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「1+1=1+1 ‐独りと独り-」


 六月――()無月(なづき)という二つ名を持つにしてはあまりにも雨多き季節。

けれど梅雨という二つ名には恥じぬぞと抗議するかのごとく空は大粒の露を降らしていて、俺達が歩くこの朝の風景を惜しげもなく六月色に染めている。

 このような天気の事を、俺の隣を歩く少女――何故か怪訝(けげん)な表情で――の言葉を借りるのであれば“涙脆い空”とでも表すのだろうか。


 初夏だといって差し支えのない頃ではあるのだが、今日はこの雨のおかげもあり涼しいどころか少々肌寒いぐらいである。


 「って、先生……肌寒いのは、この雨の中を傘もささずにずぶ濡れで歩いているからだと思いますよ?」


 隣を歩く少女が、透明なビニール傘越しからでも読み取れる程はっきりと怪訝な表情で俺にそう話しかける。


 「お前は水もしたたる良い男という語彙(ごい)を身につけるべきだ」

 怪訝顔の少女は濡れて肌に張り付く俺のスーツ姿に指を突きつけて「いくらなんでもしたたりすぎですよー、それはっ」と、口を尖らせて鋭く突っ込みをいれてくる。が、毎度の事なので軽く受け流す。


 「俺は暑いよりは寒い方が好きだからな。これで問題ない。それに傘は片手がふさがるから嫌いなんだ」

 「ふぇぇ、よりにもよって好き嫌いが理由なんですか? 一般常識に照らし合わせれば問題山積みですよ。きっと……」


 傘を傾け見上げてくる少女の表情は、いつの間にか呆れ顔に変わっていた。


 ここは閑静(かんせい)な住宅街――その静寂を嫌うかのように俺達二人は騒がしい。

 俺とその隣を歩く少女――この世界にはこの二人以外存在しないと錯覚してしまうような完成された静けさの中に在る――そのことを除けばおおむね普通の住宅街だと言ってもいい。

 その至る所に存在する住宅街を住宅街だと言わしめる住宅の群れは、どれ一つとって見ても頭にもれなく高級という形容詞をつけざるを得ない豪華な建物ばかりである。

 そんな高級住宅の群れの一つに目を向けてみれば、その豪邸に住むのであろう高給取りの人間達によって、昨日までは、それこそ雨の日も欠かさずに手入れを成されていたであろう紫陽花の花々が、百花(ひゃっか)繚乱(りょうらん)、狂ったように咲き乱れている。

 一つ一つ小さな花が群れて大きな一つの花を形成する様は、まさしくこの庭園の中で咲くに相応しいものだと妙に感心させられる。


 隣を歩く少女の透き通るような銀髪を、知って焦点を合わさずにぼやけさせたまま垣根に咲き狂う紫陽花の紫色と重ねては、六月の情緒を楽しみつつそんな住宅街を歩いていた。


 「……、ここは、そうです! 傘は一つしかないわけですから……って、先生? 僕の話、聞いてますか?」


 俺が耽美(たんび)な遊びに耽っている間にも、少女は何か必死に語りかけていたようであり、その話に聞き耳を立てていなかったことに、少々ご立腹のようす。


 ここは下手に言い訳するのも男らしくないだろう。彼女の目をまっすぐ見て謝罪する事にする。


 「いや、面倒だから一切合切聞いていなかったし聞く気もない。申し訳ないと思いここに遺憾(いかん)の意を表明する」

 「ふぇぇん、せめて聞く意志ぐらいはもってくださいよー! 先生がそんな政治家みたいに遺憾のイを表明するなら、僕は不満のフを表明します!」


 何が気に喰わなかったのか、ガーっと彼女がまくしたててくる。それにしてもこいつ……遺憾の意を何か勘違いしている気がしてならない。


 「わかった、わかったから傘を振り回すのはやめろ。聞く気が無いのはどうしようもないが、謝り方ぐらいは考慮及び譲歩しようじゃないか。で、お前はどんな謝罪をご所望なんだよ?」

 「……とりあえず僕の話を聞いてもらえないのは決定事項ですか、そうですか。僕としては一番そこを直して欲しいわけですけど…………。それはともかくです、謝罪ってのは、もっと気持ちを込めてするべきです」

 「具体的にはどんな?」

 「えぇぇっと…………ジェントルメンな気持ち?」


 ジェントルメン……紳士的に? いや、こいつの事だから紳士と真摯(しんし)とを勘違いしている可能性のほうが高い。こいつの天然と言葉の乱れは相変わらずといったところだろうか。


 「善処する」

 「結局、政治家の答弁みたいじゃないですか……」


 こんなくだらないやりとりを繰り返していてはいつまでたっても話が進まない。無理やり話しを捻じ曲げる。


 「それにしても、俺が雨に濡れて歩いていると、お前に何か迷惑がかかることがあるのか?」


 濡れて垂れ落ちる髪をかきあげながら、素朴な疑問をぶつけてみる。


 「だって、僕が傘をさしているのに、先生だけずぶ濡れで歩いているなんて……他の人に見られたりなんかしたら異常な光景に写るじゃないですか。異常ってのは日常じゃないってことですよ? 恥ずべきことです。だからデスね、ここはいっそ一つの傘の中に二人で――」


 「――此処(ここ)に人間などいやしない」


 何故か顔を赤らめて喋りだしていた少女の言葉を最後まで聞くことなくそう話を切り伏せる。

 そうだ、此処から半径5キロメートル、人間は人っ子一人存在していない。

――俺達二人を含めても(・・・・・・・・・)、だ。


 「此処から人間がいなくなった。だから俺達半端者(リリック)が此処にいる。そうだろう、逃走(チキン)本能(ハート)?」


 俺に、二つ名であり現時点では唯一の名前を呼ばれることにより今回の事件が擬態者(ミミック)絡みだということをようやく再認識できたのか、彼女は一瞬言葉を詰まらせた。

 しかし、彼女にとってみても擬態者絡みの事件に遭遇するのはこれで6度目だ。少しは慣れてきたのだろう、逃走本能と呼ばれた少女はすぐに気を取り直したようだ。


 「うぅ……、確かに雨の事を差し引いても……通りに人を見かけないどころか、家の中にすら人の気配がしないですよね……。僕たちが出張(でば)っているのだから普通の人間相手じゃないのは判りますが、一体ここで何があったんですか?」


 この臆病者(チキン)な少女は恐々(こわごわ)といった様子で、本当に聞きたいのか、本当は聞きたくないのか判断に迷う微妙な表情でそう訊いてきて、そこで初めて気がついた。


 「そうか、お前にはまだ今回の事件の詳細は話していなかったな」

 「そうですっ、そうですよー! 先生。あのいけすかない(めん)(どり)から電話がきたと思ったら、この雨の中、傘もささずに飛び出しちゃうんですもの」


 いけすかない雌鳥と言うのは、きっと毒舌家(コッカトリス)のことだろう。

 以前は敵同士だったが、色々あって今は仲間――とまではいかないものの、敵の敵は味方という程度の協力関係にはある。

 だけど、臆病者にとっては敵の敵は天敵だったようであり、何故か彼女に対して以前よりも強い敵対心を燃やしている。

 ……鳥は鳥同士仲良くやっていただきたいものである。


 そんなわけで、確かに微妙な関係ではあるものの、毒舌家と呼ばれる彼女とは、ある共通の目的の為に、役割分担をして共同戦線を張っているのが現状である。

で、その役割として彼女には今回のような人外である擬態者(ミミック)たちが引き起こす事件の情報収集を担当してもらっているのだ。

 本来、彼女が持つ説得術(レトリック)は非常に戦闘向きであり俺達二人よりよっぽど前線向きではあるのだが、それ故に一切の手加減が効かない尖鋭的(ピーキー)なものであり被害を最小限に抑える為には裏方に徹さざるをえない。

 ……それに、この俺の隣を歩く逃走本能と毒舌家を一緒に行動させるとお互い反発し続けて非常に作業効率が悪くなる、というか俺のストレスが爆発的に増加するというのが一番の理由だということは秘密にしておいたほうがいいだろう。

 そんな彼女から受けた電話での情報を思い出しながら、それを隣にいる少女に面倒だと思いつつも淡々と説明をする。


 「まずは今回の事件の結果から話すとするならば、たった一人の擬態者(ミミック)によって、たった一晩でこの当たり半径5キロメートルに存在した人間全てが……根こそぎ殺された」


 俺の開口(かいこう)一番(いちばん)、臆病者は閉口(へいこう)することとなった。


 「犠牲になった人間の詳細な数も毒舌家(コッカトリス)から聞いてはいるが……聞きたいか?」


 少し意地悪が過ぎるかとは思いつつも、そんな底意地の悪い質問を少女に投げかける。

 もちろんその質問に対する答えは予定(よてい)調和(ちょうわ)であり、彼女は必要以上に必死で首を横にふっている。

 そんな臆病者の様子に、俺は満足して説明を続けることにした。


 「事件と言うよりは、被害者数だけみれば災害だと謳っても良さそうな規模なのだが、災害と称するには一つだけどうしてもひっかかる点がある」

 「……それはどういう事ですか?」


 降り注ぐ雨を受け止めるように大きく両手を広げ、ゆっくりと周りの家屋一つ一つに目を向けた。

 その俺の視線を追うように彼女の大きめの目もまた、傘の下からではあるが周りをゆっくりと見渡していく。


 「これだけ広範囲に大量の人間が死んだにも関わらず、人間以外の破壊の痕跡(こんせき)が一切無いんだよ」

 「あ…………」

 「大量の人間を殺す事だけを目的とするならば、一人一人順番に殺してまわるよりも、この街丸ごと全部を焼き払うほどの火力をもって実行するほうが、よっぽど事は簡単だ」

 「た、確かに……」


 今回の事件の異常性を物語るように、寸分の狂いもなく咲き乱れる紫陽花の花に目を向けながら、


 「だが実際の犯行は、一軒、一軒、丁寧に、行儀良く、それでいて抜かりなく、完全に、それこそこの街全ての人間の顔、行動、性格、地位、関係を、何もかも、全てを総て知りつくしていたかのように、人間だけを、それこそ紫陽花の花ビラ一つ落とすことなく、一人、一人、刺殺し、絞殺し、轢殺し、焼殺し、毒殺し、撲殺し、銃殺し、抹殺し、圧殺し、黙殺し、斬殺し、虐殺し尽くして、昨日まで人間であったものを、行方不明者一人出すことなく、死体と、遺体と、骸と、躯と、骨と、肉と、皮と、血に作り変えた。これは紛れもなく天災などではなく、もちろん人災などでもなく、人で在らざる者、擬態者(ミミック)の仕業に間違いなどありはしない」


 その事件のありさまを俺は朗々と謡い、彼女は押し黙る。


 「今回の事件の犯人であるその擬態者(ミミック)に対して、境界協会(ボーダーズ)の奴らは名刺にこう記したようだ――――『根絶』と」

 「……こ、根絶……ですか……」


 彼女は擬態者の二つ名をなぞるように呟く。そこでその違和感に気付いたようであり「ふぇぇぇ?」と首を傾げながら疑問の声をあげた。


 「こ、今回の事件で……名前が付けられたってことは?」

 「お前の予想通りだよ、逃走(チキン)本能(ハート)。今までその二つ名は存在しなかった――――つまりは、この一区画丸まる全ての人間という人間を根絶し尽くした張本人は……これが初めての説得術(レトリック)の行使だったということだ」

 「ぜ、絶句しました……」


 絶句したと口に出している時点で実際は絶句していないけどな――と突っ込みかけたが話が脱線する可能性が高くなるので自重(じちょう)することにする。


 「それにしても初めての説得術(レトリック)ってことは、その犯人は擬態化(ぎたいか)したばかりという事ですよね?」


 首肯をもってその問いにこたえる。


 「擬態者(ミミック)に成って、そう長い間人間社会に溶け込んでいられたとは思わんからな。たぶん、擬態化して長くても2,3週間ってところだろう」


 そう言ってからすぐに例外を一つ思い出してしまったのだが、話がややこしくなるので今回は思考の外へと追い出した。

 「そんな擬態化したばかりで、それ程の広範囲且つピンポイントに人間だけを大量に、それもたった一晩なんかで『根絶』しえるものなのでしょうか? そんな能力、今まで聞いたことありませんけど……」


 彼女が抱く疑問は当然のものであろう。その部分は俺も気になっている点である。

 枠内で考えるのであれば、ルビすら打たれていないような未完成な説得術にそれほど大きく世界を変える力が発動できたとは考えにくい――


 「しかし……実際に『根絶』されてしまったからには可能だとしか言い様が無い。だが、そうかと言って犯人がどんな魔法の言葉を(つむ)いでこの不可解な事件を可能にしたのかまでは、俺にも解りかねるがね。まぁ、それでも一つ解る事があるとするならば……」


 間を置いた俺の言葉に、少女の喉が息を呑む音を鳴らす。


 「根絶の説得術(レトリック)は、埒外(らちがい)な能力だってことだ」


 その言葉の意図するところを理解したのであろう。チキンハートの名前に相応しくこの少女は普段から少々困り気味な表情をしているのだが、さらにその表情を大きく曇らせて彼女は悲痛な声をあげる。


 「ら、拉致街ですか! ふぇぇ……そうかー、このあたりの人間全て北の国の人達にさらわれちゃったわけですね……怖いなー」


 ……前言撤回。言葉の意図どころか、言葉の意味すら理解していなかった。


 「拉致じゃない……行方不明者一人出さずに全部殺されたって説明しただろうが。埒外だ、埒外」


 こいつの発言も埒外だ。


 「珍しいですー、先生も間違う事あるんですね?」

 「……間違い、じゃないぞ。埒外だ、ら・ち・が・い! ってか、お前が間違っているぞ」

 「キチガイですか?」


 ……さっきから色々とギリギリな発言をする奴だ。


 「もうそれでいい……犯人の気が触れているのには間違いはないだろうしな」

面倒なので埒外という言葉をこいつに理解させるのを諦めてそう呟いた。

 「あれれ、本当に気が触れちゃってるんですか? ふぇぇ、怖いなー」


 こいつ解っていて間違えてやがるな……俺はそんなお前のほうが怖い。その多少緩んでしまった空気を一際きつく締めるように言葉を紡ぎ出す。


 「お前も半分成ったんだ……解るだろう? 擬態者(ミミック)になるって意味が」

 「………………」


 彼女は押し黙る。きっと半年前の自分を思い出しているのだろう。そうして、ゆっくりとその言葉の意味をかみ締めるように小さく頷いた。

 傘の下で沈んだ彼女の表情を見つつも俺は言葉を繋ぐ。


 「気が触れて、あの樹に触れて、否応なしに世界の有様を理解してしまう……そうやって世界を(だま)す言葉を手に入れて……ズルをすることを覚えてしまうんだ」

 「……ズル……ですか?」

 「そうだ。世界の在り方を己の都合の良いように解釈して、手前勝手(てまえかって)な考えを世界に押し付けルールを捻じ曲げる。利己的な理論と論理を持って摂理(せつり)さえも騙しきる。それが説得術(レトリック)の存在する意味であり意義でもある。もちろん、俺が紡ぐ言葉遊び(リリック)や、お前が叫ぶ逃走(チキン)本能(ハート)も同じ世界樹(ワード)から成る能力だ。力の大小に違いはあるが、ズルをしているという点において変わりはない」


 そんな俺の言葉に気を落としてか、臆病者は傘の下に身を隠すように潜り込んでしまった。己が人で在らざる者に成ったという事が改めてどういうことなのか再認識したのだろう。普段から垂れがちな目頭が多少濡れてきているのは、けっして雨のせいではないはずだ。

 必要な事だとはいえ、これ以上追い込むと逃走本能を発動させて逃げ出しかねないので、話の流れを少しだけ変えることにした。


 「とりあえずそんな危ない奴を野放しにはできないからな。次の『根絶』を引き起こされる前に、俺達でなんとかして捕まえる。それに、お前を元の人間に戻す説得術(レトリック)を探すには、擬態者(ミミック)達を片っ端から当たるしかないからな」

 「うっ、うぅぅ、確かに早く人間に戻りたいですけど……。で、でも……、そんな危険極まりない上に、説得術(レトリック)の正体さえわからないだなんて……そんな相手、僕たちだけで何とかなるんですか?」


 この臆病な少女の問には答えることなく、無言で彼女の短く揃えられた綺麗な銀髪をすくようにして頭をグリグリと撫でる。


 「わわわ、ちょっと、先生? ふぇぇぇ……」


 相変わらずの臆病ぶりだが、こいつの場合はこれでいい。こうなるように俺がわざわざ不安を(あお)ったのだから。

 少なくても危険だと認識さえしていれば、皮肉なことではあるけれど、人外の象徴である逃走(チキン)本能(ハート)の説得術のおかげでこいつに危害が及ぶ可能性は低いだろう。


 逃走(チキン)本能(ハート)――自身に降りかかるあらゆる危険、恐怖、苦痛、困難、焦燥、不安から、森羅万象万物万事の理念と摂理を捻じ曲げ伏せて、全速全力威風正々堂々と肩で風を切るが如く王道ならざる道をひたすら武者羅に“逃げる”能力だ。


 発動さえしてしまえば相手の能力がどれほど強力であろうと、いや強力であればあるほどこいつの逃走本能を刺激する。

 一旦そうなってしまえば、どのような奴が相手だろうと危害を加えるどころか指一本触れることすら難しいだろう。

このように守りの能力としては非常に優秀な説得術である――のだが、いかんせん発動者自身の問題も含めて弱点が多い。

 例えば、こいつ自身が対象を危険と認識できない場合や、自身に直接危害が及ばない場合など能力は発動すらしない。

 さらにこいつは説得術を噛むことにより能力発動を失敗したという史上マレに見る情けない前科持ちだ。

 少なくてもそんな奴は言葉を力の源とする俺達人外の間では見た事も聞いたこともない。

 ……まぁ、最近は(カツ)(ゼツ)を良くする為の練習もさせているし、そのあたりの弱点は俺が隣にいる限りほとんど問題ないと言っても良いのだが。


 「冷たっ、先生の手、雨で濡れてて冷たいですよー……」


 それに、今回の事件の事は毒舌家に引き続き情報を集めてもらっている。あのツンデレちゃんは、口は悪いが情報収集能力の高さは本物だ。

 そろそろ今回の事件の詳しい情報も手に入れる頃だろう。事の詳細がわかれば相手の説得術の謎も解ける。そうなれば今回のこの事件は解決したのも同然だ――――俺の言葉遊び(リリック)はそういう能力(・・・・・・)なのだから。


 「ガウウゥゥゥッ!」


 右手に激痛が走る!


 「――――――――っ!」


 あまりの痛さに悲鳴が声にすら成らない。

 思慮の渦から抜け出して、激痛の発信源に目をやれば臆病者の少女が食いついていた。


 「クッ、餌もつけていないのに勝手に釣れるなっ! お前はブラックバスかっ?」


 噛まれていないほうの手で臆病者の頭を掴み、なんとか虎バサミのように食いついた彼女の口から脱出する。


 「クッ……お前……最近、台詞を噛まなくなってきたと思ったら、今度は物に噛み付く癖がでてきやがったな」


 噛まれた手の甲を見てみれば、血は出でていないもののクッキリと臆病者の小さな歯型がついていた。


 「先生がいつまでも乙女の大事な御髪に触っているのが悪いんです!」


 その白い顔を精一杯赤く上気させつつ、傘をまわして俺に向け雫を飛ばすという地味な嫌がらせを開始した。


 「ガウゥゥゥ――――先生のせいで髪の毛びしょびしょじゃないですかっ」


 何か小動物じみた威嚇音(いかくおん)まで上げている。とんだ野生児だ。


 「ええい、くそっ、面倒くさい。死にたくなかったら、心乱さず怯えていろっ!」


 いちいちなだめるのも面倒なので、そう一括する。その勢いにのまれてか「ふぇい」と少女は情けない返事を返した。


 「ウゥぅぅ……心乱さず……怯えていろ、って……間違いじゃないんでしょうけど…………いかにも先生らしい言い草というかなんというか……」


 なんだかブツブツと呟きだしたのが気にはなるが、とりあえず俺に対する嫌がらせが止んだので構わない事にする。

 「やれやれ」と、噛まれた手をぶらりと軽く振り異常が無いかを確かめる。痛みさえ我慢すれば、特に問題はないようである。


 こいつとの馬鹿騒ぎで今まで気付かなかったが、どうやらそろそろ目的地が近いようだ。

 今回の目的地――この半径5キロメートルにも及ぶ未曾有の大災害『根絶』の中心地である。

 この事件は、その目的地を中心として実際にコンパスか何かで図ったように綺麗な円で囲まれた範囲で起こっているのだ。その場所で説得術が行使(こうし)されたとみてほぼ間違いないだろう。

 今現在、犯人である擬態者の行方がわからない以上、その現場で何らかの痕跡(こんせき)を探り足跡を辿るしかない。

 楽観的に考えるのであれば、この街の外での犯人の目撃情報は無いようであるし、まだその場所にとどまっている可能性だってそう低くはないだろう。


 「せんせーい。気になっていること事があるんですけど、質問してもいいですか?」


 いつの間にか思慮(しりょ)(うず)から脱出した臆病者が、片手を挙げて俺に問いかける。

 いつもこの構図だ――こいつが質問者で、俺が回答者。だからこそ、こいつにとって俺は先生なのだろうが。


 「訊いてみろ、面倒だが答えられることならお前に答えをくれてやる」


 律儀に挙げていた手を下ろし、生徒よろしく彼女は質問を開始した。


 「今回は何故、境界協会(ボーダーズ)詭弁者組織(トリック)のような擬態者狩りの人達は介入してこないんでしょうかね?」


 驚天動地、この天然君にしては中々に的を射た質問だ。


 「確かに……これだけ大きな事件なら、奴らが本格的に場の制圧に来ていてもおかしくないはず……なのに、今回の事件に限って奴らの干渉といえば、精々、被害者の遺体回収と、境界線(ボーダーライン)設置による現場の隔離(かくり)作業ぐらいのものだからな」

 「境界線(ボーダーライン)って…………あの境界協会(ボーダーズ)が使ってる “立入リヲ一切禁ズル” て黒字で書かれた黄色いテープですよね? 確かに今回もこの街に足を踏み入れるときにもぐるりとくまなく張られていましたねー。……でも、いつも僕達気にせずビリビリ破いて入ってきちゃってますけど……あれ、何か意味あるんですか?」

 「意味ってお前…………あれは一種の結界だぞ。あれに囲まれた空間にはよっぽど意思が強くないかぎり普通の人間なら近づくことさえできない。まぁ、俺は一応これでも世界樹(ワード)の言葉を紡ぐ者の端くれだからな。人間が創ったあの程度の結界は通用しないがね」


 臆病者はいつも通り「ふぇぇー」と、目を丸く口を三角にして感心したようにしきりに頷いている。

 それにしても、こいつ……今までそんな事さえ知らずにあの結界を平気でビリビリ破っていたのか――――もしもこいつが普通の人間だったとしても、関係なくあの結界を破って現場へ入っていきそうだな。天然は怖い――いや、天然は怖いもの知らずだというべきか。


 「話がそれちゃいましたね。結局人間側の勢力がこの事件に介入してこない理由はなんなんなんですか?」

「なんが多い」


 できるだけ自然に話を別のところへ誘導しようとしていたのに……いちいちしち面倒くさい奴だ。


 「さあな。結局のところ、今の俺には明確な理由は知りえない。これは推測(すいそく)憶測(おくそく)でしかないが、根絶の説得術(レトリック)は大人数を相手する事を想定した能力みたいだからな。そういうところを踏まえれば、組織で動くあいつらにとっては活動を慎重にならざるを得ない事にも納得がいく」

「ふぇぇぇ、それほど相手が危険というわけですよね……うぅぅ……や、やっぱり僕たちも今からでも遅くはありませんよ。ねっ、先生、今すぐ帰りませんか? そうしませんか? いや帰りましょう、是非そうしましょう」


 こいつの思考は結局そこに行き着くわけか。油断されているのも困るが、こうも逃げ腰過ぎるのも問題があるな。

 このままだと犯人と接触するまえに、気付いたら俺一人になっている可能性もある。

 戦いの最中に逃げるのは一向に構わないが、戦う前から逃げられるのは問題だ。

――こいつは全ての物語に関わらなければならない。


 「大丈夫だ。言っただろう? 恐らく『根絶』は大人数を相手にする能力だって。俺達半端者(リリック)はどうあがいても独りと独り、二人になりえない世界最小のコミュニティだ。そんな能力に臆することはない。それに、どんな奴が相手だとしても、俺のやる気とお前の行動力があれば何とでも為る」


 できるだけ気楽さを装ってそんな言葉を吐いてみせた。

 にもかかわらず、その言葉に対して臆病者は安心するどころか疑惑の眼差しを俺に向け「先生のやる気と、僕の行動力って……この半年間一緒にいて、そんなのどちらも垣間見た事すらないですよー」とぼやき出すしまつ。

 そこはかとなく失礼な奴め。


 「何を云うか。俺達には政治家並のやる気と行動力が備わっているじゃないか」

 「……そんなのまったく無いのと一緒じゃないですか」


 ………………。政治家よ……お前等、何故こいつの中でこんなに株が低いんだ? 記憶を失う前に、政治家に対して何か嫌なことでもあったのだろうか? 記憶が戻ったならば是非一度そのあたりを訊いてみたいところだ。

 しかし、軽い馬鹿話をしたおかげで幾分臆病者の不安も紛れたようであり、いつもの調子で話し出す。


 「そういえば、先生。いい加減、傘に入りましょうよー。そのままだとしまいに風邪引い――」


 が、事態は彼女の話を最後まで言い終える事を許さなかった。

「――――――――ッ!」


 空気と、雨が、爆ぜたかのような衝撃。

 目の前の紫陽花から躍り出る人影。

 手には雨露(あめつゆ)に濡れて(きらめ)く刃物。

 脇目も振らずに、一直線に俺達の元へ駆ける。

 その動きのあまりの速さに水しぶきが激しく舞い踊る。

 まるで下から上へと降る雨のよう。

 臆病者は片手に持った傘が邪魔で、その人影への対応が一瞬遅れた。

 だが――俺は傘など差していない(・・・・・・・・・・・)。

 動揺する臆病者を素早く背中へかばう。

 立ち塞がるようにして、突っ込んでくる人影と対峙する。

 相手の素早い動きを、一つ一つ目で追うのではなく、

 焦点をぼかすようにして全体の動きを察知し、

 空いている両腕を使い、腰溜めに構えられた刃物を冷静に叩き落とす。

 雨の中、高らかに響く鈍い打撃音と澄んだ金属音。

 その落とされた刃物を拾おうする素振りすら見せず、人影は先ほどよりさらに素 早い動きで間合いを離す。


 一瞬の静寂が場を包む。


 聞こえるのは雨の音だけ。


 その厳かなる沈黙を破ったのは俺達を襲った人影だった。


 「貴方が言葉遊び(リリック)さんですね? ごきげんようではじめまして――ワタクシは、ひとよんで『根絶』と申します」


 優雅にスカートの裾をたくし上げ華麗に挨拶をする女性。

 その洗練された動きも服装もまさにお嬢様然としたものであり、次の一言でダンスのお誘いがきてもおかしくない物腰である。


 「――――ご一緒に踊りませんか?」


 ……いや、おかしくないどころか実際に誘われていた。


 「断る。生憎と俺にはこんな雨の中でワルツを踊る趣味は無い」

 「残念です。こんなに良いお天気でしたのに」

 『根絶』を名乗る女性は「ちぇっ」と少し()ねた表情を作る。

 その美しい顔立ちには若干の幼さを残しており、年のころは俺の背中で怯えている臆病者より一つ、二つ上といったところだろうか。

 しかし、臆病者とこの少女を並べてみれば、その身長及び体格差のせいで実際もう少し歳は離れてみえるかもしれない――が、それは臆病者が平均より幾分小さいだけであり、彼女が平均よりずば抜けて大きいわけではない。

 まぁ、胸のあたりだけを比べるのであれば、二人とも似た者同士ではあるのだが――根絶、か。……あ、いや、深い意味は無いのだけれど。


 そんな彼女は、どこからともなく取り出した白い傘(それも必要以上に装飾過多の)を差しながら、雨が楽しくて仕方がない子供のように無邪気な笑顔を浮かべている

 見た目で一際目を引くところと言えば、まるで紫陽花のように美しく――それでいて毒々しい紫色をした髪の毛だ。

 おそらくは人間時代から染めていたわけではなく、逃走本能と同じように、擬態化が原因で変色したものだろう。髪に対して強い執着を持つ女性擬態者では、わりと多く見られる現象だ。 

 当人はその肩まで伸ばした紫色の(つや)やかな髪を、濡れてしまったのを気にしてか、片手で柔らかくかきあげている。

 その髪の事さえ除いてしまうなら一切普通の人間と区別がつかない――それこそが、この人の形をした化け物が擬態者と呼ばれる由縁であるのだが。

 そうだ、この一見普通のお嬢様にしか見えないこいつが……半径5キロメートルにも及ぶ大虐殺を犯した張本人だ。

 しかし、だからと言ってすぐさまこいつに事を仕掛けるのはあまり得策とは云えないだろう。

 未だに相手の説得術の正体が判明していないのだ。

 いつも通りに意味無き言葉を紡げるだけ紡いで、時間を稼げるだけ稼ぐとしよう。


 「それにしても――まさかこれだけの大虐殺を手にかけた曲者が、何の捻りもなく真っ直ぐ飛び出してくるとはね」

 「申し訳御座いません。ワタクシももう少しエレガントな登場を望んでいたのですけれど……貴方が見知らぬ女の方と楽しそうにお喋りされているのが目に入ったものでして……つい、カッっとなって殺っちゃいそうになりました」


 極上の笑顔で「エヘヘ」と、『根絶』を名乗る少女はそんな物騒極まりない事をこともなげに言ってのけた。

 言動はともかくとして、昨晩にあれほどの人間を自らの手で始末した者とは到底思えぬそのあどけない表情に、背筋に嫌な冷たさがよぎる。

 こいつの狂気は思った以上に根が深そうだ。あまりお相手したくないタイプである。


 「言葉遊び(リリック)さん、先ほどから一つ気になって仕方がない事がありますの。いきなりで不躾(ぶしつけ)ですけれど、お一つ質問させて頂いても宜しいでしょうか?」


 何故誰もが俺に対しては質問者の役を演じるのか……俺は俺に対して自問自答するべきなのかもしれない。


 「……本来お前ら擬態者(ミミック)なんぞに答えをくれてやる道理は無いのだが――今回だけサービスだ。面倒だが答えられることならお前に答えをくれてやる」


 「サービス精神旺盛で素敵ですわ」


 彼女は、若干頬を赤らめつつも最上級の笑顔を浮かべていた。


 「貴方、白いカッターシャツが濡れてらっしゃるせいでお肌が透けて見えていますけれど……それはワタクシに対してのご褒美でしょうか? それとも何かのご奉仕ですか? 出血大サービスすぎて鼻血がでてしまいそうです」


 「……いや、もう出ているぞ……鼻血……」


 本日何度目になる前言撤だろうか? 実際のところ史上最悪の笑顔だったようだ。

 ともかく命とはまた別の身の危険を感じるので、無言でスーツの前のボタンを素早く止めて、カッターシャツの見える範囲を出来うる限り少なくした。本当に色んな意味でお相手したくない相手だ。


 「あらまぁ、隠してしまわれるのですね。残念です……」


 彼女は人差し指を唇に軽く当てながら、「むぅぅぅ」と心底残念そうに唸っている。


 「……サービス精神はまだお残りになっていますか? できればおかわりを頂きたいのですけれど」

 「――その胸元への凝視をやめてくれるなら考えよう」

 「大丈夫ですわ。今度は先ほどのような冗談ではなく、真面目なお話です」


 俺にはその視線が冗談のようには決して見えないのだが……流れ的には触れないほうが無難だろう。


 「貴方の背中に隠れていらっしゃる……その女の方は――」


 そう云って『根絶』を名乗る女性は笑顔を崩さずに俺の背中を覗くようにして、逃走本能の姿を視界の中に捉える。

 そして、


 「――目障りだから殺しますっ!」


 と満面の殺意をもって言い放つと同時に傘を仕舞い、再び俺の元へ、いや俺の背中の臆病者目掛けて駆け出した。


 「――逃走(チキン)本能(ハート)ッ――」


 突如向けられた恐ろしいまでの殺意に一歩も動けず今にも泣き出しそうな臆病者は、「ふぇぇん」と鳴き声なのか返事なのか奇妙な声をあげる。


 「包丁を拾って、この場から全力逃走(・・・・)だっ!」


 その命令を合図に逃走本能は手にした傘を捨て、代わりに足元に落ちていた包丁を拾い上げる。


 「本能が命じるままに来世の先まで逃げきりますー!」


 彼女はそう叫ぶや否や、

 いっそ風格すら感じさせる程に、

 一片の躊躇(ちゅうちょ)すら見せず、

 迫り来る相手に背中を見せつけるかのようにして、

 凄まじい加速力を持って、

 それこそ脱兎の如く逃げ出した。


 逃げる事こそが彼女の真髄(しんずい)――他の追随(ついずい)を一切許しはしない。


 残るのは爆音と凄まじい水飛沫のみ。

 『根絶』を名乗る少女が俺の元へ辿りついた頃には、すでに逃走本能のその後ろ姿すら見えなくなっていた。


 「うむ、よっぽど怖かったんだな。いつも以上の逃げ足の速さだ」


 腕を組んで感心する俺の隣では、一人のお嬢様がそのあまりの出来事に呆然と立ち呆けていた。

 どうやら向けた殺意をどこに仕舞えば良いのかを悩んでいるようだ。

それも仕方がないだろう。

 何せ昨夜は、この周辺全ての人間という人間を誰一人狙った者は逃す事なく根絶し尽くしたのだ。

 まさか狙いをつけた相手に、これほど呆気なく、そして容易く逃げられるとは思ってもみなかったのであろう。


 「……貴方達、なにかパーティの編成がおかしくありませんかしら?」


 再びどこからか取り出した傘を優雅に差しながら――ようやく殺意を己の内側に仕舞う事ができたのか、彼女はそんな事を訊いてくる。


 「たしかに逃走本能の奴はどう贔屓目(ひいきめ)に見ても普通だとは云い難いが、それに俺も含まれるとなると異論を唱えたくなるな」

 「逃げるだけの説得術(レトリック)に……先ほどからワタクシの説得術(レトリック)を受け流しているだけ(・・)の貴方の説得術(レトリック)……どちらもまったくもって攻撃力が皆無ではありませんか」


 よほど彼女には納得いかない事なのであろう。その秀麗(しゅうれい)眉目(びもく)を下げるようにして困惑の表情を作っている。


 「どうやらお前とは根本的に考え方が違うようだが……。それでもあえて言うならば、お前は勝てない戦はしない主義で――俺達は負ける戦をしない主義だと云うだけだ」


 その答えを噛み砕き租借するかのように聞いていたかと思うと、おもむろに彼女は話し出した。


 「……なるほど。貴方は某RPGなどでは4人とも全員僧侶でパーティを組んでしまわれるタイプと云うことですね」


 ……彼女の中でよく解らない結論に達してしまったようだ。評価できる点があるとすれば、勇者がパーティに含まれていない部分だけだろうか。


 「その例えで行くのなら、どちらかと言えば4人とも遊び人でパーティを組んで、一生酒場で遊んで暮らすタイプだな」

 「ふふふ、城の外に出なければレベルが上がりませんわよ。その様な事ではいつまで経っても賢者には成れませんわ」

 「賢者を(かた)るような愚者に成り下がるなどそれこそ願い下げだ。それに、曲者のお前にそんな事を言われたくはない」

 「あら、曲者のワタクシと擬者(まがいもの)の貴方……とっても相性が良さそうで素敵です。素敵(すてき)滅法(めっぽう)ですわ」


 彼女は満面の笑顔を浮かべつつ頬を赤く染めた。だけど、その表情はすぐに曇る。


 「しかし……歩が落ちませんわ」


 ……いつの間に将棋の話に変わった? 腑に落ちない、の間違いだろうか? 何故俺のまわりにはこうも言葉の使い方がおかしい奴らが集まるのだろうか。

 そんなこちらの心中を察することなく彼女は言葉を続けてくる。


 「ワタクシは、貴方達が擬態者(ミミック)を無差別に消して廻っていると聞いていたのですけれど……お二人の能力を見ている限り、どうやってワタクシ達のように限りなく不死に近い擬態者(ミミック)を殺せるのか皆目見当見当たりませんわ」


 どうやら逃走本能を人間に戻す為の行動が、周りではそう噂されているようだ。

 その噂を誰に聞いたのか――こちらは(おおむ)ね見当がつく。


 「残念ながら、サービス期間は終了だ。お前のその質問に答えをくれてやるほど俺は人間が出来ていないのでね」

 「ふふふ、確かに人間では御座いませんものね――かといって、ワタクシ達のように擬態者(ミミック)でも在られないようですけど」


 彼女は自分の言ったその台詞がよほど気にいったのか、何度も反芻(はんすう)しては「ふふふ」と微笑んでいる。


 「――さて、貴方との楽しいご歓談(かんだん)をもう少し続けていたかったのですが……ワタクシはワタクシの恋路を邪魔する目障りなあの娘を『根絶』しなければなりません」


 彼女の表情は先ほどと変わらずに笑顔を保ってはいるのだけれども――すでにその笑顔の裏に潜む狂気を隠しきれてはいなかった。

 その狂気の矛先にこちらも目線をやってみれば――何時の間に戻ってきていたのか、臆病者の少女が垣根の花に隠れるようにしてこちらの様子を窺っていた。

 そんな俺達の視線に気付いたのか「ふぇぇぇぇーん……見つかっちゃいましたー……」と泣きながら逃走本能は凄い勢いでまたこの場から逃げだした。

 ……あいつは一体何がしたいんだ?


 「それでは、言葉遊び(リリック)さん。ごきげんようでさようなら――また後程お会いいたしましょう」


 彼女は笑顔で俺に手を振りながら、颯爽(さっそう)と逃走本能が逃げた方向へとスキップをするように走り去っていく。

 俺はその姿を目で追いかけながらも、身体は一切追う事をしなかった。

 もしも、万が一捕まったとしたら……あの狂ったお姫様は一体どんな根絶を披露(ひろう)するのだろうか。

 昨夜にあれだけの人間を根絶し尽くした力を、たった一人に全てを注ぐとしたら…………あまり想像はしたくないな。


 「……まぁ、逃走本能(チキンハート)の事だ。放っておいても捕まりはしないだろう。さて、無駄に雨に濡れて体力を消耗し続けるのも馬鹿らしい」


 と俺は適当な軒下(のきした)を見つけ雨宿りすることにする。

 適当とは云いながらも、しっかりと紫陽花が一番美しく見えるところを()って選んだのは云うまでも無い。



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