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Egoist  作者: 来生尚
SIDE STORY
28/32

姉さんと子犬くん:1

響さんのその後の話です

「広報部から異動になりました小泉です。よろしくお願いします」

 他の異動者と同じように、百人以上いるであろう企画部の面々に小泉は挨拶をする。

 朝教えられた新しい自分の席に腰を下ろすと、隣席の女性社員から「よろしく」と手を差し出される。

 小泉はその手を握り返すと、にっこりと笑みが返ってくる。

「響です。よろしく」

「ねえさーん」

 響が振り返り、小泉が続いて声の主へと目を向ける。

「どうしたの?」

 姉さんと呼ばれた響は、困惑顔の女性に問いかける。

 問われた女性の首から掛かる社員証が派遣や契約社員に渡されるものだったのを、目ざとく小泉が確認する。

「すみません。ミスりました」

「ミス?」

 くるりと椅子を回して、響が派遣社員の女性に首を傾げる。

「支社に昨日発送した資料なんですが、訂正前の版のものを送ってしまいました。すみませんっ」

 青褪める女性に対し、響はふっと口元を緩ませる。

「大丈夫よ。訂正版をもう一度送って。各支社には私から連絡しておくわ」

 それでもすみませんと恐縮しきりな派遣社員に対し、響がポンっと肩を叩く。

「致命的なミスをしたわけじゃないわ。次から気をつけてね」

「……はい。すみませんでした」

 とぼとぼと肩を落として歩く派遣社員に対し、小泉は心の中で溜息を吐いた。

 資料を発送するという簡単な作業を間違うなんてと、責める言葉が湧いてくる。けれど対する響は飄々とした表情をしている。

「一件だけメールするからちょっとだけ待ってて」

 そう言うと、響は軽快にパソコンのキーを叩き出す。

 先ほどのミスとミスとも思っていないかのような様子で、彼女の表情は終始一貫して柔らかなものだ。

 それが何故か小泉を苛立たせる。

 メールを送信し終わった響が業務の説明をするというので、複数あるミーティングスペースの一つに移動する。

 向かい合って座り、小泉は響の表情をまじまじと眺める。

 朝からずっと良い意味で表情が変わらない。仕事をしているにも関わらず、どこか上機嫌で楽しそうにさえ見える。

 そんな小泉の視線など我関せずといった様子で、響が小泉に問いかける。

「小泉さん、入社以来ずっと広報だったんですか?」

「はい。修士で大学院卒業して、入社後は3年ずっと広報でした」

「……ということは、今27歳?」

 指折り数える響の様子は、仕事が出来る女性にしては幼い仕草だなと小泉は思った。

「そうです」

「じゃあ同い年なのね。といっても私は専門卒の6年目なんだけど」

「え?」

「えって何?」

「すみません。年上なのかと勝手に思ってました」

 白状する小泉を響が豪快に笑い飛ばす。

 あはははという笑い声がパーテーションに吸収されていく。

「老けて見える? まあ落ち着いて見えるという事にしておきましょうか」

 クスクスと笑い声をあげている響に、小泉が先ほどの派遣社員のミスのことを口にする。

 あれでいいんですか? と。

「良くないと子犬くんは思うのね?」

 子犬君。それは広報部で付けられていた小泉のあだ名だ。

 まさかそれを知られているとは小泉は思ってもいなかったので、少々不機嫌そうな表情に変わる。

 よく噛み付く子犬のようだというのがその異名の由来であると本人は知らない。

 所以を知る響はにっこりと笑ったまま、両手を顎の下で組んで問いかける。

「小泉です」

「知っているわ。どういう対応をしたほうが良いと思ったの?」

 同い年なのに先輩風ふかせて、と少々小泉が気を悪くしている事をうすうす勘付いてはいるものの、知らぬ存ぜぬを貫き通す。

「もう少し怒るとか」

「怒るのは簡単だけれど、本人がミスに気が付いて十分に反省しているようだったから、それ以上追い詰める必要は無いでしょう?」

 響の問い掛けに、小泉は両の眉を寄せる。

 明らかな不快に対しても、響は一切その表情を変えない。

 笑顔の仮面。

 仕事中の響は常にそれを被ることを意識していた。誰にも隙を見せないようにと。

「本人がきちんと気が付いている。もう十分に自分を罰している。怒って追い討ちを掛けてへこませるよりも、前向きに対処法を考えたり、今出来る事をして自分のミスの結果を冷静に受け止めて貰う方が大事だと思わない?」

「理想論です」

「そうかもしれないわ。でも私は怒って人の成長を促したいとは思わないの。自分も相手も嫌な気持ちになるでしょう?」

「……そうですけれど」

 ふっと息を吐いて、小泉は表情を緩ませる。姉さんと呼んで響に泣き付いた派遣社員と、それを受けとめる響の姿を思い出したからだ。

 その表情には先ほどまでの不快感は全く無くなっている。

「だから姉さんなんですね。懐深すぎてオトコマエです、響さん」

 くすっと響が笑みを浮かべる。

「じゃあ子犬くんも、姉さんって呼んでも良いわよ」

 今度は小泉がはははっと笑い声を上げる。

「気に入ってるんですね、姉さんっての」

「まあね。かっこいいでしょ?」

 格好良いかどうかはともかくとして、響は「姉さん」という呼び方を気に入っていた。

 だから小泉もそう呼んでくれたらなと漠然と思った。

 とはいえ、二人がお互いを名前以外で呼び合うまでには少々の時間が掛かる。

 が、同い年であっても圧倒的な経験の差と、優秀と揶揄される響の仕事ぶりをすぐ傍で目の当たりにしては、キャンキャンよく吼える「子犬君」も「姉さん」と呼ぶことに抵抗感が無くなり、自然と響を姉さんと呼ぶようになっていった。


「子犬くーん」

 響がそう呼ぶのを、小泉はコピーブースで苦笑して受け止める。

 出張の準備をしていた響なのだが、小泉に声を掛けるためにコピーブースまでやってくる。

「どうしたんですか?」

「課長の奥様が入院されたそうなのよ」

「入院?」

「ええ。詳しくは聞いていないのだけれど、数日お休みされるそうなの。それで明日からの近県の支社の説明会に課長が行けなくなったので、主任と相談したのだけれど、主任と私と子犬くんで回るのはどうかという事になって」

 小泉はプリンタから書類を手に取り、響と肩を並べながら話を聞く。

 現在小泉は響の進めている案件のほかに、他の社員との共同で進めている企画もある。

 課長の方針で、現在担当内の一通りの企画に顔を出させてもらっている状況だ。企画に異動して半年ほど経ったが、独り立ちさせるにはまだ早いということで。

 頭の中で、他の企画の進捗状況などを考える。

 が、現状はあくまで他の社員の補佐でしかないので、主任が行けといえばそれに従うしかない。

「明日はどこですか?」

 問いに、かつて響が在籍していた支社の名を上げる。

 ふと「姉さん」の土台を知れそうな気がして興味が湧いた。

「特に急ぎの案件などありませんし、かばん持ちくらいしますよ?」

 冗談交じりに言うと、響が笑みを洩らす。

「じゃあ資料とプロジェクタと、それからマイクセットでしょう。あと何かあるかしら。そんなに持てる?」

「資料は今日中に支社に送っておいて下さい。プロジェクタは支社にもありますから、持っていく必要はありません。それから……」

 軽快な小泉のツッコミに響があははっと笑い声を上げる。

「困ったわね。持ってもらうものが無いわ」

 真顔を作った響に対し、小泉が表情を崩す。

 まだ付き合いは長くないが、仕事の先輩である響に対し、小泉は好意を抱いていた。

 偉ぶったところが無く、誰にでも気さくで、時に冗談さえも飛ばして、ざると言っても過言でも無いほど酒に強い響。

 主任もいるが、一緒に外出できるというだけで彼の心は軽くなる。

「では姉さんが転んだ時にはお姫様抱っこが出来るように両手を空けておきますよ」

 その冗談に響はいつもの笑顔の仮面で笑みを返す。

 響はというと彼の好意に気付かず、いまだ心の中に燻る思いと向き合う事を拒否し続けていた。

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