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かりん党  作者: 相上音
後編 黒白
30/44

 姫瑠もとい姫とは、小学校に出会った。二、三度同じクラスになったんだったか。けれどその記憶は純真で駆け抜けた輝きの日々――なんかではもちろんない。一番最初が一年生の時、まだ右も左もどちらが前なのかさえおぼつかなかった当時の俺を自分の気の向くままに弄びつくした、一種のトラウマそのものだ。あいつのおかげで負った心の傷は数知れず、いやもはや傷痕で心がすっぽり覆い隠されるほどだと言っても過言ではないだろう。思い出したくない思い出だけが、姫との思い出だった。

 それが終わりを告げたのが小学校の卒業だった。きっと、卒業式で俺が流した涙の真の訳を知る者はいないだろう。もちろん、姫など言うまでもなく、だ。

 姫は西側の中学校へ、俺は東側の中学校に行った。卒業式で俺から別れを一方的に告げて以来、全く会っていない。中学の最初こそ思い出と言う悪夢に度々登場し幾度となく俺に寝汗をかかせた日本版フレディだったが、それも一年と持たず、高校入学に際してはそれらの記憶の断片すら脳内の玉手箱に入れて封をしてしまっていた。

 それがまさか、ここで開封してしまうとは。思わぬ再会に三百年は歳をとった気分だ。また、小学校のようなことをされてしまうのだろうか……

 あの頃の姫と今とでは違っている点が色々あった。身体が大きくなっていることはもとより、髪もショートからセミロングくらいになっていて、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。まぁ、それが怖くもあったのだけれど。この外見の下はどんな猛獣に育てあがってしまっているのか計り知れない。重々用心しておこう。

 「……そうだ、りんく――圭大(けいだい)のあれ、覚えてる? 小学校の時に鶏を持って屋上から飛ぼうとしてさ、面白かったよね~」

 脈絡なく始まった思い出話に、肩を揺らしながら姫は笑っている。

 りんく、ね。ああ……覚えているともさ。

 圭大、やつもまた、姫の玩具だった。その事件にしても、当時圭大が好きだった女の子のために綴ったラブレターをどういう訳か知っていたこいつが、圭大の目を盗んでかすめ取り、それをばらされたくなかったら何か面白いことをしろと強要したのだ。

 あのラブレターの中には、圭大が少ない語彙から一生懸命考え選びぬいた愛する叶芽(かなめ)への愛の詩が書かれていた。それを知った姫は、これをコピーして学校中に貼ろうとしやがった。すでに家には控えすらとっている用意周到ぶりだ。そこまで追い詰められた圭大の頭は完全にぶっ飛んでいた。

 当時、姫に同じように遊ばれていた俺と圭大は、よく二人で放課後互いの傷をなめ合っていたのだが、その日、いつもと同じように俺が教室で待っていると、引きつった笑顔を引っ提げて圭大が入ってきた。手にはなぜか飼育小屋から持ち出した鶏を携えて。

 状況が理解できない俺に、やつはことのいきさつを簡単に説明した。しながら、圭大は笑い、泣いていた。

 そして説明を終えると、圭大は走り出した。俺が止める間もなく。俺も少しの間足が動かなかったが、急いでその後を追った。場所は分かっていた。屋上だ。

 途中すれ違った先生を連れて俺は屋上への階段を駆け上がった。圭大は、屋上の扉の鍵をどうにか手に入れていたらしく、扉はすでに開いていた。

 まず俺が屋上に出て、あとに先生が続く。一番遠いところに、暴れる鶏を逃がさないようにしながら懸命にフェンスを登ろうとしている圭大がいた。

 今まで冗談半分でついてきていた先生は、それを見ると一瞬で青ざめ、一目散に圭大のもとへ走っていった。俺もそれに続く。

 先生によって後ろから羽交い絞めにされた圭大は、ずっと「お願いだから、お願いだから飛ばせて!」と、泣きながら叫んでいた。先生はそんな圭大を抱えたまま校舎の中へと戻っていき、あとに残ったのは俺と、圭大が空を飛ぶために利用しようとした鶏だけだった。

 そんな時、何処からか、無邪気な笑い声が聞こえてきて、俺は辺りを見回した。圭大が飛ぼうとしていたフェンスに近寄り下を見ると、そこにいたのだ。

 お腹を抱えて笑っている姫と、顔が引きつっている叶芽が。

 結果、圭大の愛の詩が全校生徒に知れ渡ることはなかったが、違った意味で圭大は一躍時の人となり、その時の状況から「りんく」という通り名がついた。

 もちろん、叶芽とのラブロマンスなど起こるはずがなかった。それどころかそれっきり一度も口をきいてくれなかったらしい。

 そんな圭大は、西側の中学校だった。そして卒業式では彼もまた、違った意味で涙を流していた。最後の別れの時、がっしり握った手を離してくれなかったのは、彼なりのSОSだったのだろう。

 「頑張れ」

 俺は、それしか言えなかった。

 「――ねえ! 話聞いてる?」

 姫の顔が目の前にあった。辺りを見渡すと、もう自分の教室の前に戻ってきていた。

 そう、ここは俺の教室だ。

 「……そう言えば、姫は何組?」

 「何組って……本気で言ってるの?」

 若干、怒っているような言い方だった。もしかしてと、一番あってほしくない脳裏をよぎる。

 「……まさか、クラスメイト、なんてこたぁないよね?」

 「何で? 嫌なの? もちろん嬉しいよね?」

 そう言いながら姫はクラスに入っていった。あとに続く俺は、まだ心にはかすかな希望を抱いている。しかし、教室に入った姫は迷うことなく確固たる足取りで窓側一番前の席まで行くと、誰に断わることなくすっと座りこちらに向かって手を振った姫を見て、その希望すら粉微塵となって吹き飛ばされてしまった。勘弁してくれ。

 俺は重たい足取りでもって自分の席にすわるやいなや、机の上に突っ伏した。

 「……おい、おい、お前もしかしてさっき一緒にいたのって……」

 西川が小さい声で囁いてくる。俺は顔を上げることなく答えた。

 「……そうだ」

 「うわ……マジか。それは、なんて言うか、あれだ……御馳走様?」

 「何を言わんとしているのかは分かったんだけれどな、この状況にその言葉を放ったなら俺の右手が火を噴いても文句は言えないぞ」

 「そう言うなよ。俺がいなかったらあの状況をどう打開するつもりだったんだ?」

 「け、恩着せがましいことを言いやがって。そもそもどうせ俺が屋上にいるだろうって言ったのはお前だろう」

 「……ま、まぁ?」

 「つーかなぜ姫がいることを言わなかった? そっちの方がよっぽどたちが悪いぞ」

 「だって……」

 西川が思案顔になる。言っていいのかどうかを迷っているようだ。ということは、何かを知っていると言うことだ。

 俺は語気を強めて先を促す。

 「『だって』なんだ?」

 俺の気迫に押されて――ではないだろう。恐らくやつの中でこれは言ってもいいという判断が下されたのだ。

 「……言うなって」

 「言うな? 誰が……姫か?」

 「うん」

 「……お前、まだあいつの支配下なのか?」

 憐れみもここまで来るともはや呆れになってくる。

 「仕方ないだろ……俺だって、『あれ』が無けりゃあ……」

 「……あぁ、うん、そうだな、悪かった。姫の件に関しては、うん、お互い仲良くやろう。いつだってそうしてきたもんな。……で、なんで姫はお前に黙っているように言ったんだ?」

 「さぁ、何も言ってなかった。だから俺はてっきりもうお前には構わないで高校生活を送るのかと思ってた」

 「はい? お前姫とずっと一緒にいたんだろうが。そんなこと、姫がするわけないだろ。あいつはいつだって俺たちのためにならないことを率先してやってくるやつだろうが」

 ずっと一緒にいたから、西川はもう頭のてっぺんから足の先まですっかり姫に調教されてしまったのではないだろうか、そんな心配から俺は西川の顔を見上げた。しかし西川の目は曇っていないようなので、精神をすっかり支配されているわけではいないんじゃないだろうかと思う。

 ただ、心はもやもやの霧に包まれているようだった。

 「いやな、俺あいつと一緒だったけどさ、中学校では一度も同じクラスになったことないのよ。だから詳しくは分からないんだけどさ……」

 「なんだよ、歯切れが悪いな。はっきり言えよ」

 「本当にただちょっと聞いただけなんだけどさ……どうも、うまくいってなかったみたい」

 「え……は、はぁ? それってあれか? いじめってことか?」

 あの姫がいじめにあっていた? 何の冗談だ。そんなことを信じろなんて到底難しい、この世に宇宙人がいないことを信じろと言っているようなもんだ。

 「ん~どうだろ、そこまでの事じゃないかもしれないけど。なんか友達もいなかったみたいで、皆からも無視されてるって」

 「あの、姫が、か?」

 「うん。実は俺中学時代は姫に何もされなかったんだ。だからお前のことで話しかけられた時も、数年ぶりに話したぐらいだよ」

 「あの姫が、か……」

 やはりぴんと来ない。いつだって人を弄んでいたあいつが、たった一人でひっそりと中学生活を送っていたなんて。

 昔いじめっ子だったやつが環境が変わり今度はいじめられるようになった、なんてのは多分何も珍しいことはない、何処でもあることなんだろうけれど、姫は違う。別にいじめっ子だったわけじゃない。確かに俺たちにはいじめに近い、いや当の本人たちにしたらそれ以上の行為を受けていたわけだが。それは姫にとっては別にいじめではなかった。むしろじゃれ合いに近いものだったのだ。ただ、俺たちみたいに気が弱いやつらは、毅然と立ち向かっていけなかっただけで、姫はいつだって対等に人と接し合いたいだけだった。だから俺たちも、いろんなことをされはしても、あいつを心から嫌いにはなれなかった……はずだ。

 「……そういやあいつ、いつも寂しそうだったよな」

 「え?」

 考えがつい言葉になって外に出てしまった。しかし幸い小さな声だったので西川には聞こえなかった。

 「いや、何でもない」

 姫は、誰と話すでもなく、席から一人外を見ていた。誰にも背を向けて。その背中が、やけに小さく見える距離感だった。

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