姉さんと子犬くん:2
支社の営業企画部を対象とした説明会は無事に終わり、小泉は後片付けを手伝っていた。
響は自身で作った企画だという事もあり、大勢を前にしてもいつものように自信たっぷりな表情で説明を行った。
どんな質問にも澱みなく答えていく姿に尊敬せざるを得なかった。
元の職場という事もあり、響の周りには人の輪が出来ていく。
そんな様子を小泉は「姉さんはどこ行っても人気者だな」とのんびり考えながら、持参したノートパソコンの電源を落とす。
「あれ、小泉?」
どこかで聴いた事のある声に顔を上げると、にこにこっと笑顔を浮かべる同期の今野と目が合った。
名前の並び順が近かったので、新入社員の宿泊研修で同室だった奴だ。
「久しぶり、今野。お前ここの支社だったんだ」
「ここの営業にいるんだ。以前響さんと同じ担当でお世話になったから挨拶しようかと思って。小泉は響さんと同じ企画部?」
「半年前からだけど」
「そっか」
パソコンを鞄にしまいながら、久しぶりに出会った同期と他愛も無い話を交わす。
今野は新入社員でここの支社に配属され未だ異動は未経験だとか、響が以前は営業の仕事をしていたとか、そんな話をする。
同じ釜の飯を食った同期とはいえ、入社以来殆ど会っていなかったので、当たり障りのないような事以外話すことは無い。
小泉はふっと響のほうに目を向けるが、響は支社の営業企画の課長と話をしているようだ。
「今日は直帰?」
「その予定」
「この後懇親会になると思うけど、小泉も参加する?」
「……姉さんが参加するなら」
姉さん? と首を傾げた今野に、本社で響が姉さんと呼ばれていることを話す。
聞いた今野は笑みを洩らした。「響さんらしい」と。
響に挨拶をする事は適わず、今野は呼び出しを喰らって自分の課へと戻っていく。
それと入れ替わりに響が主任と共に小泉のもとへと戻ってくる。
「片付けありがとう。子犬くん、今日の予定は?」
「特にありません。本社に戻って報告書の作成をしたほうが良いですか?」
それをしろと主任も響も言うわけが無いとわかっていたが、念のための確認は必要だろう。
「アンケートの集計は明日以降で構わない。俺は会議があるから戻るけど、お前ら直帰で構わないよ」
主任のありがたい一言に小泉と響は頭を下げる。
「じゃあ俺は時間があまり無いから先に戻るな。お疲れ様」
「お疲れ様でした」
主任がいなくなり、会議室は響と小泉二人きりになる。
「私は営業のほうにも挨拶に行くけど、子犬くんはどうする?」
「同期に挨拶してこようかと」
「そう。たまにしか支社の同期には会えないものね。じゃあ後で電話するわ」
予告どおりに17時頃携帯が響からの着信を告げ、二人はコーヒーショップで時間を潰した後、支社の懇親会という名の飲み会に向かう。
飲み会の場である居酒屋に行くと、入り口傍に先ほど挨拶した同期たちの姿が見え、小泉はそこに腰を下ろす。
響はもう少し上座のほうに座り、二人が席に着くのと同時に宴会が始まる。
上機嫌に飲んでいる響の酒量に心配はしていないが、ぴったりと響につかず離れずの距離にいる男が小泉は気になった。
説明会にはいなかったから、営業企画の人間ではないだろう。
「あの人は?」
同期の寺内に響の隣に座る男の事を尋ねると、「ああ」と返事が溜息と同時に返ってくる。
「営業の石川さん。響さんの元彼」
え? という呟きと同時に、小泉が響を見やる。
特にいつもと変わった様子は無いようだし、必要以上に親しげにしている風でもない。
が、横にいる石川はどう思っているのだろう。
もやもやとした言いようのない不安が小泉の中に広がっていく。
「彼氏? いらないいらなーい。仕事が恋人。それサイコー!」と先日の飲み会で笑っていた響だから、あの男とよりが戻ったとかは無いと思うが。
それともアレは嘘?
そんな小泉の心中を知らない同期たちは、口々に響と石川について論評していく。
「いい雰囲気じゃない?」
「いっそよりを戻してくれたらいいだけれど」
「石川さん、やっぱり未練あったのかな。響さんに」
「変な別れ方だったものね」
「あれは自然消滅みたいなものじゃないのかな」
周囲の同期たちの会話に耳を傾けつつも、小泉は気が気ではない思いで響の姿を見つめている。
響の髪を梳くように石川の手が動き、首元を指でなぞるような動きに響が身を捩った途端、小泉は思わず立ち上がっていた。
「姉さんっ」
突然の小泉の行動に、呼ばれた響も、石川を含んだ周囲の者も言葉を無くす。
しーんと静まりかえった座敷で、あわあわと小泉が慌てて携帯を取り出す。
「電話っ。電話ですっ。主任から」
丁度タイミングよく鳴り出した自分の携帯を渡す為に響に近付くと、響が「ありがとう」と携帯を受け取る。
「はい。響です」
その応対の言葉をきっかけに、座敷の中の雰囲気は元に戻る。
「ところで姉さんって何?」
小泉はその質問への対応に追われることになり、同期たちの生ぬるい視線に気が付くことは無かった。
一次会が終わり、二次会もと誘われたけれど、小泉はそれを固辞した。
明日の朝一に会議の予定が入っていたからだ。
「子犬くんが帰るんだったら、一緒に帰るわ」
そう言って響も人の輪の中から出てくる。
引き止める為にその手首を石川が掴んだけれど、響はにっこり笑って「明日会議なの」と付け加える。
「広報との会議があるから寝坊するわけには行かないの。それじゃあお疲れ様」
するりと石川の手から抜け出して自分の横に並ぶようにやってきた響に対し、小泉はほっとする。
「いいんですか?」
「何が? 明日の会議のほうが大事よ」
ふんわりといつもどおりの笑みを浮かべて歩く響の横顔には迷いなんて見つけられない。
小泉は本当に響の言うとおりなのだろうとその時は納得した。
その週末、響は同期会があるからと定時に会社を退社した。
小泉は各支社で行われた説明会のアンケートの集計作業、それから響以外の社員の企画会議への参加があり、結局退社したのは22時を超えていた。
のんびり「腹減ったなぁ」と考えながら地下鉄の駅に向かって歩いていくと、ガードレールに寄りかかるようにして響が立っている。
大分前に帰ったはずなのに? と思ってから、同期と飲み会があったのかと思い出す。
いつもの響とは全く違う暗い表情に、小泉はたじろぐ。
笑みもなく、まるで疲れきったかのようにうな垂れている。
一瞬声を掛けるべきかどうか悩んだが、見過ごす事は出来なかった。
「姉さん」
小泉の呼びかけに、弾かれたように響が顔を上げ、その瞬間にぱっと花が咲くかのようにいつもどおりの笑顔が作られる。
その笑顔に思いっきり小泉が顔を歪めたが、響は笑みを貼り付けたまま表情を変えない。
「お疲れ様っ。今帰り?」
「はい。姉さん、そこで何してるんですか」
いつもよりも幾分か低い声だと、小泉自身が感じるほどに低い声が出た。
「ヒール折れちゃったの。困ったなぁと思って。この時間じゃお店もやってないし」
ぷらんとヒールの取れた靴を目の前に差し出す響に対し、小泉が溜息を吐き出す。
「瞬間接着剤でつけたらどうです?」
「ああっ。そうね。そんな事思いつきもしなかったわ。さすが子犬くんっ」
いつもどおりのテンションに、小泉の心の中では苛立ちが広がっていく。
あからさまに自分との間に線を引く響に対し、心を開いてくれない事に憤りさえ感じる。
「会社に戻ります? それともコンビニ行きます?」
「コンビニかなぁ。コンビニのほうが近いから。じゃあお疲れ様っ」
手を振って自分の前を去ろうとする響の腕を小泉が掴む。
それに対しても、響はいつもどおり微笑むだけだ。
「手、貸しますよ。歩き難いでしょう」
「だいじょーぶっ。ちょっと歩き方おかしいけど何とかなるわ」
やんわりとした拒絶に、小泉は首を横に振る。
「コンビニ寄って瞬間接着剤買った後、ヒールくっつくまででいいんでメシに付き合ってください。俺、夕飯まだなんです」
何があったかなんて話すわけがないと思ったけれど、一人で放って置くことなど、小泉には出来なかった。
寧ろ、手放してなるものかと彼は思った。
それを響がどう捕らえたのか小泉にはわかりようがないが、いいよと言って微笑む響にほっと胸を撫で下ろした。




