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あと一駅。あと一駅の我慢っ。
自分にそう言い聞かせるけれど、我慢はそろそろ限界を超えそうだ。
ぞろりと這い回る気持ちの悪い掌の動きから逃れようとするけれど、意外にも混んでいた電車の中ではそれが難しい。
やめてくださいっ。
そう言えればどれだけ良いだろう。だけれど体が震えて唇も震えて、声を紡ぎだすことさえ難しい。
手すりに掴まって残りの数分を耐えていると、さっきの駅から乗ってきた日本人形みたいな髪型をした女の人と目が合う。
不思議そうに首を傾げ、そして次の瞬間ぎゅっと険しい表情に顔色を変える。
そのすべてを瞳に映していると、ふいにぐいっと腕を掴まれる。
びくっと体に震えが走ったのと同時に、這い回る手が止まる。
「あれ。この電車だったっけ? おはよう」
わたしに向けられたその声に、体からすごい勢いで手が離れていった。
知り合いでもないのに、まるで知り合いみたいな風に親しげに声を掛けてくれた人に顔を向ける。
目が合った日本人形みたいな顔の人が、にっこりと微笑んだ。
そして次の瞬間、周囲の人の迷惑など気にしないかのような素振りでぐいっと腕を引っ張って、わたしを引き寄せる。
ぎりっとわたしの背後を睨みつけている横顔に、助けてくれたんだと悟った。
怖くて後ろは振り返れない。
わたしと同じような細い腕が一生懸命見ず知らずの他人のわたしを助けようとしてくれている事が嬉しくて、視界が涙で霞んでいく。
「もう大丈夫だから」
優しい声に心が震える。
この人は怖くないんだろうか。こうやって痴漢と対峙する事に。
全くの他人のわたしを助ける事に。
ありがとうという言葉さえ、震える唇では紡ぐ事も難しい。
ゆっくりとブレーキを掛けてホームにすべりこむ電車の中、その人はずっとあたしの背後を睨みつけている。
二度と不快な手が伸びてくる事は無かった。
ホームに着き扉が開くと、どんっと体を押されるようにして押し出される。
走り去るような男の人のスーツが視界に入ったけれど、それをどうこうしようとは思わなかった。
ふーっと溜息が耳を掠め、わたしの腕を掴んでいた手が緩む。
「大丈夫ですか?」
問われて、改めて助けてくれた人を見つめ返す。
黒くて真っ直ぐな長い髪。
多分わたしと背丈が変わらないか、もしかしたら低いくらい。それにすごく華奢だ。
こんな人が赤の他人のわたしを助けてくれたんだ。
「ありがとうございますっ」
がばっと頭を下げると、目の前の人が苦笑いを浮かべる。
「何もしてないですから。鉄道警察行かれます? もし行くならご一緒しましょうか?」
「大丈夫です。そこまでご面倒掛けられません。本当にありがとうございました」
「いいえ。わたしは何も。では失礼します」
踵を返して階段へと向かうその人の背中に、もう一回頭を深く下げた。
後をつけるつもりはないけれど、前を歩くその人と同じ方向に向かっているようで、完全にストーカーのように背後を歩き続ける。
ああ、折角助けてくれたのに、こんな不審者丸出しの姿を見られたら、助けるんじゃなかったと思われたりしないかな。
そんな不安を抱きつつも、方角が同じなのだからしょうがないと開き直り、背後を歩き続ける。
ふいにその人が足を止めたので、思わず足を止めて距離を保つ。
傍に歩み寄ってきた男の人が声を掛けた。
「おはよう。ゆう」
「おはようございます、石川さん。今日はいつもより早いんですね」
「そうかー? ああ、バスが早く駅に着いたから」
「渋滞してなかったんですね。良かったですね」
話しながら改札を出る二人は、目的地が同じだったみたい。なんて偶然っ。
けれど同じエレベーターに乗る勇気は持ち合わせていないので、暫く入り口の傍で携帯を弄りながら時間を引き延ばした。
そうこうしていると、同期がやってきて声を掛けられる。
今日から約三ヶ月の支社研修。
どうやらすごーく良い人がいる支社のようだ。
九月採用組と技術採用者を対象とした支社研修は、四月採用組の本配属の後に行われる。
当然支社の中には同期も多い。
本社で研修をしている間に顔見知りになった同期の中にも、この支社で研修をした人がいる。
そんな同期たちの会話の中心は、イケメンがいるかどうかというもの。
確かに、気になるよねー。そういうのって。
幸いにも彼氏がいるので関係ないけれど、フリーの子たちは必死だ。しかも技術採用組は。
なかなか出会いの場が無い技術職になると、こういう機会は大事なのよーと本社で研修している間に散々言われた。
そんな同期の間で噂になっているのが、営業課にいるらしい二人のイケメン。
噂になるくらいなんだから、すっごいイケメンなのかも? と興味はある。
けれど支社研修の最初の一ヶ月は営業課とは関わる事は無い。
総務研修一週間、その後営業企画研修三週間。
そしてやっと営業研修になるわけだ。
当分はその噂のイケメンさんたちに会う事はないだろう。
でもわたしの興味は、それよりもあの日本人形さんがどこにいるかだ。
もう一度顔を合わせたときには、もっとちゃんとお礼をしよう。そう心に決めていたから。
初日の研修が終わり、与えられたロッカーで支社配属になっていた同期たちと顔を合わせる。
「久しぶりー」
「ああ、久しぶりー。研修ここだったんだ」
「うん。そうそう。今日から二ヶ月よろしくね」
入社時期は違うけれど、本社での研修で顔を合わせたことがあったりする人もいるので、全く知らないわけではない。
何人かの見知った顔に挨拶をし、流れで夕食を食べてから帰ることに決まった。
「あれ? 瀬戸は?」
誰かが同期の一人の名前を出す。それに対し、くすっと誰かが笑い声を上げる。
「瀬戸はまだ営業から帰ってきてないよ。あの子すっごーく絞られてるから。二担の鬼に」
「二担の鬼?」
妙な呼び名に思わず聞き返すと営業課所属であろう同期がにやりと笑う。
「一ヶ月後、覚悟しときなー。営業課には二人の鬼がいるんだよ」
あははははっとロッカールームの中に笑う声が広がっていく。
「そうそう。二担の鬼と、四担の鬼ね」
夕食の間も、その話題で持ちきりになった。
支社に本配属になった同期たちは、一度は鬼の洗礼を受けているらしい。
噂のイケメンよりも、鬼と噂される派遣さんたちの事で話題はもちきりだ。
今更ながらに女という生き物は、同性の噂話と悪口ほど盛り上がれるネタは無いらしい。
「営業に仮配属になっても、一担以外は地獄だもんねー。あの二人の鬼から逃れられるの一担だけだもん」
今は資材部所属になっている同期が切り出すと、営業課の同期がうんうんと首を縦に振る。
「先輩は優しいけれど、にやりと笑って出水さんが書類を持ってくるとそれだけで冷や汗かくんだよ」
「出水さん、何か指摘する時嬉しそうだよね。何でいつも笑って重箱の隅突いてくるんだろう」
「だから嫁の貰い手無いのよー。噂では信田さんと同い年なんだって?」
「え? そうなの?」
「そうそう。それなのに浮いた噂一つ無いんだもん。お気の毒よねー」
「ねー」
同意しているけれど、めちゃくちゃ嬉しそうでお気の毒だなんてこれっぽっちも思っていなそう。
飛び交ういくつかの名前のうち、出水さんというのが二担の鬼の事で、加山さんという人が四担の鬼だという事はわかった。
信田さんというのは、また新しい名前で、わたしはうんうんと相槌を打つので精一杯だ。
「もう一人の鬼は相手いるらしよ」
「え? そうなの? あの無表情の仕事マシーンに彼氏いるの?」
「らしいってだけで、噂だよー。なんか首にキスマークついてるの見たって人がいてさ」
「えー!!」
支社同期たちの驚きの大合唱についていけず、仮配属の同期たちと顔を見合わせる。
「超意外じゃない? えー。全然そういうの想像つかないー。笑ってる姿も稀にしか見ないのに」
「ねー。しかも首にキスマークってねえ」
下卑た笑みが広がっていく。
なんか、営業課での研修が色んな意味で不安になってきた。
鬼はいるし。何か噂が酷そうな職場だし。
聞いているだけで、支社研修の先行きに不安を感じてきた。それは他の仮配属の同期たちも同じだったようで、一様に顔を引きつらせていた。
早く支社研修終わらせて本社に帰りたい。まだ初日なのに。




