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Egoist  作者: 来生尚
秘密の恋人
19/32

 その日を境に、あたしは本当に石川さんへの思いを封印した。

 捨てたっていうよりも封印したってほうが、なんかしっくりくる感じ。

 好きだってのを、ぽーいって投げ捨てるっていうよりは、どっちかというと心の中の押入れに押し込んだって感じだから。

 しかしそんな事があった翌日にも「会おう」と言える石川さんってすごい神経の持ち主だと思う。

 何故かよくわからないけれど、石川さんと信田さんと桐野ちゃんと四人で野球観戦に行った。

 こないだ飲み会の時に桐野ちゃんに「野球見に行こう」って誘ってたアレか? と思ったけれど、何故四人。

 とりあえず腹立たしいからビール奢らせて、枝豆買わせてやったわ。

 ちっちゃいなー。あたしの復讐って。

 傍から見てても桐野ちゃんの気持ちは痛いほどわかった。

 多分、あたしだけじゃなくって信田さんも気付いているんじゃないかなって思う。

 どういう取り合わせでこの四人になったのかよく判らないけれど、桐野ちゃんを全力で応援しようって思うくらい健気だったわー。

 信田さんには石川さんとの関係を疑われているようなので、絶対にそんな事は無いのだと証明する為にも、なるべく二人が話す時間を増やすようにとか気を使ってみたわ。

 そんなこんなで、五回の裏が終わったところで信田さんを煙草に誘ってみる。

 一緒に着いてこようとした石川さんは追い払っておいた。桐野ちゃんには「頑張れ!」とアイコンタクトを送っておいた。

 もくもくと白煙があちこちから上がる喫煙所に着いて煙草に火を点ける。

 ふーっと吐き出したのは煙草の煙だったのか、はたまた溜息だったのか。その両方だな、多分。

 でも溜息を吐き出した事を気取られてはいけない。

「信田さーん」

「ん?」

「信田さん、野球ってよく見に来るんですか? あたしスタジアムなんて来たの初めてなんですよ」

「そうなんだ。楽しめてる?」

 いつもの穏やかな口調で問いかけられて、なんだか職場にいるみたいな気分だけれど、初めて見た私服といつもより少し近い距離感にワクワクするような気分になる。

「はいっ。ビールも美味しいですし、言う事無いです」

 はははっと笑う信田さんが目を細めてあたしを見る。

 信田さんだって、わけのわからない石川さんの呼び出しに付き合わされてるのに、あたしの事を気遣ってくれる。

 それが妙にくすぐったくて嬉しくて、あたしも頬も緩んでいく。

「じゃあまた来ようね」

「はいっ。ぜひぜひ誘って下さいね」

「沙紀ちゃんは、石川じゃなくて俺が誘っても来てくれるのかな?」

 あ。まだ疑っているらしい。

 ここはきちんと訂正しておこう。

「当たり前じゃないですかー。信田さんが誘ってくれたら嬉しいですよ。それに石川さんとは何も無いんですよ」

「ふーん」

 あ。信用してませんって顔してる。もー。何で信じてくれないのかな。

 どうしてだかわからないけれど、猛烈に焦ってきた。信じてくれなきゃ、まずい。そんな感じで。

 石川さんとのこと、信田さんにバレたくない。

「本当ですよ。本当に何も無いんですよっ。信じて下さいっ」

 ムキになるあたしを、ふっと信田さんが笑った。

 それが何故か全部知ってるよっていう風に見えて、どんどんどんどん心の中に焦りが生まれてくる。

 もしかして石川さんが何か言ったんだろうか。

 どうして余計な事を信田さんに言うんだ。一番仲が良かったりしても、言って良いことと悪い事くらいわかるでしょうに。

 くすりと信田さんが笑みを漏らした。

 煙草も吸い終わっていた信田さんが喫煙所から遠ざかるように歩き出したので、慌てて後ろを着いていくと人気の少なくなったあたりでピタリと足を止める。

 芝のグラウンドの方からはワーという歓声が上がる。

 喫煙所の煙はここまでは届いてこず、周囲の人たちの視線も自然と試合の方へと向けられる。

 だけれど信田さんの視線だけはあたしに向けられていた。まるで野球など一切関心が無いように。

「どうして焦って訂正する必要があるのかな、沙紀ちゃん」

 静かに詰問するような声音に、びくっとあたしの肩が揺れる。

 これじゃ何かありますって言っているようなものだ。

 壁に寄りかかったまま、信田さんがあたしを見つめる。あたしの答えを待つかのように。

 しばらく答えを待つかのように黙っていた信田さんだけれど、何も答えられずにいるあたしに一歩二歩と近付いてくる。

 近すぎるほどの距離ではなく、手を伸ばせば届くような距離で信田さんが足を止める。

「沙紀ちゃん。好きでしょ、石川のこと」

「……そんなこと」

 無いです。無いです。絶対無いです。

 そう言えば良かったのに、嘘をつくことを信田さんは許してくれない。優しい声で優しい目をしているのに、誤魔化す事を許してはくれない。

 ただまっすぐにあたしの目の中に嘘が無いかを見据えているから。

 静かなその瞳に吸い込まれるように、視線を外すことが出来ないでいる。

 喧騒が遠くに聞こえるかのように感じ、胸の鼓動が早くなり、その音を大きくしていく。

 どんな言葉を言っても誤魔化せない気がする。だけれど何かを言わなければいけない気がする。

 薄氷の上を歩くかのような心境で、あたしはすっかり乾ききった口を開く。

「もしも好きだったら駄目なんですか?」

「ううん、駄目じゃないよ」

 そう言った信田さんの口調はいつもどおりの落ち着いたもの。

 きっと前みたいに社内恋愛は……って言われるのかなと思った。そう思ったのに。

「だって俺には沙紀ちゃんが誰を好きになろうが咎める権利は無いでしょう」

「え? じゃあどうして」

「わからない?」

「……わかりません」

 考えたけれど答が見つからずに「わからない」と言ったのに、信田さんはふーっと溜息を吐き出して視線を逸らした。

 あたし何か間違えたのかな。

 何故か冷ややかな横顔があたしを拒絶しているような気がして、心がしゅんっと小さく縮こまる。

 嫌われちゃったのかな。

 きっと石川さんに横恋慕してるみっともないヤツくらいに思われてるんだろうな。

 なんかそう思ったら悲しくなってきた。

 だから信田さんには石川さんの事知られたくなかったのに。嫌われちゃうと思ってたから。

「じゃあ、先に戻ってますね」

 何も言わない信田さんの無表情が悲しくて、振り絞るように出した声は震えていた。

 信田さんにだけは知られたくなかったのに。

 嫌われたくなかったのに。

 ぎゅっ。

 背を向けたあたしの手首を信田さんが掴んだ。

 その顔は無表情なんかじゃない。焦ったような顔であたしを見ている。

「信田さん?」

「あのさっ」

 いつもの冷静な信田さんでもなく、さっきまでのあたしを拒絶するような信田さんでもない。

 普段とは違う見たいことのない信田さんにドキっと胸が撥ねる。

 ふわりと髪を撫でられたことはあるけれど、こんな風に肌と肌が接触するのは初めてだ。

「なんて言ったらいいんだろうか。上手く伝わるかな」

 独り言のような言葉に首を傾げて、少しだけ強張っていた全身の力を緩める。

 何かを伝えようとする信田さんに向き合うように体の向きを変える。けれど腕を掴む信田さんの指先が緩むことは無い。

「俺はバツイチだし、沙紀ちゃんより7つも年上だし」

「はい」

 だからあたしの莫迦さ加減が良くわかるという話だろうか。

 足掻く事もしがみ付く事も出来ず、ただ流されるようにしているあたしのみっともなさに呆れたという話だろうか。

「全然沙紀ちゃんの視界に入っていないんだろうけれど」

「視界に入ってないという事は無いですよ。今だってちゃんと信田さんのこと見てますよ」

 一端話が途切れたのでそのように返すと、くすっと信田さんが笑う。

「そうじゃないよ。まあ、そう返されると視界に入っていないというか意識していないというのが良くわかるね」

「意識、ですか?」

 意味がわからなくてオウム返しすると、信田さんが「うん」と頷く。

「7つも上だしバツイチだと、対象外かな。沙紀ちゃん」

 どくんと心臓が脈打った。

 正確に信田さんが言いたいことがわかったから。

「どうして?」

 声が擦れて上手く出てこない。こんなに緊張したのはいつ以来だろう。全身から血の気が引いていくような、それでいて高揚するかのような真逆の感覚が同時に襲ってくる。

 どうして、あたしなの?

 そんな想いを篭めて聞いたのに、信田さんは苦笑して眉を潜める。

「……どうしてって」

「そうじゃなくて。あのっ。あたしでいいんですか?」

 何か誤解させてしまったような気がしたので、急いで聞きなおすと、手首を掴んだままの手と反対側の手があたしの髪を梳いていく。

「きみがいいんです。沙紀ちゃん。少しは俺のことも見てくれるかな? 今すぐ付き合おうとか言わないから」

 優しい眼が悲しくなる。

 信田さんのふわっと優しく包み込むような視線が、あたしが汚れている事を思い出させる。

 こんな風に見つめてくれる人に、こんな風に下手に出るほど恋われている事が申し訳なくなる。

「あたし、そんな良い女じゃありません」

 振り絞った一言は、まるで拒絶のよう。

「だから?」

 事も無げに問いかけてくる信田さんの瞳を見つめ返すと穏やかさは変わらず、目を細めてあたしをまっすぐ見返す。

「良い女じゃないから諦めろ? それとも良い女じゃないから相応しくない? それとも良い女じゃないから今すぐどうぞ? 沙紀ちゃんの言いたいことはこの中にあるのかな」

 笑ってるのに笑ってない。ぞくりと寒気が背筋を走った。

 あたしを追い詰めるような目が、まるで逃がさないと言っているかのように思える。

 信田さんには曖昧も誤魔化しも通用しない。

「謙遜ならいらない。俺はきみがいいと言ったんだよ、沙紀ちゃん。きみがきみの価値を決めるのではなく、俺がきみの価値を決めたんだよ」

 それでも、あたしは信田さんに選んで貰うのに相応しくないと思う。

 だってあたしは信田さんの友達の石川さんのセフレだった女なんです。しかも昨日やっと曖昧な関係に終止符を打って、フラれてきたばっかりなんです。

 そう言えたらどんなに良かっただろう。どんなにラクだっただろう。

 だけれどあたしはそれを信田さんに知られたくない。失望されたくない。

「石川が好き?」

 もう一度聞き返された言葉に、今度はこくりと首を縦に振る。

「好きです。ううん、好きでした。でもあたしじゃダメだってわかってるんで」

「どうして?」

「だって石川さんはあたしを一番好きにはなってくれないから」

「……それは石川がそう言ったの?」

 問われて返答に詰まる。

 そうは言って無いけれど言ったようなものだと思う。あたしの事、一度だって好きだなんて言ってくれなかった。けど、それを信田さんに言ってしまったら、そこから過去の関係が芋づる式にバレやしないだろうか。

 沈黙を肯定と取ったのか、否定と取ったのか、信田さんが溜息を吐き出した。

「あいつ莫迦だな、本当に。でもどうでもいい。石川がそう決断したなら」

「信田さん?」

「沙紀ちゃん。これから俺はしつこくきみの事を誘うし、自分の気持ちを隠したりしない。遠慮もしない。だから少しは考えてくれるかな、俺のこと」

 どきどきと胸が鼓動を刻む。

 信田さんから目が離せなくなり、言葉も出てこなくなる。

 ごくりと唾を飲み込む音が体に響き渡る。

 答えなきゃいけない。答えなきゃダメ。なのに上唇と下唇が縫い付けられたかのように口を開く事が出来ない。開く事のない口の中は緊張からか乾燥しきっている。

 ふいに信田さんの手があたしから離れていく。

 体に触れる感触や熱が遠ざかっていく事に不安を覚える。

「あっ。あのっ」

 咄嗟に出た言葉に、信田さんは「ん?」と首を傾げてあたしを優しい顔で見つめ返す。

「信田さんはあたしの事だけを見てくれますか?」

「当然でしょう。だから沙紀ちゃんに話しているんだよ」

「でっでもっ」

 あたしの中の引っかかりは、あの言葉だ。

「なにかな」

「だって信田さん、あたしの事好きって言いませんでした」

 ふっと笑って信田さんがあたしとの距離を詰める。

 目の前で立ち止まり、信田さんが少し背を屈めてあたしの耳元で囁く。

「好きだよ。沙紀ちゃん」

 石川さんよりもずっと高くて、でも艶のある声が耳をくすぐって、心臓が止まるかと思った。

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