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Egoist  作者: 来生尚
秘密の恋人
22/32

 色んな紆余曲折があって(元妻の登場とか)揉めたりもしたんだけれど、結局ダーリンと結婚するって決めて、二人で話し合って会社は辞めることにした。

 同じ職場で毎日顔合わせるっていうのも悪くないし、元妻と違ってあたしは派遣だから、ダーリンと立場がどうこうとかで揉めるって事は考えにくいんだけれど、それでもお互いの距離を取るために辞めることにした。

 それについては全く後悔していない。

 一緒にランチをしたりとか、一緒に飲み会に行ったりとかしなくなるけれど、それでもいいんだ。

 朝から晩まで顔つき合わせているのって、結構辛い。

 たまには相手のいないところでゆっくりのんびり羽を伸ばしたいというか。

 オンとオフの切り替え?

 まーそういうのも大事かなって思って。

 そんな話をしながら送別会でお酒を飲んでいると、とんとんっと肩を叩かれる。

「煙草いかね?」

 そんな石川さんの誘いに、ちょっと席を外すねと桐野ちゃんと加山さんに告げて席を立つ。

「お疲れ。飲んでる?」

「飲むより話してるっ」

 即答すると、くくくっと石川さんが笑う。

「沙紀ちゃんらしいな」

 ライターから火を灯しお互いに紫煙を燻らせる。

 ああ、そうか。こうやって石川さんと煙草吸ったりお酒飲んだりするのも最後なんだ。

 急にそんな思いが込み上げてきて、なんか胸がきゅんっとなった。

 古い恋のカケラがどこかノスタルジーな気分にさせる。

「明日からあたしがいなくて淋しいでしょー」

 ノスタルジーを追い出すようにハイテンションで切り出すと、ははっと石川さんが笑い声を漏らす。

「淋しすぎて毎日枕を涙で濡らす事になりそうだな。今からでも辞めるっての撤回しない?」

「無理無理無理ー。明日から行く会社も決まってるし、それにこんなに盛大に送別会されたのに明日また出社したら超間抜けじゃない?」

「ははっ。確かにそうだな」

 ふーっと煙を吐き出した石川さんが、ポンっと頭の上に手を置く。

 何だろうと思って高い位置にあるその横顔を見上げると、目を細めてあたしを見つめている。

 もう少しでいつもの下がり眉になってしまいそうな、ちょっと情けなくなる手前の顔で。

「色々ありがとな」

 その色々っていうのが、口には出せない沢山の秘密の事だろうというのは、なんとなく伝わる。

 お互いあれ以来その件については口には出さないでいた。

 石川さんの女性関係のあれこれにも口を挟まず、桐野ちゃんと色々あった時は桐野ちゃんのフォローに回って石川さんを締め上げるような事をしなかったし、加山さんの件でも特にあれこれ聞こうともしなかった。

 聞く権利や責める権利があたしには無いことを知っていたから。

 秘密の関係を終わらせた時、そう線引きしたから。

 石川さんとは距離を置く。それがあたしのけじめであったし、ダーリンへの誠意でもあった。

 もう一年以上前に終わった恋のカケラ。

 それが今一瞬だけあたしと石川さんの間で輝いている。

「……あたし、後悔してないですよ」

「ん?」

「色々です。色々」

 それだけで察しの良い男はわかったようだ。「ああ」と呟いてあたしの髪を撫でていく。

 情欲を感じさせるようなものではなく、あくまでも慈しむように。

 今石川さんの想いのありどころが自分では無いというのは判っているし、それに自分の感情も石川さんへは向いていない。

 けど、それはとても心地好く、心の中に温かいものを広げていく。

「今だから教えておきますね。あの頃本当はあたし、すっごーく好きだったんですよ」

「へえ?」

「だけれど自分を押し付けたら嫌われると思ったの。だからずっと聞き分けの良い女でいようと思ったんだ。理解者? になりたかったのかな。今思えばバカみたいだけれど」

「うん」

「都合の良い女でいれば捨てられないかなって。バカでしょ。だけれど本当はあたしだけを見て欲しかったの。あたしの事だけ好きになって欲しかったの。そんな風に思ってたなんて考えてもいなかったでしょ?」

 にやっと笑うと、石川さんがあたしの左の目尻を人差し指でなぞるように撫でる。

 今は泣いてなんかないのに。変なの。

「どうだろうな。気付いたら何か変わっていたかな」

「どーだろう。変わったかもしれないし、変わらなかったかもしれない。ただ言えるのは、ifは無いって事じゃないかな。あの時、ああすればっていう後悔はさ、考えても無駄だもの。それに今も後悔なんてしてないもん」

「さすがポジティブだな」

 ふふっと笑みを漏らすと、石川さんも微笑む。

「幸せになれよ。してやれなくて、わ……」

「ストップ。それ以上はいらない。今更そういうのいらないから」

 目の前に広げた掌を差し出すと、石川さんがくくっと笑い声を漏らす。

「ホントかなわねえ。沙紀ちゃんにだけは」

「どーだか。あちこちでそんな事言ってるんでしょう?」

 今度はにやりと石川さんが笑う。

 うわー、悪そうな笑顔と思ったけれど口には出さないでおく。

 短くなった煙草を灰皿に入れると、石川さんも煙草を灰皿に押し付けてその火を消す。

 ふーっと最後の煙を吐き出して、再び石川さんがタチの悪い笑みを浮かべる。

「じゃあ今だから教えといてやるよ」

「何をですか」

 少し背を屈めて、わざと石川さんがあたしの耳元に顔を寄せる。

「……好きだったよ。沙紀ちゃん」

 どきんっと胸が大きく音を立て跳ね上がる。

「えっ?」

 聞き返したあたしの視線と石川さんの視線が、比較的近いところで交わる。

 こんな近い距離、最近体験してないのに。

「俺は俺なりに好きだったよ。そうなんだってわかったのは大分後の事だけれどね」

「嘘。絶対嘘。じゃあ桐野ちゃんは? 加山さんは? ついでに緑川さんに田島さんに鈴木さん……響さんは?」

 くすりと笑んで、ポンッと後頭部を撫でられたかと思うと、ぎゅっと石川さんの肩に頭を押し当てるように片手で抱かれる。

 一体何が起こってるの?

 パニック寸前のあたしの頭の上で石川さんが囁く。

「……幸せになれよ。幸せになれるように、俺がちゃーんと信田さんは監視しといてやるからな」

 前半と後半で全く声のトーンが違う。真剣だった口調が一転、茶化したものに変わり、腕の中から解放される。

 あたしの事、好きだったって言った? 一体いつ?

 全然あたしに執着なんてしていなかったし、あくまでも気が向いた時にだけほんの少しの時間を共にしただけに過ぎないのに。

 本当にあたしの事が好きだったことなんてあった? そう聞きたいけれど聞くのは違う気がする。掘り返したって何にもならない。

「いつ?」

「さあ。ナイショ」

 はぐらかし、数歩離れて石川さんは煙草に火を点ける。

「信田さんと付き合って、一年くらいだっけ?」

 本当に答えてくれる気は無いらしい。いきなり話題転換するし。

 今更どうこうなりはしないけれど、聞いておきたかったのに。遊びじゃなかったって言われれば、やっぱりちょっと嬉しいのに。

 じとーっと睨んでみても、石川さんは全くその件に関しては話す気が無いというスタンスを貫いている。

「うん。そう」

 答えてくれる気が無いなら仕方が無い。石川さんの話に乗っておこう。

 あたしも煙草をもう一本咥える。あと一本分だけ話をしよう。

「そんな簡単に結婚とか決めていいのか?」

 心配してくれているんだ。人一倍「誰にでも面倒見の良い」石川さんの事だ。他意があるわけじゃないのは良くわかっている。

 あたしが昔の女だとか、そういう事とは関係なく、知人の一人として心配してくれているのだろう。

 なら、これがきっと最後の恋愛談義だろうから、一つ置き土産をしていってあげよう。

 ふふっと笑って石川さんを見ると、少しだけ首を傾げる。

「石川さーん。心から本気で人を好きになった事無いでしょ」

「何だよ、いきなり」

 ちょっと眉を寄せたけれど、別段いつもと変わらない口調で石川さんは問いかける。

「加山さんの事だって、今野くんから奪い獲ろうなんて思ってないでしょ」

 ふっと鼻で笑ったかと思うと、石川さんがふーっと白煙を吐き出す。溜息と一緒に。

「……まあ、そういう気持ちは無いな。で、それがどうした?」

「いつだって石川さんはそう。自分を全部曝け出してぶつかるような恋なんてした事無いでしょ。いつも一歩引いたところで見てて傷つかないようにしてるの。そうでしょ」

 答えは無い。どうやら「聞く」に徹するつもりらしい。

「必死に足掻いて、泣いて喚いて。傍にいたくて、片時も離れたくなくて。そんな恋はバカらしいと思ってるでしょ」

「……いや。そうは思わないよ。所謂ドラマのような恋だとかっていうのも悪くないと思うよ。でもキャラじゃないだろ。どう考えたって」

「キャラとかじゃなくってね。あたしはそういう人に出会えたからすぐに結婚しても良いと思ったんだよ。だからいつか石川さんもそういう人に出会えたら良いね」

「ノロケか?」

「ううん。呪い。ちゃーんと石川さんが素敵な恋に出会えるように呪っておいてあげる」

 笑ったあたしの頭の上に石川さんの大きな掌がポンっと降りてくる。

 大好きだった人に、あたしは心からの笑みを向ける。

「呪いって、物騒な単語だな」

「あはは。あたしらしーでしょ。結婚式には呼んであげるからね。ちゃーんとそれまでに幸せになっててね。司さん」

「さんきゅー。沙紀ちゃん」

 ぐしゃっと髪を撫でられ、目の前に手を差し出される。

 その手を握ると、ぎゅっと握り返された。

「幸せになれよ」

「石川さんもね」

 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ過去の時間に遡ってみたけれど、交わるだけで重なる事の無い道を歩くあたしたち。

 だけれど心からあなたの幸せを願っている。いつかあなたにも素敵な人が現れますように、と。誰よりも淋しがりで強がりな人のところに。

 大好きだったよ。好きって言ってくれてありがとう。

 もしかしたら「嘘でも好きって言って」って言ったの覚えててくれたのかな。まさかね。

 握っていた手を離すと、今度はパシっと音を立てて手のひらを叩かれる。

「んじゃ、次の土曜日試合だからよろしく」

「げー。あたし試合出たくないって言ったじゃん。人工芝は転ぶと痛いんだもん」

「聞いてねえし、もうリーグ戦エントリーしたから。男女混合チームで」

 相変わらずの自己完結型マイペース人間め。

 一瞬でもほんわかした気分になったあたしがバカだったわ。ペースに巻き込まれないよう細心の注意は必要だったってこと、一瞬忘れるなんて、なんたる不覚。

「じゃあ、またメールする」

 そう言い捨てて石川さんは店内に戻っていく。


 そっと息を吐き出す。

 決して溜息では無い吐息を。

 そしてその背中に向かって心の中でこっそりと囁く。



 ありがとう。



 あたしの秘密の恋は、完全に昇華されていった。

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