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未だ痛む背中と頭になんて構っていられない。俺は彼女を押しのけ素早く立ち上がるとそのまま走り出した。
「あっ!」
後ろで俺の名前を呼ぶ声がするが、振り返らない。昼食のパンを置いたままだが、構わない。
校舎に入ろうと、扉に手を伸ば――
「えいっ」
「がっ――」
……しかし、無情にも、扉は開かなかった。
正確には、扉を開こうとした瞬間、ラグビーのタックルよろしく、あいつが体ごと突っ込んできて、俺はまたもや地面に倒された。
もう……ダメだ……諦めて、地面のコンクリートと同化しよう――そう心に決めた。
のそのそと、女の子が俺の体に馬乗りになる。
「もう~なんで逃げるかなぁ。久しぶりに会えたんじゃん。もっと一緒にいようよ」
「…………」
俺は何も答えない。コンクリートに口はないのだ。
「あ~そうやって無視するんだ。さっきから全然こっち見ないし。またそうやって、私のこといじめるんだ~」
いじめる? どっちがだ。
「でも良いんだ、今日はそれでも。何せ今日の私は機嫌が良いからね。ね、どうしてだと思う? 分からないでしょ? 知りたい? ねえ知りたい? 気になるでしょ~」
ツンツンと、俺の胸辺りを人差し指でつつきながら言う。俺が反応する気などないと分かっているだろうに、それでも続ける。
……てゆーか、いつまでこのままなんだ?
ドッ。
「う――」
油断し弛緩した胸襟にふいに衝撃が走った。目前に頭頂部が見える。
両手でしっかり俺のワイシャツを掴みながら、女の子は額を俺の胸に押し付けていた。
「会いたかった」
小さく、かすれた声でそう言ったように聞こえた。しかし確信は持てない。
それほど小さな声で、聞き取り難い独り言だった。
ガチャ。
「あ」
今度ははっきり聞こえた。はっとして、その声のした方を見る。
そこにいたのは西川だった。
「……よ、よう。どうした」
状況的に一番「どうした?」なのは自分なのだけれど、それがとっさに口をついて出た言葉だった。
「い、いや……お前を探してたんだけど……お取込み中?」
「そ、そんなことは……」
だがまあ、西川で良かった。下手に知らない生徒やあの方々に見られていたなら――
「どうです? いらっしゃいますか?」
「ん? 誰かいるのか?」
「……え」
西川の後ろに、誰かいる。いや、誰かじゃない――二人がいる!
その声がした途端、西川の首が前後に忙しく動き始めた。何往復かして、西川が言った。
「やばい」
「ごまかせ」
「分かった」
西川は勢いよく扉を閉めた。それはきっと俺のためにじゃない、もしこの場面を見られた時、起きうる損害の規模が確実に自分を巻き込むものだろうことを直観で感じ取ったからだろう。
扉にはめられたすりガラスの向こうで、西川の手が忙しそうに動いているのが見える。きっと必死にごまかそうとしているのだろうが、あいつのごまかしなんて通じはしないだろう。
しかし時間稼ぎにはなる。その間にこの状況を打破だ。
「おい、おいこら、ちょっとまずい、ひとまず立ってくれいや立ってください」
俺は馬乗りになったまま動かない女の子の肩を揺らしてみるが、一向に立ち上がってくれる素振りを見せない。
もしかして寝ているんじゃないか?
「おい、おい!」
ダメだ、びくともしない……どうする、どうする? 落ち着け、落ち着いて考えろ。とりあえず何がまずい? いや全体的にまずいか。ならその全体を分割して考えろ俺。何かしら解決できるはずだ。まず……俺とこいつがさも抱き合っているかのようなこの状態がまずいが、それは今はちょっとどうしようもない。じゃあ次は……抱き合って横になっていることか。そうだ、こいつが立ち上がれなくても、俺がこいつを支えながら立ち上がることはできるんじゃないか。それから……とにかく隠れる。それしかない。
考えはまとまった。とりあえず上体を起こしてみる。女の子は全体重をかけているようで、なかなか重いがなんとか持ち上がった。じゃあ次、どうにかして立ち上がるのだけれど……
「……仕方ない!」
俺は女の子を抱きかかえ上に少し持ち上げた。そうすれば足が自由になる。
そしてそのまま自由になった足だけでどうにか立ち上がる。依然女の子はしっかりワイシャツに捕まったままだ。
「なぁおい! 頼むから歩いてくれ!」
しかし全く動かない。
いよいよ焦ってきた。今にも扉が開くのではないかと気が気でない。
もう――これしかない!
俺は女の子をしっかり抱き、持ち上げ、そのまま走った。
建物の陰に隠れる寸前、扉が開く音がした。
やばい……どうか気付かないでくれ……
荒れる呼吸を無理やりおさえ、息をひそめる。
耳を澄ますと、二人と西川の話し声が聞こえる。内容までは分からないが、どうやら俺たちの姿は見えていなかったようだ。少しの間言葉を交わし、そして二人の声が聞こえなくなる。
扉の閉まる音がする直前、
「じゃ~そろそろ教室に戻ろうか~」
と、西川がわざと大きな声で言った。お気遣いはありがたいが、それじゃわざとらしすぎてばれるだろうが。
建物の陰からちょっと顔を出し様子をうかがう。
……どうやら本当に言ってしまったようだ。
「――だあっ!」
声といっしょに盛大に息を吐き、吸う。本当に、生きた心地がしなかった。額から汗が噴き出ている。
ちくしょう、何でこんな目に。
「勘弁してくれ」
「……くっ」
「え?」
見下ろすと、何やらとっても楽しいことがあったご様子で、とびっきりの笑顔がそこにあった。
「……おい、何笑ってんだよ。そもそもお前のせいじゃないか」
「え~私のせい? 違うでしょ、夏依に、甲斐性が、ないからでしょ」
「いーやお前のせいだ。これだけじゃない、小学校の時だってそうだ。先生に怒られるのは大概お前のせいだった」
瞬間、女の子の目を見開いた。
「あ――今、『小学校』って言った? 言ったよね? 覚えててくれたの?」
「当たり前だ。忘れたくても忘れられないよ。あまりに鮮烈過ぎて遺伝子に刻み込まれて子々孫々まで受け継がれそうだ」
「にひひ。そうじゃなきゃやってた意味がない」
「お前、確信犯だったのか」
「そっか、覚えててくれたんだね……良かった」
そう言いながら俺の胸に顔をこすりつける。
あ……いい香りが……はっ! いけない!
「……なぁおい! いつまでくっついているつもりだよ?」
「ふっふっふ~そんなこと言って、本当は自分がくっついていたいんでしょ~。ほら、こんなにしっかり抱いちゃってさ、身体は正直だね」
「お前がくっついているんだろうが。見ろ、現に俺は今完全にお前から手を離しているだろうが。それにお前の目には見えていないだろうけれどね、俺はさっきからお前との間に薄い膜を張っているのだ。一見すると密着しているようだがその実違う。俺はお前を完全に隔絶しているのだ」
「う~なんかちょっと見ない間に生意気になった。小さい頃はすぐ『ご、ごめん、いやごめんなさい許してください足なめますからむしろなめさせて~』って懇願してきてたのに」
「どこの小学校に謝罪にかこつけて欲を満たそうとする小学生がいるんだよ! 勝手に都合のいいように改ざんするな。少なくとも幼少時代の俺にそのような性癖はなかった」
「私今日体育あったんだけどそれでもいい?」
「残念だろうが今もねえよ!」
「じゃあどんな?」
「いいからまず離れろ……いや、離れてください」
「しょうがないな、旧知の仲に免じて聞いてあげる」
トン――と俺の胸を押して、女の子は離れた。その勢いで建物の日陰から、日向に移動する。その白い肌が日光を反射させて、ちょっとまぶしい。改めて全身を見て、面影はあれど遥かに成長してしまった目の前の女の子に、少しだけノスタルジックになりかけた自分がいた。
「夏依!」
「……何でしょうか、姫」
その場で一回転して、にっと笑う。その笑顔だけは、まるであの頃からタイムトラベルをしてきたかのようだった。
「……おかえり!」
姫――姫瑠は、ちょっとだけ大人っぽくなっていた。




