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辛いんだろうなと、響さんの姿に思う。
痩せたような気もするし、どことなく疲れているようにも見える。
だけれど響さんはいつだって笑っている。
強い人なんだ。強い人だからこそ、あの石川さんの隣に並べるんだ。
二人が並んでいる姿を見るようになって数ヶ月。
あからさまな佐久間さんの妨害は続いているものの、表面上二人が気にしている素振りを見せることは無かった。
石川さんがいる時に響さんに嫌がらせをすると、あからさまに石川さんが佐久間さんを睨むせいもあり、最近はお気に入りを新人の今野くんに変えたようだ。
『愛しの司きゅーん』が『可愛いりょーちゃん』に変わっただけで、やっていることは変わらない。
くねくねすりすり。
女子全員の白い目を浴びている事など、全くもって佐久間さんは気が付いていないようだ。
お気に入りが変わったのと同時に、佐久間さんのターゲットも変わったようで、一担の派遣さんだったり、今野さんの同期で二担に配属された荒木さんだったり。
とにもかくにも、今野さんに近付く女は許せないらしい。
だからといって、響さんへの嫌がらせにも余念が無い。
ある日の事。
一担の大半の社員さんが席を外していると、佐久間さんが何故か響さんの席に座った。
何をしているのだろうかと思ったけれど、口を挟むことではない。
だけれど視線を逸らすことも出来なくて一部始終を見ていると、何やらパソコンを操作した後、にやりと笑って自席へと戻っていった。
それからしばらくして、一担の社員さんたちが戻ってきて、響さんと石川さんも席に戻る。
大丈夫かな? 心配になって響さんを見ていると、見てわかるくらい大きな溜息を吐き出した。
「響ちゃーん、仕事順調?」
ええっ?
その声に驚いたのは、多分私だけじゃない。
一担の社員さんたちが何かを察したかのように、佐久間さんと響さんを見た。
石川さんの背中は、その感情を教えてはくれない。
しばらくしてから立ち上がり、石川さんは一担のホワイトボードの自分のところと響さんのところに「打ち合わせ」と記入して、伊藤さんに何かを告げる。
ぐいっと響さんの肘のあたりを掴んだかと思うと、石川さんが響さんを引っ張って営業課の部屋を出て行ってしまう。
バタンと通常よりも大きな音を立てて閉じた扉。
残された私たちには気まずさだけが残った。
--今の何?
すかさず沙紀ちゃんからメッセンジャーが飛んでくる。
--わかんない。でもさっき佐久間さんが響さんのパソコン弄ってたから、多分また何かやらかしたんだと思う。
--石川さん、かなり怒ってたもんね。きうちゃんにも聞いてみる。何かわかったら、また送るね。
しばらくすると沙紀ちゃんから「よくわかんないみたい」っていうメッセージが送られてくる。
でもきっと石川さんがすごく怒るような何かを佐久間さんがしたのだろう。
響さんが絡むと、石川さんっていつもよりずっと怒りっぽくなる。
そんな風に信田さんに言うと「あれは俺が守っている」っていう佐久間さんへのアピールだよと教えてくれた。そうすればするほど、余計に佐久間さんが嫌がらせをするんだけれどねという言葉を付け加えて。
そうだとしても、そこまでして「守ってくれる」なんていいなって思ってしまった。
石川さんに守ってもらえる響さんはいいなって、思ってしまったんだ。
だけれど、そんな二人の関係は突然終わりを迎える。
響さんが社内コンペで優秀賞を取り、本社企画部への異動が決まる。
するとそれまでべったりだった石川さんと響さんはお互いに距離を取るかのように、社内で全く話をしなくなってしまった。
一体何が原因なのかは、誰にもわからない。
ただ信田さんが、飲み会の時に端っこで石川さんに何やらお説教をしていた。
会話の内容はわからなかったけれど、石川さんが不機嫌そうに口をへの字に曲げているのが印象的だった。
いつもの余裕たっぷりの大人の石川さんじゃなくって、叱られてヘソを曲げている子供のようで。
響さんの支社での最終日、石川さんは会社を休んだ。そして送別会にも来なかった。
でもまあ二人は付き合っているのだろうから、会社を休んだり送別会に来なかったりしても、大した問題じゃないだろう。
「おつかれさまでした」
会社で大きな花束を後輩の今野さんから受け取った響さんが、どことなく寂しそうな顔をしていたのは、多分私の思い違いだろう。
翌日会社に出てきた石川さんだが、何故か怒っている信田さんにどこかへ連れて行かれ、そして溜息を吐きながら戻ってきた。
そんな石川さんを目で追っていると、ふいに視線が合う。
「あれー。今日桐野ちゃんお昼当番?」
四担のホワイトボードを見て、石川さんが声を掛けてきた。
「はい。お昼当番です」
「じゃあ一緒に出よう。俺、今日オムライス食いたいんだ。一緒に食ってくれる?」
「いいですよ。じゃあオムライス食べに行きましょうね」
くすくすと笑った私の頭をポンポンっと二度軽く叩いていって、石川さんが自席に戻った。
その前に座っていた響さんはいない。
ぽつりと空いた空席に、石川さんは何を思うのだろう。
「桐野ちゃんさー。オムライスにはケチャップ? デミグラスソース? それともホワイトソース?」
メニューを見ながら問いかけてくる石川さんは、既に大盛りランチセットにターゲットを絞っているらしい。
「家で作るのはケチャップですね。デミグラスソースとかホワイトソースは一人暮らしだと作りにくいんですよ。余って困るし」
「え? オムライスって自分で作れるの?」
驚いたように目を丸くした石川さんが子供っぽくて笑みが漏れる。
「作れますよ。子供の頃お母さんが作ってくれませんでした?」
「あー。うち、ばーちゃんがおさんどんしてくれてたから、和食ばっかりだったんだわ」
苦笑いを浮かべた石川さんが頬を掻く。
「じゃあ響さんに作って貰ったらどうですか?」
一瞬固まったかと思うと、ははっと乾いた笑いを浮かべて石川さんが煙草に火を点ける。
「あいつ料理はてんで駄目なんだ。手料理なんか一度も食ったことねえや」
そう言って笑う石川さんがどことなく悲しそうに見えて、昨日の響さんの花束を受け取った時の顔と重なる。
どうしてか、この話題は終わりにしなきゃいけない気がした。
「とりあえず決まったんで注文していいですか?」
「ああ。いいよ」
気まずい雰囲気を払拭すべく、店員さんに手を上げて注文する。
「石川さん、ランチのドリンク何にします?」
「コーヒー」
「じゃあコーヒー二つで」
メニューをしまって、おしぼりで手を拭きながら石川さんをこっそりと見る。
うーん。いつもどおりのような気もするし、違う気もするし。
何せ男性経験に乏しいので、微妙な感情の機微みたいなのはよくわからない。
石川さんといえば、眉間に皺が寄っているか、人を食ったみたいな笑みを浮かべるかのどっちかだから。
今、煙草を片手に外を眺めているけれど、一体何を考えているのだろう。
今日からはいない。守る必要も無くなった響さんの事、考えているのかな。
二人がキスを交わしている現場。飲み会でバカみたいなことで笑い会っている二人。肩を並べて書類を睨めっこしている姿。
そんなことを思い出すと、やっぱり石川さんでもそばに好きな人がいないと淋しかったりするのかななんて思っちゃう。
まあ、妄想の域を出ないんだけれど。
「桐野ちゃん」
「何ですか?」
声を掛けてきた石川さんは、いつもどおりの口元を少し上げたニヤっという笑みを浮かべている。
「そのうち気が向いたら桐野ちゃんのオムライス食わしてね」
「……はい?」
「手作りオムライスを食ってみたいなと思ったからさ」
「……はい」
冗談なのかもしれない。
会話の流れで言ってみただけなのかもしれない。
だけれど、妙にドキドキさせられてしまった。いつか私が石川さんにオムライスを作る?
想像したら頬に朱が差してしまった。
何を一人で慌ててんだろう。恥ずかしくなって慌てて水を口に含んだけれど、石川さんは私なんか見ていなかった。
ここにはいない響さんの見ているような、そんな気がした。