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「野球見にいかね?」
飲み会の席で桐野ちゃんを誘う石川さんの声が聴こえた。
二担の新入社員の荒木さんと話している時に唐突に耳に飛び込んできた。
思わず荒木さんと互いに顔を見合わせてしまう。
--どういうこと?
互いの視線がそう告げていた。
荒木さんは石川さん狙いではなく、あたしの横に座る同じく新入社員の今野くん狙いだ。
狙い。なのかな? もう付き合っているのかな?
どうにも曖昧でよくわからない。でもとりあえず石川さんは眼中に無いみたいなのはハッキリしている。
桐野ちゃんに探りを入れつつ、荒木さんと今野くんの関係にもさりげなく探りを入れてみたけれど、うまーくはぐらかされる。
多分今野くんは女の扱いがめちゃくちゃ上手いタイプだと思う。人畜無害みたいな顔しているけれど。非常に巧妙にお局を手の上で転がしているしね。
こういう人を彼氏にしたら大変そうだ。それでもいいのか? 荒木さんっ。
って、石川さんのセフレしてたあたしが思うのも可笑しな話か。
そう自分の中で結論付けても、以前よりも胸が締め付けられるような想いは無い。完全に過去として割り切る事が出来ているからだと思う。
もし石川さんが桐野ちゃん狙いなら、それでいいと思う。
響さんとは、結局上手くいかなかったと石川さん本人が言っていた。
理由はわからない。けれど、響さんとは全く違うタイプの桐野ちゃんなら、もしかしたら石川さんと上手くいくかもしれない。
それに何よりも、石川さんに誘われて頬を染める桐野ちゃんを見ていたら純粋に応援したいと思った。
まるで昔の自分を見ているかのようだって言ったら、桐野ちゃんに失礼かな。でも一生懸命な恋を応援したかったんだ。本当に。
「桐野ちゃんとデートするんですか? 石川さん」
居酒屋の店外の灰皿のところに姿を現した石川さんにニヤリと笑いかけると、石川さんはフっと鼻で笑った。
「そんなんじゃねえよ」
「ふーん?」
「ただ一緒に出かけるのも悪くねえかなって思っただけ」
「ふーん?」
「ふーんじゃねえよ。勘繰りすぎだ。バカ」
ニヤニヤしているあたしに向かって石川さんの大きな手が伸びてきた。多分小突こうとしたんだろう手をひらりと避けて笑い声を上げると、石川さんがクククっと喉を鳴らす。
「身のこなしが軽いな。飲んでいるわりには」
「ったりまえですぅ。こう見えても鍛えているんですよ」
「へー。ジムでも通ってるの?」
「違いますぅ。B隊長に入隊したんですー。家で毎日隊長とトレーニングしてますよ」
煙草を咥えながら格好だけ真似すると、はははっという笑い声が別方向から聞こえてきた。
やだ。信田さんだ。
かーっと顔が熱を持っていく。
「機敏だねぇ。沙紀ちゃん。なかなか良い動きだった。その勢いで石川をKOする事を許す」
「許可でましたっ。全力でKOしに行きますっ」
咥え煙草で構えたあたしに、石川さんと信田さんから爆笑が上がった。
「女の子なんだから咥え煙草でボクシングスタイルはやめようね。しかも今日スカートだろ」
右腕を信田さんの手が捉え、ゆっくりとあたしは腕を下ろして煙草を左手で持った。
なんか急に恥ずかしさがこみ上げてきて、かーっと頬が熱を持っていく。
そんな事には全く気付く様子も無い信田さんが木のベンチに腰を下ろす。
「桐野ちゃんと石川がどうこうっていうよりも、君らのほうが何かありそうな雰囲気だけれどね。傍から見ていると」
どこから聞いてたんですか、信田さん。
ぎくっとしたあたしの事なんて全く気が付かないようなフリで、石川さんがはははっと笑い飛ばす。
その視線がチラっとあたしを捉えて、そして信田さんに向けられる。
「沙紀ちゃんとはどっちかというと戦友か? フットサル仲間だしな」
最近石川さんはフットサルチームを立ち上げた。
実はそれはあたしの助言だった。あんまりにも悶々としてて鬱陶しいから、少しは体を動かしたらどうだとハッパをかけて。
そうしたらあっという間にフットサルチームを作って、週末はフットサルコートにお呼びが掛かる。
どうしても切れそうで切れないこの縁が恨めしい。
「ほら。そういうところがだよ」
やんわりと指摘する信田さんに、石川さんが今度はニヤリと笑みを浮かべた。
「嫉妬ですか、信田さん」
わざとらしく肩に腕置かないで。しかも引き寄せないでっ。
青褪めるあたしの事など完全無視で、石川さんは信田さんを見下ろしている。
ほぼ無表情の信田さんがふーっと白煙を吐き出す。
あんまりにもノーリアクションで、ギャグやるつもりだったのであろう石川さんも毒気が抜かれたようにあたしから手を離した。
「社内恋愛は自由だけれど、今は自嘲しときなよ」
響さんと石川さんの関係が破綻したばかりというのもあるのだろう。石川さんを取り巻く女性関係は色々メンドクサイ事になっている。
やんわりと釘を刺したというところだろう。
「沙紀ちゃんは関係ねえし、今は俺は誰とも恋愛するつもりはありませんよ」
「ふーん」
冷ややかな信田さんの様子に尻尾を巻いたかのように石川さんが店内に戻っていく。
ベンチに座ったままの信田さんを一人置いていけるような雰囲気でもないし、これで石川さんに着いていったら完全に誤解される気がして、信田さんの隣にちょこんと腰を下ろす。
ちらっとこちらを見たかと思うと、信田さんはふーっと溜息を吐き出した。
「石川は止めときなよ」
真摯な視線があたしを貫いていく。あたしが石川さんの事を好きだと思ってるのかな。そういえば前にも石川さん狙いかって聞かれたことがあるような気がする。
ズキンと胸が痛んで、鼻のあたりがツンと痛くなった。
「それは無いです、大丈夫です」
「そう? 唯一沙紀ちゃんだけは石川が名前で呼ぶの、気付いてない?」
「それはたまたまカジマさんっていう人が社内にいるからで、石川さんだけじゃないし。信田さんだってそう呼ぶじゃないですか」
事実をありのままに述べたのに、信田さんは全然信じてくれない。
気の無い返事が返ってくるだけで、あたしはあわあわと慌てて弁明をしようとして口を開きかけ、そして口を噤んだ。
信田さんの目が、あんまりにも温度を持っていなかったから。
淡々と、年上の社員として注意しているというスタンスが感じられて、急に淋しくなったから。
それに幾ら弁明したところで、あたしと石川さんの過去が消えるわけじゃない。本当に何もないわけじゃない。
手の中に握り締めていた煙草ケースから一本煙草を取り出し、カチっとライターの音を響かせて火を灯す。
吸い終わっているなら中に戻れば良いのに。
だけれど同時に置いていかれるのもイヤだと思っている。
信田さんが何も言わないから、あたしも何も言わないまま黙って煙草を吸い続ける。
きっと信田さんは誤解したままだろう、あたしが石川さんと何かある。もしくは石川さんの事が好きだって。
誤解されたままかー。
そう思ったら胸が苦しくなった。
でも弁明すら聞いてくれないんだったら、あたしに出来る事は何もないんだ。
重苦しすぎる空気が辛かった。
あたしが煙草を吸っている間中、信田さんは自分は煙草を吸わないのにずっと待つように座っていてくれた。
嬉しいのに、息苦しい。
そう思っていると、信田さんがポツリと口を開いた。
「俺、バツイチなの。知ってた?」
「え? そうなんですか?」
意外な言葉に思いっきり体ごと信田さんのほうに向いてしまった。
そんなあたしを笑うでも咎めるでもなく、信田さんはにっこりと微笑んだ。
「そう。社内恋愛の挙句に結婚して離婚したの。それで前の支社に居辛くなって異動願い出したんだ。だから良いことばっかりじゃないから表立って仲良くしないほうがいいよ。経験者は語るってやつね」
「……信田さん」
「ん? ああ、哀れまないでくれるかな。俺の中で終わってる事だからね」
ふるふると首を左右に振ると、ほっとしたような声と温かい手が頭の上に添えられる。
「沙紀ちゃんが泣くところは見たくないよ」
心に染み渡るような声にこそ、あたしは泣きたくなった。
「あたしは泣きません。何せ強い子沙紀ちゃんですからねっ。それに本当に何も無いですよ。石川さんは誰にでも過剰スキンシップですから」
「ならいいけどね」
溜息交じりの声が、呆れられているように聴こえて胸が痛い。
あたしは信田さんから見たら、情けない、石川さんへの恋に狂っている女に見えるのだろうか。
だからってわけじゃないけれど、桐野ちゃんには全力で応援するからっていう意志を表明した。そうやって桐野ちゃんを応援してれば、あたしが石川さんを好きじゃないって信田さんが気付いてくれるんじゃないかって思ったから。




