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「迷惑がられてるのに、猛アピールらしいね」
「そうなんだ」
クスクスという笑い声と嫌な視線。
信田さんは何とかしてくれるって言っていたけれど、業務上の事はともかく、この陰口まではどうにもならなかったのかもしれない。
相変わらずひそひそと嫌な笑いと視線が向けられる。
ふっとロッカーの陰から4月入社の情報システム所属の同期の顔が見える。
ああ、どこかで聴いた事がある声だと思ったら同期だったかー。
がっくりと肩を落としたい気分に襲われるものの、以前出水さんに言われた言葉を思い出す。
やましい事がないのなら胸を張っていればいい。
でもっ。物事には限界というものがあると思います、出水さん。
「ほんっと。人って見かけによらないわよねー」
下卑た笑みと視線が合い、かっと視界が赤色に染まる。
怒りに打ち震えるっていうのは、こういうことかと身をもってわかった。
新入社員だからとか、仮配属の身だからとか、教わっているのだからとか、色々、色々我慢してきたけど。
もう。我慢できないっ。
ガンっと音がけたたましくなるほどの勢いでロッカーを閉めると、同期たちが「こわー」と身を竦めて笑う。
「うるさいっ。言いたいことあるならはっきり言えばいいでしょっ」
睨み付けてやったのに、クスクス笑い声が返ってくるだけだ。
もう話にならない。
乱暴にロッカーに鍵を掛けて、鞄とコートを引っつかんでロッカールームを大股で横断していく。
途中こっちを見ている人と視線があるけれど、皆一様に視線を逸らしていく。
厄介事には巻き込まれたくないっていう感じで。
「くだらない噂を広めてるの、あなたたち?」
同期たちの前に立つと、互いに顔を見合わせて肩を竦めてみせる。
うわー。人を腹立たせる天才だわ、この人たち。同期には恵まれなかったなぁ、本当に。
実際に働いてみたら良い人ばかりだった営業を「ギスギスしてるよ」と教えてくれたのはこの人たちだったっけ。
イラっとしたけれど、とりあえずは怒りを噛み殺す。
「じゃあ、誰」
自分でも思いのほか低い声が出た。
その声に慌てたように、同期の一人が口を開く。
「知らないわっ。営業からの噂で聞いたって、あたしだって噂で聞いただけだものっ」
「ふーん。根の葉もわからない噂広めて楽しい?」
バチっと火花が散ったけれど、気にしてなんていられない。
どうせ大勢いる同期たちの中の数人でしかない。いちいち嫌われたらどうしようとか気にしていたってしょうがない。この支社にいる同期だけが同期なわけじゃない。
元々宣戦布告してきたのは、相手のほうだ。
「悪いけど、石川さんには全くもってこれっぽっちも興味は無いから。彼氏いるし、わたし」
「……え?」
問い掛けは同期たちではなく、どこにいたのかロッカールームの中にいた別の人から上がった。
そのほうにちらっと視線を向けると、南さんが立ち尽くしている。
「聞いてません? 飲み会の席で話したことありますよ。ねえ、荒木さん」
心配そうにこちらを見ていた荒木さんに問いかけると「ええ。そうね」と同意を示してくれる。
荒木さんは深い溜息と共に、言葉を吐き出す。
「この間イントラネットで確認してみたけれど、写真が載っていなかったわ。彼に社員録に写真掲載するように伝えてくれるかしら。折角だから水谷さんがベタぼれの彼を見てみたいわ」
ナイスアシストです、荒木さん。
どうやら荒木さんは陰険に陰口を叩いている側の人間ではなかったようだ。
互いに気まずそうに顔を見合わせている同期のことは、視界に入らないことにする。
「伝えておきます。でも見せびらかすみたいで恥ずかしいんで、そのうちにって事で」
「あら。あれだけノロケておいてそれは無いんじゃない?」
ふふっと笑った荒木さんの目が笑ってない。その視線の先にいる同期たちは一体どんな気分なんだろう。
美人が怒ると怖いって本当だ。
「じゃ、そのうち現物見せるということで。ではお先に失礼します」
くるっと踵を返してロッカールームから出ようとすると、荒木さんの盛大すぎる溜息が聞こえてくる。
やっぱり巻き込んじゃったのは迷惑だったかも。
後でお詫びのメールしておこう。
そう思いながら廊下を闊歩していくと、携帯がメールの着信を告げる。
何の気なしに見ると、それは荒木さんからで「19時集合。いつもの場所」と短い内容のメールだった。
どうやら荒木さんの説教を喰らうことになるらしい。
苦笑しつつ「了解しました」とだけ返信する。
とりあえずは、諸悪の根源を絶つのが先だ。
敢えてエレベーターを使わずに階段を上り、営業課のある階までやってくる。
歩いている間に少しだけ頭は冷静になったのは良かった。そうじゃないと、本気で怒鳴り込んでしまいそうだから。
社員証をセキュリティに通してカチャっという開錠の音を聞いてから扉のドアノブを回す。
今日は残業禁止日だったので、室内には片手で数えられるほどの人しか残っていない。
目指した相手が今日残業申請を出した事は知っている。
「石川さん。お仕事中すみません」
加山さんと資料を見ながら立ち話をしている石川さんに声を掛けると、石川さんが仕事の顔から少しだけ和らぐ。
「どうした?」
問い掛けてきた石川さんは、加山さんに小声で「戻ってて」と伝える。
「ここ、手直ししておきます」
「よろしく」
業務連絡な会話を交わした後、加山さんは自席に戻っていき、石川さんだけが目の前に残る。
「どうした? 今日は残業禁止の日だけど」
「あのっ。一つだけいいですか?」
「ああ。構わないけど」
視界の端に信田さんが組合の腕章をつけて立っているのが入ったけれど、もうここまで来たら一言文句を言わなきゃ気がすまない。
「わたしに関わるの、やめてください」
「はぁ?」
何の事だといわんばかりの間抜けな返答に、一層腹が立ってくる。
「すっごい迷惑してるんですよ。仕事しにくいったら無いです。寧ろ会社来るの嫌になるくらいなんです。もううんざりなんです」
「……お前、何言ってんの?」
石川さんの顔が思いっきり曇った。声のトーンもいつもよりも更に低いトーンに変わる。
明らかに纏う空気が変わったのはわかった。けど、例え怒らせたとしても、それでもちゃんと伝えなくてはこの苛立ちは納まらない。
「わたしがいつ石川さん狙いなんて公表しました? 大体いったいいつわたしがそういう態度を取りました? そういう噂を流されて本当に迷惑しているんです。営業の楽しさどころか、現状人間関係の煩わしさしか学べてませんよ。石川さんのせいで」
「……俺が、何だって?」
「だからっ。色々事実と異なる噂を立てられてて迷惑してるんです。ずーっと我慢してましたけれど、会社辞めたくなるんで、わたしに関わらないで下さいっ」
髪を掻き揚げた石川さんの視線が鋭く、びくっと肩が震えてしまう。
「誰がその噂流してんだ。お前の彼氏の事なら営業のヤツラ知ってるだろ。それでもお前に嫌がらせとかするアホはどいつだ」
重低音が石川さんの怒りを表している。
「逆に教えて下さい。石川さんは誰に言ったんですか? わたしに迷惑してるって」
「んなこと言ってねえ。別にお前に迷惑なんてしてねえし。っていうか、お前もキレる前に一言相談位しろよ」
「してますっ。信田さんにっ」
石川さんの視線の先の信田さんは、がっくりと肩を落とした様子で溜息を吐き出した。
「悪い。この案件は俺が預かってるんだよ」
チっと舌打ちした石川さんと視線が合うと、びちっと良い音を立ててデコピンされる。
「いたっ」
「当たり前だ、バカ」
ふうっと深呼吸をしたかと思うと、石川さんは元の冷静な石川さんに戻る。
さすが。仕事が出来るというのは伊達じゃない。
「要会議。この後飲み行くぞ。仕事終わらすから、その辺で待ってろ」
命令口調の石川さんはいつもどおりなのだけれど、それさえも苛立つ。
「荒木さんと約束があるから無理です」
「うっせぇ。お前に拒否する権利は無い。ゆう、19時までに終わりそう?」
「終わります。元々残業申請は19時までしか出していませんし、特に問題ありませんよ」
パソコンから顔をあげた加山さんに、石川さんがふっと微笑む。
「んじゃ仕事すっか。ゆう、さっきの資料の手直しは?」
「もうすぐ終わります」
わたしに話すよりもずっと柔らかな口調で石川さんが加山さんと会話を始める。
とてもじゃないけれど、口を挟む余地なんて無い。
仕事の会話だという事もあるけれど、聞きなれない「ゆう」という呼び名からも、二人の間の特別な何かを想像する事は容易い。
普段からそうしてくれていれば、変にわたしが誤解される事も無かったのに。
八つ当たり気味な気分で二人を見ていると、信田さんに肩を叩かれる。
「水谷さん。巡回もうすぐ終わるから、ちょっと話しましょう」
当然拒否する権利はありません。




