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Egoist  作者: 来生尚
不機嫌な彼女とA評価の男
6/32

 最終審査の為に本社に呼ばれ、普段は顔を見ることも無いような取締役や社長の前でプレゼンを行ってから二週間。

 結果はイントラネット上の社内報で発表された。

 その日、あたしは朝から取引先を回る予定だったので、結果を知ったのは同期や、営業課、営業企画課での同僚たちからのおめでとうメールや電話だった。

 受かったらいいなと思っていたそれに合格し、あたしはその日一担に来て一番ニコニコとしながら営業を回ったかもしれない。

 --この喜びを誰に一番伝えたいですか?

 後輩からのそんなメールで思い浮かぶのは唯一人。

 これを共に作り上げてくれた石川だ。

 営業の合間に石川の携帯に電話する。今日は営業には出ず、社内にいることは昨日のミーティングで知っていた。

 幾度かのコール音の後に、あの低い声が「はい」と答える。

「司? 結果見た?」

『ああ。見たよ。おめでとう』

「ありがとう! 司が手伝ってくれたからだよ。本当に感謝してるわ。今日は飲みに行こうね」

『……ああ、そうだな。悪い、ちょっと電話掛かってきたから切るな』

 いつもよりもトーンの低い声に疑いも持たず、あたしはそのまま上機嫌に取引先を回った。

 昨日までの陰鬱たる気分からは抜け出し、本当に本当に営業を心から楽しんだ。


 社に戻ると、派遣のきうちゃんこと木内さんが「おかえりなさーい。おめでとーございますぅ」と声を掛けてくれる。

 ありがとうと答えて席に戻ると、あちこちから「おめでとう」と声を掛けられる。

 晴れがましくって嬉しくって、冬のボーナス査定がB評価だった事で悔しがっていた事を忘れるくらいに喜んだ。

 お局佐久間さんが悔しそうに下を向いているのも、また、見返してやったと思えて嬉しくなった。

 データを消されたり、嫌味を言われたり、予約してあった営業車を黙って使われて営業に支障が出たりとか、まあ色々やらかしてくれたのも、これで全部水に流せる。

 あたしは勝ったんだ。

 パソコンを起動しながら一度も口を開こうともしなかった石川を見る。

 何故か不機嫌そうな顔をしてパソコンの画面を見ている。

 どうしたのだろう?

「お疲れ様」

 ありきたりな声を掛けたけれど「ああ」と返ってくるだけ。

 その代わり今野くんが「おめでとうございます! やっぱり響さんはすごいですね!」と褒めちぎってくれる。

 それを石川がチっと舌打ちしたのが見えた。

 何かあったのかな?

 一瞬そう思ったけれど、他の担当の人たちも集まってきて「おめでとう」と言ってくれるので、そちらに意識が向いて石川の態度など頭の片隅に追いやられてしまった。

 その日を境に、石川は変わった。

 頻繁に来ていたうちにも来なくなった。

 一緒にランチに行く事も、お酒を飲むことも、それこそ喫煙所で一緒に過ごすこともしなくなった。

 何か怒らせるようなことをしたのだろうか。

 考えてみたけれど、理由なんてわからなかった。

 それよりもあたしは目先の本社異動のことで手一杯だった。

 二週間後には本社に異動なので、今の取引先をとりあえず伊藤さんに引継ぎ、出来うる限りの引継ぎ書類を残す作業に終始する。

 だから必然的に忙しかったし、石川との時間が取れなくなってしまったのもしょうがないのかなと自分を納得させていた。

 石川があたしを拒絶しているなんて思わなかったから。

 あの日の前日まで、石川があたしに見せていた態度は「好意」だったから。

 だから「どうして」なんて考えなかった。


「響さん。今日お昼当番だよね。一緒に出よう」

 異動を二日後に控えたその日、信田さんに朝、声を掛けられる。

「はい。ぜひぜひ」

 信田さんはにっこりと人のいい笑いを浮かべて「じゃあまた後でー」と去っていく。

 その横を不機嫌な顔の石川が通り過ぎていく。「おはようございます」の挨拶すらせずに。

 どうしたんだろうと思いながらも、あたしは声を掛ける事を躊躇った。

 お局の「響ちゃーん、ちょっとー」という棘のある声に呼ばれたせいもあるけれど、何かあたしがやらかしてしまったんだろうか、石川が怒るようなことをしてしまったのだろうかと不安が過ぎって、何も言えなくなってしまった。

 お昼時、信田さんが選んだのは夜は料亭になるという地下の全席個室のお店。

 雰囲気のあるこのお店には、石川と何度かランチに来た事がある。

 秘密を共有するにはいい場所だろ? と笑っていた顔を思い出す。

 思い出して、そして溜息が零れる。

 ここのところ、石川はおかしい。だけれど、その理由が全く掴めない。

「響さんさ」

 食後のお茶を飲みながら、信田さんが切り出す。

「石川と上手くいってないの?」

 突然言われたその言葉の意味を理解するのには、どれだけの時間が必要だったのだろう。一瞬だったかもしれない。でもすごく長い時間だったかもしれない。

 どくどくという心拍音。そしてさーっと末端が冷えていくような寒気。

 あたしは、石川と最も仲のいいと言われている信田さんの発した言葉の意味を咀嚼しようとしつつ、しかし同時に心が拒絶しているのを感じた。

 らしくないことに、テーブルの下の指先が震えている。

「どうしてですか?」

「……全然話もしてないし、今まで飲み会には二人がセットだったのに石川しか来ない。何かあったのかなって思うのが当然でしょう」

 がっちりとした体格のわりに、やわらかくて心に染みこむような声の信田さん。

 はっとして見上げてしまったあたしを見て、困ったように眉を潜める。

「何があった?」

「……わからないんです。全然」

 ぎゅっと震える指と指とを絡め、テーブルの下で両手を握りあわせる。手の中はじっとりと汗をかいている。

 俯いたまま、ずっと心の内に秘めていた思いをぽつりぽつりと話し出す。

「あの日、企画合格した日からおかしいんです。前日までは普通だったのに、全然話し掛けても答えてくれないし、不機嫌そうにしているし、避けられているような気がするし。何も石川を怒らせるような事はしていないと思うんですけれども」

「うん。あの日からか」

 思い当たる事があるかのように、信田さんが呟く。

 やっぱりあの日に何かがあったのかもしれない。

「あたし、浮かれすぎてましたか? それが気に入らなかったんでしょうか。あの企画を手伝ってくれた石川にはすごく感謝しているんです。だから嬉しくって一緒に飲みに行こうって言ったのに、それさえもしてくれなくて」

「うん」

「どうしてこうなっちゃったのか、全然わからないんです。でも聞くのも怖くて、忙しいのを理由に石川と向かい合おうともしなかったのも事実です。それがいけなかったんでしょうか」

「うーん」

 髭をこするように、信田さんが顎を掻く。

 はあっと溜息を吐き出すと、泣き笑いのような表情であたしを見る。

「響さんは何も悪くないよ。悪いのは石川だ。アイツの器量が小さすぎるんだよ。まあ一度向き合うように言っておくわ」


 その日、自社ビルを出ると石川が煙草を咥えて立っていた。

「えり」

 また避けられるのだろうと思って顔を背けて通り過ぎようとすると、その手があたしを掴んだ。

 それだけで泣けそうだった。だけれど、そんなのあたしじゃない。

「なーに? 飲みに行く?」

「いや。一緒に帰ろう」

 その後黙ったまま石川はあたしの家までやってきた。

 そして家に入るなり、痛いくらいにあたしを抱きしめる。

 苦痛に歪んだあたしのことなど気にせずに、噛み付くように唇を塞いできた石川は、やっぱりどこかおかしい。

 いつもならば優しすぎてこっちが焦れるくらいなのに。

 するすると素肌を這う指先や、性急に首元をくすぐる唇が、何故かすごく悲しかった。

 悲しくて、悲しくて、涙が零れてきた。

「……えり?」

 はっとしたような表情で石川がその動きを止める。

 指が涙を掬い上げ、そして腰を抱いていた腕の力が弱まる。

「何を怒っているの?」

 泣きながら言ったあたしの言葉に石川は答えなかった。ただ「ごめん」とだけ言っただけで。

「あたし、何か司に嫌なこと、した?」

 首を横に振り、石川は答えない。

 その時あたしには確信があった。ああ、終わりなんだな、と。

 よくわからないけれど、これで終わりなんだと。

「……弱いあたししか、司は好きになってくれない」

「は?」

「あたしが強くなったら近寄っても来ない。いつだって司はあたしを征服したいだけなのよ」

 多分すっごく今、みっともない顔をしている。

 流れるのは涙だけじゃない。ずずっとすする鼻の音だってみっともない。

 だけれど、それ以上にみっともないのは「そんな事無いよ」と言って欲しいあたしの心。

「あたしが司の庇護下から飛び出したから気に入らないんでしょう? あたしはあなたと肩を並べて歩きたかったのに。どうして横にいるあたしを拒絶するの?」

 はっと石川が息を呑んだのがわかった。

 もやもやと抱えていた疑問は、どうやら真実だったようだ。

「感謝してたのに。嬉しかったのに。意地っ張りなあたしも、強がりなあたしも、弱音を吐くあたしも、全部あたしよ。あたしを見てよ。イメージの中のあたしじゃなくって、ここにいるあたしを。そうじゃないなら、もうっ、出て行って!」

 石川の弁解を待たず、ドアを開けてその体を外へと押し出す。

 涙で視界が歪んで、石川がどんな顔をしているかなんて確認しようともしなかった。

 バタンと閉じた扉が、泣き叫ぶあたしの声を外へと漏らさずにいてくれる。

 翌日目が腫れていようが、それでも良かった。ただ泣きたかった。

 あたしが好きな「石川司」は、一度だって「響恵理子」を好きだなんて言わなかった。付き合ってとも言わなかった。ただ体を重ねただけでしかない。

 その事実に気が付いた時、あたしはどうしようもなく悲しくて悔しくて仕方なかった。

 あたしもアイツに騙されたバカな女の一人でしか無かったのよ。


 

 石川は、あたしの営業部第一営業担当としての最終日、有給を取った。そして送別会にも顔を出さなかった。

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