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「はい。……営業部営業課第四営業担当桐野です」
『おつかれさまです。桐野さんすみません、先日のT社の決裁資料に確認して欲しいことがあるので、折り返し電話貰えますか?』
営業に出ている社員さんからのそんな電話に、私は二つ返事でOKした。
営業課の奥にある書庫には、全担当の決裁書類だとか重要書類だとかが保存されている。
社員さんから指定されたT社の資料は、先日ファイリングして書庫にしまったばかりだ。
確かあの棚に、なんて考えながらあまり音を立てない扉を開くと、信じられない光景が目に飛び込んできた。
一担の石川さんと響さん。
石川さんの背中に隠れてよくわからないけれど、石川さんの手が響さんの腰に回されていて、二人の顔がくっついているように見える。
くっついている? いやいやキスしてる。
か、か、か、会社の書庫で。
薄く開いた扉の向こう側の二人は、私のことなど全く気が付いていないみたい。
「えり」
石川さんの響さんを呼ぶ声が、いつもよりもずーっと甘ったるくて、自分の名前の「絵梨香」のえりではないのはわかっていても、カーっと顔に血が上っていくのがわかる。
「司」
二人が互いに名を呼び合う合間にくすくすという笑い声が混じる。
見ちゃいけないものを見ているのに、そこから目が離せない。
「うるせー。お前が黙れ」
そういって再びキスをした石川さん。一体どんなキスをしているのだろう。響さんからは鼻にかかるような言葉にならないような声が漏れる。
ああ、ダメダメ。こんなの見てたらダメだって。
脳の芯まで蕩けさせるような甘い吐息に、私まで興奮してしまった。
男いない暦イコール年齢の私には刺激が強すぎる。
二人が早く出てきてくれないかなーと思って扉を閉じると、さっきよりもずっと大きな音がしてビクっと肩が揺れてしまう。慌ててもう一度扉を開く。
クスクスと笑い声を石川さんが上げるので、挙動不審な私が笑われたのかと思った。
「あー。お疲れ桐野ちゃん」
「おっ。おっ。おっ。おつ、おつかれさまですっ」
握りこぶしで唇を拭う石川さんの姿が、なんか、こう、色気があるっていうか、え、エロイっていうか。
今まで全く意識した事が無かったのに、急に一担の石川さんっていう人に興味が芽生えた。
出て行った石川さんの背中をしばし見つめ、目当ての決裁書類を捜す。
書庫に残った響さんは、いつものような冷静沈着な「仕事の出来る女」というオーラを醸し出している。
だけれど、頬がどこと無く赤い。
書類を捲りながら、ふぅっと吐き出された吐息には艶が含まれている。
仕事の時にはいつだって、少々不機嫌なくらいの顔をして、隙の無いスーツ姿。艶やかなブローの行き届いたロングヘア。
普段はスーツが甲冑に見えるほど取っ付き難い人なのに、その日は違う意味近寄り難かった。
……色気が漏れまくりで。
気がついたのは私だけじゃなかったようで、課の男性社員たちはどことなく花に集まる蝶の如く響さんの色気にやられているようだった。
いつもと同じスタイルなのに、今日はそのスーツ姿も、髪を掻き揚げる姿も、匂える花のように美しく見えた。膝上丈のタイトスカートから伸びるすらりとした足は、見ちゃいけないと思いながらも見ずにはいられないくらい色っぽくて。
だけれど誰も響さんに近寄る事は出来なかった。
「えり」
そう呼んで微笑む人がそばにいたから。
いつもよりも親しげに響さんに声を掛け、やれ喫煙所に行こう、やれランチに行こうと響さんに絡みまくる石川さん。更にはいそいそと仕事を切り上げて帰ってしまう。そんな常にはない姿に、終業後五担の信田さんが笑い出した。
「あからさまー。あれ、きっと直帰した響さんと会う約束でもしてるんだろ」
はははっと笑う信田さんに、五担の派遣さんである鹿島沙紀ちゃんが同意する。
「ほんっとうに! あれですか、俺の女に手を出すなアピールですかね?」
「おー。沙紀ちゃん洞察力あるねぇ」
「……あれだけあからさまなんですよ。気が付きますって。桐野ちゃんもそう思うでしょ?」
二つ年下の沙紀ちゃんは敬語を使わないというのは改善されたけれど、いつまでたっても名前で呼んでくれない。それがちょこっとだけ寂しい。
「んー、まあそうですねー。あの二人同期なんですよね?」
信田さんに切り出すと、うんうんと頷く。
「いつから『そういう関係』になったんだろ。ついにあの石川さんも年貢の納め時かー?」
沙紀ちゃんがまるでレポーターにでもなったかのように言うのがおかしくて、思わず笑ってしまう。
「でもまあいいんじゃない? 総務の鈴木や営企の田島や情シスの緑川はかわいそうだけれど」
つらつらと並べる名前のオンパレードに笑いが凍る。
「手広いんですね、石川さんって」
名前の挙がった人たちは、タイプは違うけれど男女共に人気があったり、男性社員に美人と言われる人たちだ。
そんな三人の心を虜にしていたのか、石川さん。すっごい。
思わず出た感嘆の声に、信田さんが苦笑いする。
「もっといるけれどねー。表立って石川狙いを表明しているのがその三人。その他にもヤツがメールやら電話する女は、少なくとも日替わりに出来る程度の人数はいるだろうねえ」
「……マメなんですね。石川さんって」
「ぷぷっ。マメとかじゃなくって、モテモテなだけだよー、桐野ちゃんっ。石川さんってそんなすごくカッコイイタイプじゃないけど、何故かカッコよく見えるんだよねー」
同意を求めるかのように信田さんを見た沙紀ちゃんに、信田さんが興味深そうな顔をする。
「おやおや。沙紀ちゃんも石川狙いだった?」
「違いますよー。世間一般論としての話ですよ。だって佐久間さんだって『愛しの司きゅーん』って言って追っかけてるじゃないですかっ」
お局と呼ばれる佐久間さんの真似をする沙紀ちゃんは秀逸だ。
くねくねと体をくねらせて両手を組んで上目遣い。ホントよく見てるなあって関心しちゃう。
すごいなーって思っていた私とは対照的に、信田さんはちょっと怖い顔をした。
「明日から、響さんが辛い思いをしないといいけどね」
心配は、現実に起こった。
その日から石川さんの背中と響さんの顔を見る回数が増えた。
多分、キスしているのを見てしまったっていうのと、女ったらしと呼ばれる石川さんへの興味と、響さんへの謂われない苛めのような嫌がらせを目にしてしまっているからかもしれない。
全く落ち度の無い事で、響さんは佐久間さんに怒鳴られている。
平然として表情を崩さないものの、そんな後には必ず石川さんが響さんを喫煙所へと誘っていた。
出来る女の代名詞みたいな響さんで、どんなに大変な仕事でも、どんなに佐久間さんに嫌がらせされても表情一つ変えないのに、石川さんは響さんを構わずにはいられないらしい。
それが信田さんに言わせると「愛だよ、愛」ということになるみたい。
まだまだテレビの向こう側の芸能人にしか恋心を抱いた事がない私には理解不能だった。
ある日、コピー機のところで頼まれたコピーをしていると、佐久間さんが腰をフリフリ、ニコニコ笑顔を振りまきながらやってくる。
「おつかれさまです」
「おつかれさまー。桐野ちゃん」
言いながら、何かの書類をシュレッダーに入れていく。
結構分厚そうな書類だなあと思ったけれど、その時は全く気にしなかった。
午後、営業から帰ってきた一担の伊藤さんと響さんが、二人でなにやら大慌てで話している。
バタバタとあちこちを探したり、コピー機のところの再利用用のミスコピーを入れる裏紙ボックスまでひっくり返している。
「どうしよう」
心底困ったように表情を曇らせる響さんに見かねて声を掛ける。
「書類、見ていないかしら。今度提案しようと思っている新しいシステムの設計書だとか仕様が書かれているものなのだけれど」
「見てないです。一緒に探しましょうか?」
手が空いていたので響さんに問いかけると、にっこりと笑って首を横に振る。
「気持ちだけ頂いておくわ。ありがとうございます、桐野さん」
探し回る響さんを放っておく事も出来ず、四担の社員さんが全員出払っていて手が空いているのもあって、伊藤さんに声を掛ける。
「手伝います。さっき響さんが書類を捜していると言っていましたけれど、どんな書類ですか?」
「あー。悪いね。このくらいの厚みの書類なんだ。重要書類だから誰かが社外に持ち出すわけがないんだけれど」
厚みを表す伊藤さんの指の動きに、嫌な予感が背中を這っていった。
自分のしたことじゃないのだけれど、冷や汗が流れていく。
今日、佐久間さんのラインはみんな午後から出払っている。だから言っても大丈夫かもしれない。
「……あの、もしかして水色の表紙の?」
がばっと伊藤さんの両腕が肩を掴む。
「見た?」
予想外に大きな声に、響さんも弾かれたように振り返って私を見た。
「中身は確認していないのでわからないのですけれど」
伊藤さんと響さんを伴って、シュレッダーの機械を開けた。裁断された大量の紙を見る為に。
二人はその中にある水色の紙をいくつか取り出し、そして溜息交じりにシュレッダーの機械を閉じた。
「……あたし、営企に聞いてみます」
「悪いな。響」
くしゃっと顔を歪めた響さんは、くるっと踵を返して扉の向こう側へと消えていった。
「内部資料だったのがせめてもの救いだな」
本当にそれが救いになるのだろうか。伊藤さんの呟きに同意する事は出来なかった。