけない。監督は控えである俺にゴーサインを出した。


(かける)、ごめ……」

「気にすんな。まだ負けてない」


 左手のグローブに収まったボールの重みを感じながら、俺は右手で作った拳をエースの胸に当てる。


「見てろよ」


 龍平がはっとしたように顔を上げた。一瞬だけ目を合わせて、俺はその場を後にする。……言葉の続きは言わなくても分かっただろう。

 見てろよエース。俺達が勝利を掴む瞬間を、その目にしっかり焼き付けておけ。


 捕手(キャッチャー)である2年生が指示を出す。まずはインコースに低めのストレート。肩の力は抜いて、ただ一点、指先にだけ力を込めて投げる。

 ボールは投げられた時に自ら意思を持つ、と俺は思う。少なくとも俺が投げた球はそうだ。相手のバットを押しのけるようにして、ただ真っ直ぐな軌道を描く。

 龍平は打たせてアウトを、打者(バッター)を取る。だが、俺の取り方は龍平のそれとは正反対。

 小気味のいい音がして、ボールは捕手のミットに収まった。相手打者は身動き一つとれずに固まり、驚愕の視線をこちらに向けた。……よし、肩の調子は悪くない。

 ベンチに顔を向けると、監督が心配をするように俺を見ていた。その目線に大丈夫だと力強く頷いて、俺は再び相手打者を見た。俺への驚きの視線はまだ残っている。その目が変わらぬうちにもう1球、同じところへ。

 低めを意識してさっきと同じ場所に投げ込むと、相手の腕はぴくりと動いただけで、何の変化もなかった。

 最後は少し高めにずらして相手を誘う。こっちの狙い通り、2ストライクで焦った相手が何もないところでバットを回した。


「打たせねぇよ」


 俺は呟く。バットに当てることすらさせたくない。いや、させねぇ。

 バックの皆を信頼してないわけじゃない。だが俺は、俺の前に立った打者を自分の力で完璧に押さえたいんだ。

 審判が拳を固めて三回目のストライクの合図をした。相手の悔しそうな顔が見える。その瞬間、自分の中を何かが突き抜ける感覚がした。電気のような衝撃が体を走る。気持ちが良かった。野球をしていると思う。生きていると感じる。


 俺はバックの力を全く借りず、相手の攻撃を三人で閉じた。

 一瞬場内が静まり返った後、一気に歓声が巻き起こる。ベンチにいた奴、グラウンドにいた奴が飛び出してきて、俺はそいつらに囲まれた。


「流石だな、やっぱ。敵わないよ」


 龍平が困ったように笑う。俺も同じように笑ってみた。


「そんなこと言うなよ。今年の夏はお前が引っ張るのに、俺を超えてくれなきゃ困る」

「そうだけどさ……」


 エースは目を逸らして言葉を濁らせた。……こいつは才能があるくせに自信がない。1番に選ばれたのだから胸を張っていればいいのにと思う。


「……やっぱり、無理なのか? お前がマウンドに立ち続けること」


 彷徨っていた龍平の視線は、いつの間にか俺の右肩に注がれていた。俺は馬鹿、と言って奴の頭を小突く。


「今投げただけで限界。無理だ。ほら、集合かかってるから行こうぜ」


 治まっていた鈍い痛みが、肩慣らしを含めた、たった10数球投げただけで暴れ出してきていた。内心で舌を鳴らしながら、とりあえず整列するために走って皆の元へ向かう。

 今日、投げてもいいと了解が取れたことで、もしかしたらという希望が芽生えていた。だけれども、自分の体のことは自分が一番分かる。やはり、もう高校生活の中でマウンドに立つことはできない。

 俺は右肩を壊している。原因は、春の選抜で試合中デッドボールに当たって怪我を負ったことと、それが完治しないまま練習を積んだため状態が悪化したこと。

 過剰練習(オーバーワーク)をするなと医者にも、親にも、監督にも、仲間にも、可愛いマネージャーにも言われた。でも、止められなかった。

 野球をしたい、球を投げたい、という衝動がどうしても抑えきれなかったのだ。その結果、高校生活最後の夏にエースとしての仕事が出来なくなるほどにまで肩の状態が悪化していた。

 それでも10の背番号をくれた監督には心から感謝している。長い(イニング)を投げられない俺に対して、ピンチの時に出てほしいと言ってくれた。


 何かが叫ぶようなサイレンの音がして、試合は終わりを告げる。


「あざっした!」


 挨拶をした後、相手校の選手は悔し涙を流して脇に立ち、俺達勝者の校歌を唇を噛み締めながら聞いていた。逆に嬉し涙を流し笑顔で校歌を歌っているのは、俺と同じ学校の部活仲間。1の背番号を請け負った現エースも、泣いていた。


 校歌が終わると、応援席にいる仲間や家族に頭を下げにいく。中には、昨年決勝戦で敗れた時の三年生、つまり俺達の先輩もいた。

 そして、その場で閉会式を行い今年の地方予選は幕を閉じる。


「翔!」


 名前を呼ばれ、荷物の整理をしていた俺は声のしたほうへと顔を向けた。


「なに? 龍平」

「ありがとう」


 礼を言われ、俺は返答に詰まる。黙っていると、何を思ったか奴は何処からか隠し持っていた硬球を軽く投げてよこした。思わず利き手で受け取ると、じんと悪化した肩に独特の痛みが走り、俺は顔をしかめた。


「いきなり投げるなよ」

「ごめんごめん」


 球を左手に持ち替えて投げ返すと、龍平は笑った。今度は困り笑顔じゃなく、何かを決心したような表情だった。


「オレ、もう翔に世話かけるようなピッチングはしないから」


 息を呑む。龍平が強気な発言をしたことに驚いた。いつも後ろ向きだったこいつが、初めてエースらしい顔つきをしたのだ、ようやく肩の重荷が外れた気がした。エースとしての重圧(プレッシャー)は半端じゃない。その重圧をエースという肩書きとともに、龍平が引き継いでくれたようだ。心が軽くなった。

 俺はふっと口角を上げる。胸の内に広がった安堵の気持ちをかき消すように、わざと笑い声を出した。


「有言不実行は無しだからな」

「おう!」


 どんな時でも押し負けることがないように練習を重ね、チームの中心となる。それが投手。背番号1の、エースがすることだ。

 俺は右手の拳を龍平に突き出す。痛さは気にならなかった。


「負けんなよ。……エース」


 同じように拳を出して俺のと合わせ、奴は頷いた。


「任せとけ!」


 次は、全国屈指の強豪が集まる甲子園の舞台。不安、動揺、油断。たくさんの想いがぶつかり合い、心に余裕が無くなるだろう。……それでも、投手の欠片なら忘れてはならないことがある。貫き通すべきことがある。

 投手として自覚があるならば。

 いつだって、ベストなピッチングを。

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