姉さんと子犬くん:4
明け方4時。響は目の前で突っ伏して眠っている小泉を見つめる。
ほんの少し前まで、とろんと眠そうな瞳を擦りながら話をしていたが、睡魔には勝てなかったらしい。
聞こえるわけが無いと知っていて「ありがとう」と呟く。
決して何があったかなんて聞かず、くだらない、明日になったら覚えていないような話ばかりしていた。
どうして泣いたのか、それすら小泉は聞かなかった。
もしあの場所で小泉にあっていなかったら、自分はどうしたのだろう。
ヒールの折れたパンプスを抱えて、ずっとあそこに立っていたわけではないだろう。
ふっと、思い出してしまった。
好きだとも言わなかった男。別れようとも言わなかった男。
けれど同期たちの目を盗んで唇を重ねようとしてきたあの瞬間のこと。
なんであいつはあんな事今更しようとしたのだろう。
響は疑念に首を傾げる。
好き?
いや、そういうのに程遠い男だな、あれは。
考え直して、再び思考を元に戻す。
少なくとも響と「付き合っていたらしい」間は他の女に手を出さなかったのは知っているけれど、それ以前は何股掛けていたのかというくらい女遊びの激しかった奴だから、やれれば誰でも良いのかもしれない。
昔冗談交じりに誰でも良いの? と聞いた時、なんて答えていたかしら。
ま。どうでもいいか。
そういえば力の限り蹴り飛ばしてきたけれど、脛に痣くらい出来たかな。そうであって欲しい。そのくらいしてもバチはあたらないと思う。
その後苛立ちのまま街路樹まで蹴飛ばして、ヒールが折れたのは想定外だったけれど。
ああ、そうだ。あたし、怒ってたんだっけ。
可笑しな現実に気が付く。
数時間前、確かに怒っていたはずなのに、今は気持ちが晴れ晴れとしている。
泣いてすっきりしたのか、それとも小泉が酒に付き合ってくれたからなのか。
目の前で寝息を立てる小泉は、全く起きる気配は無い。
半年前に出来た同い年の後輩小泉。
鼻っ柱を折ってやれと課長と主任に言われていて、広報の知り合いに聞けば「ああ。あの子犬」と返ってきた。頭の回転のよさが鼻につくタイプだった。
まだペーペーだというのに「それはおかしいと思います」とか持論を展開して、広報で良い意味でも悪い意味でもよく吼えるといわれていた小泉。
なるほど「子犬くん」とは言い得て妙だと思ったのが、異動当初の印象だった。
けれど一緒に仕事をしてみると、弁えるところは弁える。
同い年で学歴も低い響のことを小馬鹿にするようなことはしない。
自分の納得のいかない事にはとことんつっかかるが、納得すればきちんと従うのだから、まさに犬のようだ。
少なくとも「子犬くん」は響を先輩として認めたのだろう。
だから同い年でも先輩だから敬語で接してくる。
なんて不器用で真っ直ぐで真面目で単純な男なんだろう。
眠りについてしまう少し前に、少々ろれつの回らない口調でだったが小泉は響に謝った。
「嫌いだなんて言ってすみません。俺、姉さんのこと尊敬してますし好きですから、来週からも一緒に仕事してください」
思い出してくすりと響が微笑む。
「尊敬か。あたし、強くなれたのかな」
口に出してから、小泉に言われた事が頭を過ぎる。
--姉さんは姉さんでしょ。強くても弱くてもいいじゃないですか
「うん。そうだね。あたしはあたしだ」
強くても弱くても、あたしはあたし。
響は自分にそう言い聞かせた。
強くありたかったからあの男に甘える事が出来なかった。でも本当は傷つきたくなくて自分を守りたかったから、ずっと虚勢を張り続けた。
相手がどう思おうと、自分が好きなら好きって言えばよかったのかもしれない。どうして好きと言ったら「負け」だと思ったのだろう。
酒量のせいか、睡眠不足のせいか、はたまた徹夜のおかしなテンションのせいなのか、響は考え事を繰り返し、そのたびに独り言を口にする。
自分に言い聞かせるような言葉たちが、過去の失恋と初めて向き合わせている。
過去の自分と今の自分。
「次はもっとまともな恋をしよう」
その呟きを、眠りの中で小泉は聞いていた。
小泉が目覚めたのは、4時半過ぎだった。あっという間に転寝から醒めた男は、目の前でソファにもたれかかるようにして眠る響に目を向ける。
姉さんが何か言っていたような気がするけれど、全く思い出せないなと若干酔いの眠気の醒めた頭で考える。
もう暫くすれば始発電車も動き出す頃だ。
店員に烏龍茶を頼み、目の前ですやすやと眠る響を見ながらお茶を飲む。
さすがの姉さんも酒には勝てても睡魔には勝てないんだな、と同い年の先輩に対して思う。何に対しても無敵なイメージが何故かあったからだ。
船を漕いでいる響がテーブルに頭を打ち付けるのではないかと気になり「姉さん」と小泉が呼びかけるが、響は一向に起きる気配が無い。
「すみません。ラストオーダーになりますが」
店員の呼びかけに烏龍茶を一つ追加し、本格的に響を起こしに掛かる。
この店は5時までだったから、起きてもらわなくては困る。
「姉さん」
ぽんぽんと肩を叩くと響がとろんとした目で小泉を見つめる。
「こいぬくん?」
「起きて下さい。そろそろ閉店の時間なんです」
「うーん。わかったー」
間延びした、普段のしゃきしゃきした響の口調とは全く違う寝ぼけた口調に、くすりと小泉が笑みを洩らす。
欠伸をして伸びをする響に、店員が持ってきた烏龍茶を差し出すと、何故か両手で抱えるようにして、まるで点てたお茶を飲むかのようにグラスを持って飲み始める。
「熱くないですよ」
「んー」
曖昧な返事をしてグラスを顔に近づけ、こくりと一口烏龍茶を飲んだ響だったが、どうにも眠気には勝てず頭に霞が掛かる。
これは駄目そうだと判断した小泉は伝票を持って会計を済ませると、響に「出ますよ」と声を掛ける。
「はーい」
目をこすりこすりしながら響は立ち上がる。
普段ならアイメイクが崩れるといけないから、絶対にそんな事はしないのに。
何とかかろうじて意識を保ったまま歩いていく響は今にも転びそうだ。
「大丈夫ですか?」
「だいじょーぶよぉ」
へらっと笑った響に、これはダメだと小泉は判断した。
「姉さん、家どこです?」
問いかければ地下鉄と私鉄を乗り継いで三十分ほどの駅の名前を言われる。
仕方ないと溜息を吐き、小泉は響を送ることにした。
店から駅まで歩く間、ふらふらと歩く響の手が小泉の手と触れる。
触れた次の瞬間、響は小泉の手を握っている。ちょっとした嬉しいトラブルだったけれどにやけることも出来ずに仏頂面を作る小泉が横目で響を見つめると、響がにっこりと笑い返してくる。
どきっと小泉の胸の鼓動が大きな音を立てる。
いつもの隙の無い笑みではなくて、可愛いと表現するのが一番似合うような笑みだったからだ。
「帰ろう?」
「……帰りますよ」
「うん」
きゅっと響は小泉の手を握り直した。指と指が絡み合うように。
小泉はというと、頭の中で色々なものを処理しきれなくて、彼の脳は悲鳴を上げそうになっていた。
酒のせいと、眠気のせいと、徹夜明けのせいで、頭は妙に興奮している。しかも響に微笑まれて、指を絡めて手を握っている。
これは一体どういう事なのだろう。帰ろうってどういう意味なんだ?
伺うように視線を送ってみても、へらっという笑みが返ってくるだけだし、手を離す気はないみたいだし。
小泉は叫びたいほどの葛藤を抱えながら、無表情を作り続けるしかない。
響はというと、どこかふわふわとした感覚に頬が緩む一方だった。
どうしてかはわからないけれど、目が覚めた時に小泉と目が合った瞬間、言いようのない感情が湧きあがったからだ。
いてくれるんだという安心感。近付きたいという飢餓感。
でも何よりも響にあったのは幸福感だった。そこに小泉がいるというだけで響の心は満たされ、笑みが自然と溢れてくる。
殆ど人のいない電車に手を繋いだまま乗って、そのまま電車のシートに座ると、響はコンと頭を小泉にもたれる。
小泉がぎょっとしたというのは言うまでも無い。
そのぎょっとした顔のまま小泉が響を見つめる。
「すき」
二人の間に一瞬沈黙が流れるが、目が覚めている分小泉は冷静だった。
「誰かと間違えてます?」
あの元彼とか……とは言わなかったが。
「ううん。間違えてない」
ふるふると首を左右に振り、響が小泉を見つめる。何となく言いたくなって口にしたものの、妙に気まずくなってしまう。
「じゃあ酒の雰囲気ですか? それとも眠気で錯覚でもしました?」
「ちがうっ」
繋いでいないほうの手で、縋るように小泉の腕を掴んだ響に、小泉は眉を寄せて難しい顔をする。
それが響には拒絶のように感じる。
「きらいにならないで」
「嫌いにはなりませんよ。でも本当に好きだっていうなら、正気の時に言って下さい。今は聞かなかったことにしておきますから」
冷静を装って答えた小泉に対し、響はしゅんと肩を落とす。
そこには「姉さん」の片鱗はこれっぽっちもない。だからこそ、小泉が響の言う事をまともに相手にしていないのだが。
繋いでいた手を離し、響は小泉から少し距離を離して座りなおして、両手でパンっと派手な音を立てて頬を叩く。
唖然として目を見開いた小泉に、響はにっこりと笑みを返す。
「じゃあ目が覚めたらメール頂戴。酒と睡魔が抜けたらまた会いたいわ」
会いたいといつもの口調で言われて、小泉の胸が高鳴る。
予想さえしていなかった展開についていけずに「はあ」と答えるのが精一杯だ。
「また後でね」
いつの間にか着いていた乗換え駅で、響は手を振って降りていく。それが乗換駅だと気がついたのは、扉が閉まった後で、小泉は返事さえ出来なかった。
「おはよう」
待ち合わせ場所に現れた響は、いつものスーツ姿ではなく、どちらかというと可愛らしい服装に身を包んでいた。
「おはようございます」
律儀に頭を下げた小泉に、響があははっと笑い声をあげる。
「飯、食いましたか?」
「ううん、まだ。食べる?」
「はい」
二人で並んで歩くものの、間には拳二個分くらいの余裕がある。
「あたしさー。せっかちだから結論先に聞いても良い?」
信号待ちで止まった交差点で、響が小泉を見上げながら問う。
「結論ですか。何でしょうか」
適当に飯屋を探そうという話になったが、何を食べるか決めたいという事だろうかと小泉が問いかける。
「あたし、小泉くんが好きみたい。小泉くんはちょっとでもあたしの事好きになってくれるかな?」
「……えっと?」
てっきり食事の事かと思っていた小泉の頭は一時停止して、それからもう一度頭の中で響の言葉を繰り返す。
「好き? 僕が?」
信じられないといった様相で確認する小泉に、頷き返して響が照れ笑いを浮かべる。
「もしダメでも仕事は気まずくならないようにするから、嫌ならきっちり断っていいからね」
ぷいっと横を向いた小泉がその拳で自分の口元を抑える。傍目から見てもはっきりとわかるほどに小泉の頬は紅潮している。
「断るわけないじゃないですか」
ぼそりと呟いた言葉は響の耳に届くわけもなく、なに? と聞き返してくる。
意を決した小泉が、響の手を握る。
「好きですよ。断ったりしません。僕でいいんですか? 姉さんより仕事も出来ませんし、見た目もそんなに良くないと思いますし、ついでに頭が固くて融通が利かないですけれど」
「うん。いいの。子犬くんが好きなの」
そうこうしている間に交差点は青に変わり、人の列が動き出す。
二人は手を繋いで歩き出す。
「姉さん、何食べたいですか?」
「ケーキ。お祝いしよう」
「何をですか?」
「付き合い始めた記念日って事で」
ぷっと吹き出した小泉だったが、柔らかい目で響を見る。
「意外にそういうの好きですよね、姉さん」
「子犬くん、彼女を姉さんって呼ぶのどうかと思うのよね」
「でも彼氏を子犬くん呼ばわりもどうかと思いますよ」
二人は顔を見合わせて、あははっと笑い声をあげる。
当分の間、二人は互いを姉さんと子犬くんと呼び合い、お互い少し微妙な気分になるのだった。
名前で呼びあう頃には小泉の敬語は消え、響はいつしかカッコイイというよりも優しいと呼ばれることが増えるようになっていた。




