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Egoist  作者: 来生尚
不機嫌な彼女とA評価の男
4/32

「響」

 契約更新に伴う決裁書類作成の為に過去の決裁資料を探しに書庫に来ていると、後ろから声を掛けられる。

 振り返らなくてもその声の主はわかる。

「何探してんの」

「A社の過去の決裁」

 ぱらぱらと一担の過去の決裁を閉じているファイルを捲りながら答えると、ふーんと耳元で声がする。

 振り返ると手許を覗き込むようにして石川が立っている。

「今日直帰?」

 その声が耳をくすぐる。ただ背後に立っているだけなのに、声の距離は抱き合っているかのような距離感で、声と同時に吐き出す息が耳を掠めていく。

 相手が石川にも関わらず、不覚にもドキっと胸が跳ねた。

 耳に掛けていた髪を、耳に息が掛からないように元に戻す。そうしないと胸の鼓動がどんどん大きくなってしまいそうな気がしたから。

「直帰の予定。商談が16時だもの。戻ってくるのも億劫だから」

 落ち着かない気持ちを悟られないようにしていたはずなのに、何故か声が震える。

 後輩が「石川さんの声ってやばいですよねー」と言っていた意味がわかった気がする。

 至近距離で直接耳に注ぎ込まれる低音は、胸を掴む効果が抜群だわ。

 ってことは、あの子たち、これを体験済み?

「じゃあ終わったら連絡しろ。企画練るんだろ?」

「いいのっ?」

 思いっきり振り返ったら、くすっと笑った石川がさらっとあたしの頬にかかる髪を撫でていく。

 以前よりはそうされても不快感は感じない。

 手に決裁書類の分厚いファイルを持っていたままだったのもあって、されるがままにしている。

 あたし以外にもこうやっている姿を見たことがある。きっと石川の癖みたいなものだろう。

 いちいちそれに突っかかる必要も無い。

「いいよ」

 低くて優しい声音に胸が跳ねた。

 跳ねたという事を認識した瞬間、顔に朱がさしたような気がする。近すぎる距離で気付かれなければいいけれど。

「響」

 ぐいっと肩を掴まれた。

 あたしは、期待してしまった。

 今まで石川に対しての感情は「ライバル心」だったはずなのに、企画の完成を手伝って貰ううちに、同じ担当になるまで一度も感じた事のない思いが芽生えていた。

 ずっと気付かないフリをしていた自分の感情。

 評価を競う相手ではなく、共に一つのものを作り上げる相手でいて欲しい。

 向かい合って檄を飛ばす相手ではなく、手を取り合って並んでいたい。

 いつからそう願っていたのだろう。

「逃げねえの?」

「……なんで?」

「いや、何となく」

「あたし、いちいちそうやって確認されるのイヤなんだけど」

「じゃあ遠慮なく」

 両手の中には決裁書類。場所は営業課の書庫。

 誰がくるともわからない場所なのに、石川は躊躇うことなく唇を重ねてくる。

 触れるだけのキスをして、絡む視線が「もっと」と強請っているように感じる。

 ぐいっと腰に手を回されて引き寄せられると、下唇を軽く食まれる。それがまるで合図のように、とくんとくんと胸が鳴り出す。

 何度も何度も啄ばまれる唇。香るエゴイスト。唇から伝わってくるのは甘い衝動。

「響」

 唇を離した瞬間に呼ばれ、その声に震えが走る。

 ここは会社なのに。

 普段の傲慢で強引な石川はなりを潜め、思ったよりずっと優しくてふんわりとキスをして、でも腰に回された手はお互いの間に空間を作るのを許さないような力強さ。

 多分手にファイルを持っていなかったら、首に手を回して抱きついていたと思う。

 そういう風に勘違いさせるような、あたしだけが特別だと思わせるようなキスだ。

「わりぃ、口紅剥げたかも」

 唇を離し、石川がぐいっと自分の唇を拭う。

 そんな仕草が色っぽく感じるのは、あたしもやられたのかもしれない。佐久間さんじゃないけれど、石川の魅力に。

「石川っち」

 ふっと石川が鼻で笑う。

「何だよ」

「ただ呼んでみただけ」

 にやっと口元を引き上げ、石川があたしの顎を掴む。

「司。次から司って呼べよ」

「やだ」

「じゃあもうしねーぞ」

「したいならすればいいのに。意気地なし」

 むっとした顔をしたかと思うと、もう一度唇を塞がれる。それ以上言うなとでも訴えかけるかのように。

 でも司って呼んでしまったら、特別なのだと自分にも石川にも、周囲にも結論付けることになる。

 この居心地のいい関係がそれで崩れてしまったらと思うと、一歩を踏み出す勇気が出ない。

「呼べ」

 キスの合間に命令口調。

 それがなんとも石川らしい。

「石川っちがあたしの名前を呼んだらね」

 唇が触れ合う距離でにやっと笑いながら言うと、極悪人のような笑みを石川は浮かべた。

「えり」

 恵理子という名前じゃなくて「えり」と呼ばれて心が躍る。

 ちゅっと唇に音を立てて重ねると、石川はふっと目元を和らげた。

「司」

「……いつものお前もいいけど、そういう素直なお前のが俺は好きだな」

「うっさい」

「うるせー。お前が黙れ」

 噛み付くようにして、ぐいっと舌を口の中に差し込まれる。

 容赦なく蠢き、ありとあらゆるところを嘗め尽くしてしまうのではないかという動きに、頬が紅潮し、体に熱が灯される。

 なのに、石川はにやっと笑うとあっさりと距離を取る。

「外出る前に化粧直せよ」

 もう一度握り締めた拳で自らの口を拭うと、くるっと背を向けて扉の方へと歩き出す。

 その背中を眺めているだけなんて、ありえない。

 あたしは意識を仕事に戻し、決裁文書を捲ることに集中する。

 くすくすっと笑う声と、扉を開ける音が同時に耳に入ってくる。

「あー。お疲れ桐野ちゃん」

「おっ。おっ。おっ。おつ、おつかれさまですっ」

 四担の派遣桐野さんが石川と入れ替わりに入ってきたが、もう意識は書類の事でいっぱいだった。


 出先から戻り、社の傍で携帯電話を手に取る。

 本当に企画内容の練り直しに付き合ってくれるのだろうか。

 付き合ってくれるといったのだから、それはしてくれるだろう。

 でもどういう顔をして会えばいいのだろう。

 液晶に映る「石川司」という文字を眺めては溜息が出てくる。

 いつもどおりにしていればいいのに、今は上手くそれが出来る気がしない。

 今更だけれど、石川は一体どういうつもりでキスをしてきたのだろう。

 あたしは一言も「好き」だとは言っていない。それは石川も同じだ。

 自分の中にある漠然とした気持ちが「好き」である事は知っている。だけれど石川もそうだとは限らない。

 あいつはいつだって色々な女の子に声を掛けて、メールしたり電話したりしているのを知っている。

 派遣さん、先輩社員、後輩社員。

 とにかく幅広く網を広げているかのように、あちこちに粉を掛けている。

 入社したての頃にいた彼女と別れて大分経つようだけれど、その後はとっかえひっかえという感じ。

 あたしもその中の一人に入るのかと思うと、やるせない気持ちになる。

 そんな十把一絡げの中に入りたくない。

 携帯を握りしめて噴水のある広場で溜息をついていると、手の中の携帯が震えだす。

 取引先に行っていたから、マナーモードのままだった。

『お前今どこ?』

 いつもと変わりない口調。

 この悶々とした気分を分けてやりたいわ。ったくもうっ。

「駅のそば。石川っちは?」

『……会社。少し残業になりそうなんだけど、待てるか?』

「それはいいけど。忙しいならまた別の日でもいいよ」

 今顔を合わせるのは、やっぱりなんとなく気まずい。

 先に持ち越したから状況が良くなるというわけではないのだけれども。

『余計な気ぃ回さないで待ってろ。すぐに終わらせるから』

 ほんっとーにこの腹立たしい命令口調ったらない。

「待ってろじゃなくて、待っててくださいでしょ。あたしに会いたいならそれくらい言ったらどうなの?」

 電話越しにあの、くくくっという笑い声が聞こえた。

『わかったよ。どこでもいいから待っててくれ。今日は絶対にお前に会いたいから』

「……ふん。待っててあげてもいいわ。じゃあ東口のコーヒーショップで。あそこなら電源あるからパソコン叩けるの」

『わかった。じゃあな』

 ぷつりと切れた電話を眺める。

 会いたいなんて言われたの、初めてかもしれない。

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