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かの高名な音楽家であらせられるベートーベンは、嘘か真か、自身が作曲した「運命」と呼ばれる交響曲のあの有名な一節を「運命が扉をノックする音」と表現したらしいが、彼が生きていた時代から数百年たった現代、時代の流れとは時に非情なもので、迫りくる運命は今日ノックではなくご丁寧にインターホンを鳴らすかなり滑稽なものになってしまった。
そう、まさに今この瞬間のように。
……さて、いつまでもこうしているわけにもいかない。もう来てしまったんだから、もういることがバレているのだから、腹をくくって運命を迎え入れようではないか。だからさっきから扉ノブを握ったまま震えてないで扉を開けろよ俺の右手!
そう恐れることはない、きっと危害を加えに来たのではない。たぶん、たまたま近くまで来たから体の調子をうかがいに来ましたとかそんなところだよ。
そう、きっとそうだ。よしいくぞっ! いくぜっ! そうっ! せっ! はっ! 今だっ!
いやどんだけ気合い入れれば気が済むんだよ。
ガチャッ!
ゴンッ!
「きゃっ!?」
「へ?」
浸ってしまいそうなほど素晴らしいリズムで、何かが起こった。何かが扉に当たったのだ。
見ると、そのかわいい女の子がおでこをさすっている。きっと俺がちっとも出てこないからドアに耳でも当てていたのだろう。
「だ、大丈夫っ!?」
どうだ、やばいか? これやばいか? あわわわわわわ……
「だ、大丈夫ですよ」
手をフルフル振りながら照れ笑い……か、かわいい――じゃない!
「ホント、ごめんね……」
「いえ、私が扉に顔を近づけていたのが悪いんです。気になさらないでください」
めちゃめちゃいい子。でもそんなこと言われても気にしますって。どうしよう。
そしてテンパった俺はなぜか彼女のおでこをさすってしまった。しかし抵抗しない彼女。
どうしていいのか分からないのでとりあえずさすったままでいこう。
しかし、正直な話、彼女には悪いが思わぬアクシデントのおかげで気まずくならなかったのも事実。結果オーライってことでいいかな。いいよね。
「えっと、今日は……どう……したの?」
彼女の顔はおでこと同じくらいに赤くなった。
「あの……先日は、大変ご迷惑をおかけしてしまって、今日は、その……お詫びをしようと思って……」
そう言って彼女は視線を落とした。その視線の先には手、そしてビニール袋、しかもスーパー三平。まぁ何たる偶然。
「あ、ありがとうございます」
でもあれほとんど俺の自業自得って感じだったけどね。なんか悪いな。
「…………」
「…………」
沈黙。
おでこをさする俺。
おでこをさすられる彼女。
沈黙。
……いやいや何だよこれ!? 止められない止まらないでも耐えられない!
「あの……少しあがっていきますか?」
この状況からの脱却には、これしかなかった。
するとうつむいていた彼女が顔をあげた。そこには昨日学食で見た笑顔があった。
「よろしいんですか? お邪魔じゃありませんか?」
「そんなことないですよ」
ますます笑顔になった。この笑顔を独り占めしようものなら、この世界に生きる残りすべての男性も敵にするくらいの覚悟が必要かもしれない――としか表現できない、笑顔だった。
そこでようやくさするのをやめて扉を開けて中に迎え入れる。通り過ぎた時にすごくいい匂いがした。
やっぱ普通の、かわいい女の子なんだな、なんて、ごく当たり前のことがすごくうれしかった。ちなみにその時少し離れたところにある電柱の所からこちらを見ている人がいた気がしたのだが、それは見ていないことにしよう。