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アラシベ


 イサカはルリノ宅を追い出された後、しばらくの間、玄関先で惚けたように天を仰いでいた。いや、事実惚けていたのである。


 はだけたパジャマから覗いた胸元――白い柔肌が目に焼き付いて離れない。その上に揺れる空色の髪先、華奢な首筋……そして、艶やかな唇。


(ねぇ、イサカさん……? 私のこと、もっと知りたくないですか……?)


 彼女の声が脳内にリフレインする。まるで天使の歌声のようで――しかし悪魔の囁きでもある。甘美なのに辛辣で、優しいのに恐ろしい。思い出しただけでも意識が朦朧とする。あの時は頭がどうにかなりそうだった。


 あの時――彼女の熱を帯びた吐息が耳を撫でた時、イサカは「知りたい」と思ってしまった。思った途端、その感情が爆発した。保護欲所有欲独占欲支配欲征服欲肉欲性欲――その他あらゆる欲という欲が、イサカの脳内に、体内にほとばしった。


 欲しい。とにかく欲しい。欲しくて欲しくて堪らない。しかし、手を伸ばすことはできない……そ ん な 危 険 な こ と は 、 絶 対 に で き な い 。


 イサカはその時の感情を思い出して身震いした。もし手を伸ばしたとして、彼女のことを抱き寄せたとして――嫌われたら、自分はきっと狂ってしまう。絶望によって体の内側から引き裂かれてしまうだろう。彼女からでなければ……彼女から与えられなければ、すべては無意味で無価値で、無駄だ。自分はただ、餌を吊された駄犬のように待つことしかできない。


 彼女が質問してくれた。それだけでいかに幸福を感じたことか。それにとどまらず、彼女は二人だけの秘密を作ってくれた。イサカは天にも昇る思いだった。



「……ふふっ」

 イサカはだらしなくニヤけた口元を擦った。住宅街の通りでは、上司が車に乗って待機している……さすがに惚けたままでは格好がつかない。それくらいの理性は働いていた。


 ルリノ宅から50メートルも離れていない、道の角を曲がったところに銀のセダンが駐まっていた。サイドミラーで自分の表情が必要以上に弛緩していないかを確認してから、イサカは運転席に入った。

「お待たせしました、アラシベさん」



「うん。おつかれおつかれ」

 返事をしたのはイサカの上司・アラシベだ。助手席を目一杯まで倒して、両足を組んでダッシュボードに乗せ、最大限にリラックスしていた。もはや座っているというより寝転んでいると言った方が正しい。細身の彼がこんな体勢を取ると、まるでしなる弓のようだ。クリーム色の洒落たスーツは決して安物ではないはずだが、皺がつくのもお構いなし。一応勤務中だというのに、折りたたみ式の携帯ゲーム機をタッチペンで熱心につついていた。


「それでそれで、どうだった? カヅト氏(ホシ)の件は」

「それが――」

「いやいや。言わなくて結構」

 報告のために口を開いたイサカを、アラシベはタッチペンを持った手で制止した。くるくると指の先で弄ばれていたペンの先が、やがてイサカの顔を指す。


「イサカ氏は私に連絡をよこすことなく、車まで戻ってきた。そしてそしてこの落ち着きぶり。私が促すまで報告を始めなかった……以上から推察するに、カヅト氏はルリノ氏の家にいなかった。違うかい?」


「その通りです。自分らの予想は外れました」

 イサカは嘘をついた。それも、ごく自然に、表情ひとつ変えずに! しかし、それは彼にとって当然のこと……ル リ ノ と の 秘 密 を 守 る の な ら ば 、当然の嘘だった。たとえ虚偽の報告が、刑事としてあるまじきことであるとしても、だ。


 今のイサカにとって刑事のなんたるかなど、ルリノとの関係に比べれば些末なことだった。


「ふーん……そりゃ残念残念」

 まったく残念そうでない様子のアラシベ。再び液晶画面をつつく作業へと戻っていってしまう。あれこれ言及されるだろうと身構えていたイサカとしては、なんだか肩すかしを食らった気分だった……事実、食らったのだが。


「いやいや。私の推察が見事的中したという点では喜ばしいことだな。本日も私の頭脳は冴えている。しかししかし、予想は外れたか……。『予想』とは『あらかじめ想う』ということだ。なんの根拠もなくとも、結果を想像することはできる……だがだが、私はそんな愚かしい真似はしない。常に根拠とデータを『推して察する』。それが推察。私の頭脳は冴えている……そしてそして、私はルリノ氏の家にカヅト氏が逃げ込んだと『推察』した。私の頭脳は冴えている……」


 アラシベが捲し立てるように喋り続ける。彼のトークは音量調節を間違えた独り言のようなもので、いわば思考をまとめるための儀式である。アラシベの部下になって早半年、彼の変わった性癖を理解しているイサカは半分以上聞き流していた。


「ところでところで、イサカ氏――」

 が、唐突にその矛先がイサカへと向いた。パタン――携帯ゲーム機が折りたたまれた。撫でつけられた黒髪。白髪の束が一筋だけ混じっている。利発さを思わせる額の下、糸のように細い目が虚空を見上げていた。


 薄い唇の片端だけを器用につり上げ、アラシベは言った。



「――本当のところは、どうなの?」



 うっすらと開かれた双眸が、イサカの姿を射貫いていた。


 イサカはこの上司の顔を見るたび、狐を連想する――狡猾な狐。化かされているような、手のひらの上で踊らされているような――時にそんな錯覚さえしてしまう。だがしかし、その化けの皮を剥ごうとは思わない……剥いだらきっと、狐よりももっとおぞましいものが顔を出すような気がするからだ。



「アラシベさん……本当のことは、今報告した――」

 イサカは間髪入れずに返事をした。嘘をつく最善の方法は、それを嘘だと思わないことである。答えに詰まるようなことがあれば、やがてそれがほころびとなり、嘘がバレてしまうだろう。自分自身さえ騙すことができれば、答えに詰まることもない。


 だからイサカはノータイムで返事をしたのである。だが、なにもイサカは返事をすること自体に気を取られて敬語を忘れてしまったわけではない。彼とて、アラシベのことを薄気味悪い上司だと、ちょっぴりは思っているかも知れないが……尊敬していないわけではないのだ。それなのに、この時ばかりは敬語をつけなかった――


 ――否、つけられなかった。

 言葉を言い切る前に、刺すような痛みが胸をえぐったからだ!



「――か、は……っ!?」

「やはり残念だよ……残念だ。 か わ い い 部 下 に 嘘 を つ か れ る な ん て ね」

 突然の激痛に息を漏らしたイサカ。対するアラシベはため息を漏らす……ま っ た く 残 念 そ う で な い 様 子 で 。


 イサカは自分の胸を見下ろし、思わず目を剥いた……重厚な鎖が胸に繋がっている!?

 燻し銀の鎖はイサカの肩を越え、窓ガラスを貫通して――幽霊のように透過して――車外へと続いている。

「ひっ――!?」

 さらにその先を見て、イサカの口から悲鳴が漏れた。



 巨大な『なにか』が、宵闇の中から彼のことを見下ろしていたのだ!


次回更新は6/22(土)予定!

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