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その何か嫌な感じがするなというのを感じるまで、多分一週間は掛かっていなかったように思う。
発端は多分あれ。
そして今も飛び交うヒソヒソ声。
帰り支度の為ロッカールームで私物を取り出していると、見えないところから聞こえてくる噂話。
「ねえ、聞いた? 例の新人の話」
「石川さん狙いなんでしょー。露骨らしいじゃない」
「でも大したことないわよ、ほらほら」
「ほんとーだ。でも意外よねぇ。そういう感じには見えないもの」
クスクスという笑い声には悪意が全開。
何でわたしがこんな目に。
既に苛立ちを通り越して泣きたい気分になっている。仕事をしている時はいいけれど、それ以外の時間は針のむしろとしか言いようが無い。
「やっぱ、外国帰りでお盛んなのかしらねー」
「ねー」
同意する声に唇を噛み締める。
本当になんでこんな事言われなきゃいけないんだろう。
涙が零れ落ちる前に、ロッカーの扉を少し乱雑に閉めて鍵をする。
以前鍵を掛け忘れた時に、化粧道具が無くなっていたことがあったので、鍵がきちんと掛かっているか再確認してからロッカールームを出る。
「お疲れ様です」
出たところで二担の鬼と呼ばれる出水さんとすれ違ったので、咄嗟に頭を下げる。
ポンっと肩を叩かれたので振り返ると、いつものニヤリという笑いではない苦笑を浮かべている。
「そうやって肩を落としていると弱みに付け込まれるわよ。やましい事が無いのなら胸を張っているほうがいいわ」
「え?」
聞き返したけれど、肩を叩くだけで出水さんはロッカールームの中へ入っていってしまう。
どういう意味か聞きたかったけれど、中に追いかけていく勇気は無い。
出水さん自身が怖いというのもあるけれど、またあの噂話を聞くのはちょっと……。
溜息を吐き出し、鬱々とした気持ちを抱えながらエレベータに乗り込むと、わたしの疫病神がそこにいる。
「よお」
「……お疲れ様です」
何でまたここで会っちゃうかな。
がっくりと肩を落としたわたしの気分など、どうにも気付く素振りも無い。
「今帰り?」
「はい」
見てわかるでしょっ。と言いたくなるのは、心が荒んでいるせいかもしれない。
「じゃあ暇ならちょっと飲みに行こうぜ」
「行きません」
きっぱり言い切ったわたしに、石川さんは面白いものでも見たかのように眉を引き上げる。
「断られちった。あーあ。今日は珍しく加山がいるってのに」
「ほんとですかー! じゃあ行きますっ」
思いっきり食いついたわたしにくくくっと石川さんが喉を鳴らして笑う。
石川さんの斜め後ろに立っていた信田さんも肩を揺らして顔を背けている。
「お前本当に加山好きだなぁ。そっち方向の趣味でもあんの?」
「違いますっ。変な噂流れるからそういう事言うのやめてください」
半分以上本気で言っているのに、石川さんと信田さんの笑い声は止まらない。
もー。ただでなくとも人間関係面倒くさいことになっているのに、余計な噂撒き散らさないでよ。
エレベータに同乗している他の課の人が、ちらちらこっち見てるのに。
「後は誰が来られるんですか?」
「女は南と荒木」
返答と同時にエレベータが開き、とんっと肩を押される。
「じゃ、行きますか」
信田さんのふんわりと優しい声が、帰りますという拒絶を示す事を拒否している。
笑顔でにっこりと帰ることを許さないと伝えてくる。
結構怖いかも、信田さん。
折角飲み会の席に珍しく加山さんがいるっていうのにも関わらず、加山さんから遠く離れた席で、現在信田さんの事情聴取中。
仕事の事で指導されているのだとみなされ、誰からも距離を置かれているこの現状。
信田さんは担当長の次に偉い主任なので、確かに信田さんに新入社員のわたしが説教されててもおかしくないけれど。
「で。仕事面でのトラブルは今のところ無いって事でいいのかな?」
どうやら信田さんはわたしを取り巻く不穏な空気に気が付いていたようで、仕事はどう? 慣れた? から始まって、今はその地味な嫌がらせの話題に。
「特に無いです。影でこそこそ言われるくらいで、それ以外には何も」
「……ふーん。じゃあ営業のヤツラは関わってないって事かな」
「今のところ面と向かって何かを言われたりする事は無いので」
「噂が一人歩きしてるってところでしょ。でも俺の耳にも入ってくるくらいだから、それなりに広まっていると思ってもいいかもしれないね」
信田さんの残酷な宣告に、気持ちがずどんと重くなる。
まだ営業に来て一月も経っていないのに、何でこんな事で振り回されないといけないんだろう。
「仕事もちゃんと出来ないのに、こんな事で気を使っていただいてすみません」
咄嗟に謝りの言葉が出る。
信田さんは苦笑して首を横に振る。
「いや。水谷さんが気にしなくていいよ。預かった新入社員をきちんと教育して一人前にするのも仕事のうちだからね。それより、こういう事になった原因って心辺りはあるかな」
「多分、なんですけれど」
「うん。何だろう」
「……賭けのせいだと思います。石川さんとの」
「あれか」
はぁっと溜息を吐き出して、信田さんが髪を掻き揚げる。そして幾分鋭い目つきで加山さんや南さんと楽しそうにお酒を飲んでいる石川さんを見る。
事の発端は営業配属一週間目の事。
四担と五担の親睦会という事で、一週目の金曜日の日に飲み会があって、四担に仮配属になった同期と共に参加した。
その時に希望部署はどこかって話になって、四担に配属になった同期二人は技術職で採用されているから開発を希望してて、わたしは海外事業部を希望しているっていう話になった。
そこでお酒に酔っていたのかゴキゲンになっていた石川さんが「営業の楽しさを教えてやる。お前ら全員営業希望にしてやる」とか言い出して、四担五担で賭けをする事になった。
そこからやけに石川さんが担当違うのにも関わらず絡んでくるようになって、そして現在の嫌がらせと陰口に晒される現状に至っている。
「どこをどう話が食い違っているのかわからないんですけれど、わたしが石川さんを落とせるかどうか賭けをしているという噂になっていまして」
「……訂正した?」
「面と向かって言われれば訂正のしようもあるんですけれど、こそこそ物陰で言ってて姿が見えなかったりで」
「出来てないか。そうか、まあ否定して歩いても余計に怪しく思われるかもって思ったんでしょう?」
「はい」
どうしてこんな思いをしなくてはいけないのだろう。
理不尽な嫌がらせに心が折れそうになる。早く営業研修が終わればいいのに。早く支社研修が終わればいいのに。
「あのさ、一応確認させて貰っても構わないかな」
俯いていると頭上から信田さんの声が降ってくるので、はっとして顔を上げる。
「……石川に、特別な感情はあるのかな」
「無いです。一切興味ありませんので、ご安心下さい」
ふっと信田さんが視線が和らぐ。
「言いにくいことを言わせて悪かったね。じゃあ仕事がしにくくならないよう、ちゃんと何とかするから」
ポンポンっとわたしの肩を叩くと、信田さんは煙草を持って立ち上がる。
立ち上がった信田さんとは入れ替わりに、南さんと二担の荒木さんが陽気な様子でやってくる。
多分、深刻な様子で話し込んでいたのを気にしてくれていたのだろう。
南さんとは信田さんと話している間に、何度か目が合ったから。
ふと視線をずらすと、入り口に一番近いところに座っている加山さんに信田さんが声を掛ける。
煙草を吸いに行った信田さんは、どうやら加山さんを誘ったらしい。二人が肩を並べて座敷から出て行く。
「仕事、楽しい?」
南さんの問い掛けに、はっとして視線を戻す。
楽しいか。その問いに即答できずにいると、くしゃっと南さんが表情を崩す。
「支社の営業じゃ、つまらないでしょう? 海外事業部でバリバリにやりたいんだもんね、水谷さん」
その思わぬ棘に、荒木さんが柳眉を寄せる。
何かを言わんと口を開きかけた荒木さんの言葉に被せるように、南さんが更に続ける。
「折角の英語力、ここじゃ生かせないもんね。勿体無いよ。支社にいたら。で、英語ってどのくらい話せるの? 何年くらい向こうに行ってたの?」
さっきのは聞き間違いなんじゃないかって言うくらい、いつもの優しい南さんの口調で問いかけられる。
あまりにもいつもどおり過ぎて、その雰囲気に流されていく。
おしゃべりの輪はいつの間にか広がって、南さんも荒木さんも笑っている。混ざってきた他の社員の人たちもみんな笑っている。棘があるなんて考えすぎかもしれない。
営業はみんな仲がいいって、支社の中でも評判なくらいだもの。




