17
俺は再び机に向かっている。別に勉強をするわけではないけれど。ただ、やることはある。
目の前に置かれている掲題電話を手に取って、登録されている電話番号に電話を掛ける。
思えば、今日は電話をする機会の多い日だな。
何回か呼び出し音が鳴って、相手が出た。
「よぉ、ご存知俺だ。今いいか?」
「おう、どうした? お前が電話してくるなんて。それに何だかテンションも高いし」
「確かに……今日は疲れが限界突破してるからかな。いつもの俺なら、しなかったかもな」
「ほぉ~そりゃまた。お勤めご苦労様なことで。……そう言えば昨日、どうだった? また姫に泣かされたか?」
「まぁ、近いな」
「そうか、それは御馳走様だな。でも俺も被害者なんだぜ? 昨日急に姫に呼び止められて、『夏依がやっぱり教室で待ってて、だって』なんて言われたから、俺ずっと待ってたんだぜ? もうそろそろ校門が閉められるって頃にようやく俺騙されたことに気付いたんだから」
「そうか……そりゃ残念だったな」
「あぁ、お互い苦労するよな~」
「……ところで、お前の知っていることを聞くって話だけど」
「あぁ! そうだった! だから電話してきたのか~。ふっふっふ、しょうがない、教えてやろう」
「いや……あれは、もういいや」
「え? もういい?」
「そう、もういいや。……それより聞きたいことがあるんだけど、良いか?」
「それは構わないけど……あの約束は、ちゃんと守れよ?」
「約束? ……あぁ、あれの事か、大丈夫心配するな。さて、西川、お前に二つ質問だ」
「おう! 何でも来い!」
「お前、個人情報保護法って知ってるか?」
「こ、こじ……何だって?」
「個人情報保護法だ」
「……いや、聞いたことないな」
「そうか、じゃあもう一つ、最近、誰かに俺の家の住所を教えたことは無いか?」
「……え?」
「どうだ? 俺の住所を教えたこと、無いか? 二人くらいに」
「……どう――どうだったかなぁ?」
「どうだ? 答えられないのか?」
「……ちょっと、思い出すまで時間が必要かなぁ~……なんて」
「そうか……分かった。大丈夫だ。何だか尋問しているみたいで悪かったな」
「お、おう? そうか? まぁ気にすんなよ。それじゃ、あの約束だけど――ん?」
「電話か?」
「あぁ……そうみたい。でも、知らない番号だ」
「出た方が良い。きっと大事な要件だ」
「え? そうか? じゃあ一回切るわ」
「おう」
そして電話は切れた。
そう言えば、まだお風呂に入っていなかった。今のうちに入ってしまおう。
お風呂場には、この家には不釣り合いな香しい匂いが漂っていた。湯船に入っているお湯も、ずいぶん柔らかくなっている。なるべく、無心を心がけた。
お風呂から上がって部屋に戻ると、西川から着信があった。不在着信の表示もあるので、何度かかけてきていたらしい。
俺は全くの平常心でもって、電話を耳にあてる。
「――おう、何を隠そう俺だ」
「……あ、あ、お」
「ん? おいどうしたマイフレンド西川? まるで言葉になっていっていない、何だか死んだ人間みたいな発声をしているぞ?」
「お、お前――自分が、何をしたか、分かってるのか?」
「……なぁ西川、個人情報保護法って一体何だろうな。まぁでも、きっと、それを知らない俺たちには関係のない話だよな。じゃあ、彼と仲良くな」
そう言って俺は電話を切った。携帯を机の上に置き、布団に寝転がる。
「……ふぅ」
こぼれたため息と一緒に体の力も抜けていき、布団に深く沈む。まだ洗濯物を干したままなのだけれど、もう取り込むために立ち上がる力すら湧いてこない。まさしく満身創痍だ。こんなのいつ以来だろうか? 思い出せるのは高校受験のために勉強していた時くらい。もはや自分のやる気だけじゃない、何か外的な力が働いたとしか思えなかったくらい、俺は必死に勉強していた頃。そうせざるを得ない、一種の強迫観念に駆られていたと言っても過言ではない。
そう……あの時、俺は怖かった。
過ぎていく時間に、何も残せないことが。終わっていく瞬間が、何も残らないことが。
……いや、俺だけじゃない。それはきっと、この時期の誰もが漫然と抱え、気付かぬふりをしている焦燥なんだ。だけど俺は、それを甘受できない……小心者だった。
あと何日たてば日曜日だなぁ、とか。
あと何日たてば期末試験だなぁ、とか。
あと何日たてば夏休みだなぁ、とか。
いつも先のことばかりに目を向けていて、ふと考えたら今何をしているか分かんない、そんな大多数の高校生の学校生活を自分も送るのかな――なんてことを、中学校の教室の窓から見上げた空のくすみ具合から連想していた時、俺はそれに気付いてしまったのだ。
だから、ちょっと変えてみようかな~なんて思ったりしちゃった俺、中学三年生。
「……ははっ、そんなに経ってないのに、思い出すとずいぶん懐かしい気分になっちゃうな」
その些細な選択によって得たのは結果ではなく、始まりだった。
おかげで俺の高校生活は、今までの生活からは考えられないような非常に非日常的な日常になったわけだ。この日常が一体どんな結末を迎えるのかなんて俺には分からない。
それでも、「あと何日で――」と、指折り先を数える、そんな暇が無くなったのは確かだった。
俺は確かに、今を刻々と生きている。
だから今は、これで良いんだと思う。もとより抗う気などない、小心者なのだから。
思わずはにかんでしまうような充実感の中、俺は落ちていく。
そう、始まりは数日前、麗らかな四月の朝を歌う目覚まし機能の電子音。




