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Egoist  作者: 来生尚
秘密の恋人
15/32

「もーっ。いい加減にしてくださいっ」

 信田さんに莫迦と言われた男、石川。

 もう石川さんじゃなくって石川で十分だっ。

 一次会で帰るあたしは駅前でバスで帰る桐野ちゃんとバイバイして電車に乗り込んだ。

 桐野ちゃんちは一時間に一本しかないバスに乗って帰れば30分。電車に乗って帰るとぐるーっと遠回りして電車を乗り継いで更にバスに乗って45分掛かるという意味のわからないところなのだ。

 今日は運よくバスに乗れる時間だったのでバイバイして電車のロングシートに腰を下ろしたのも束の間。

 何故か酔っ払い石川がどかっとあたしの隣に腰を下ろして、これ見よがしに無駄に長い足を組んだ。

「寝るから駅着いたら起こして」

 あたしはあんたの目覚ましじゃなーい!

 そう言ってやろうかと思ったけれど、本当に寝入っちゃったから文句も言えなかった。

 ちょっとだけカッコよくて素敵、って思っていたほんの少し前の自分を殴り倒したい。

 この展開にはめっちゃ覚えがある。絶対ヤバイ。

 一応最寄駅で声掛けてやったのに「うーん」と唸っただけで起きやしない。

 起きて起きてと揺すった挙句、起きたのはあたしの最寄り駅。

 しょうがないから手を引いて降りてやったわ。これ以上放っておいたら終点まで行きそうで。

 そこまでは良かった。

 ちゃんと「お疲れ様でした」って言ってホームでさよならしたはずなのよ。

 それなのに腕を掴まれてがっちり体をホールドされてしまった。駅のホームで。

 行き交う人の視線は気になるし、石川の莫迦は動きやしないし。一体どうすればいいのよ。全くっ。

 もーっ。

「一体何がしたいんですか。石川さん」

 あたしをホールド(間違っても抱きしめているとは言いたくない)したまま、全くぴくりとも動かない。

 背中に回された腕が、ぎゅっとあたしを抱く力を強める。

 悔しいけれど胸は高鳴る一方だ。

 誤魔化してきたけれど、話を聞いてくれたあの日から石川さんに憧れていた。

 でもこんなバカみたいなことされる意味がわからない。終わりにするって言ったじゃないですか。全部。

 響さんが好きなくせに、今なぜあたしをホールドするの?

 意図的に思いっきり溜息を吐き出してやった。

「あたしの事、誰だかちゃんとわかってます?」

 返事は無い。くそっ。

「響さんとは背格好も似てませんし、出るとこ出てませんし、色気もありませんよ。相手を間違えてますよ、石川さん」

 首筋に埋まっていた顔をあげ、見下ろすようにあたしを見る石川さんと視線がぶつかった。

 何で泣きそうな顔してんですか。見捨てられた子犬ですか、あなたは。

 首を傾げるその仕草の意図するところを、今、明確に感じた。

 少し背を丸めるようにして、覗き込むようにして顔が近付いてくる。

 一瞬、しちゃってもいいかな? と思った。

 けどこんなの違うっ。

 力いっぱい身を捩ってみるものの、石川さんはたじろぎもしない。体格差、力の差。何よりもがっちりホールドされてるから動きようがない。

 多分時間的にはそんなに無かったはずだ。数十秒がいいところだろう。

 抵抗は無駄で、ふわりと唇が触れるように重なる。

 あたしは目を見開いたままそれを受け入れた。いや、受け入れてなんかない。逃げようが無かっただけだ。

 離れていく石川さんがやっと口を開いた。

「……沙紀ちゃん」

「何ですか」

「今晩暇?」

「イヤです。お断りします。そういう相手は他で見繕ってください。捌き切れないくらい沢山入っていますよね、携帯の電話帳に」

 睨み付けたのに、石川さんはうっすらと笑みを浮かべる。

「沙紀ちゃんがいい」

「全力でお断りだって言ってるんですよっ」

 ふいに緩んだ腕の中から僅かな自由を得ると、思いっきり右の拳を石川さんの頬に命中させた。

 殴られたのにも関わらず、石川さんは何故か楽しそうだ。

「もうしないって言ったでしょっ。ほんの数ヶ月前の事、もう忘れたんですか?」

 心の底からの怒りは、重低音の声となって発せられた。

 自分でもこんな低い声が出るとは思っていなかったくらいだ。

 クククっと石川さんが笑い声を上げる。

「わり。酔ってたみたいだわ」

 そう言うと、あたしを腕の中から解放する。

 むー。そこであっさり正気に戻るってことは、あんたさっきまでも正気だったわね。

 イラっとしたから、ぐいっと石川さんのネクタイを引っ張ってやった。

 必然的に前のめりになった石川さんの顔が手頃な高さに近付いてくる。

 にやりと笑って石川さんを見る。

 本当は指先が震えているし、足だってがくがくだ。

 男の人殴ったなんて初めてだもん。

「愚痴なら聞いてあげますよ。一晩中。ただし酒とエッチは禁止で」

「まじかよ。どうせなら酒とエッチ付きのがいいんだけれど」

「……もう一発殴られたいんですね」

 ぐっと拳を握りなおしたのに、石川さんは腕の中にあたしを閉じ込めたままだ。

 お互い会話も無く、そのまま時間だけが通り過ぎていく。

 逃げようと思えば逃げられたのかもしれない、けれど逃げる事はしなかった。

 濃厚に香るエゴイスト。

 くらくらするその香りに、あたしの心は揺れていた。

 響さんと上手くいってないなら、もしかしてチャンスなのかな? とか。

「正気に戻ってるんだったら、離して下さい。石川さん」

 胸の鼓動は早いままだし、耳や首元に吹きかかる吐息にときめかずにはいられない。

「響さんの事、好きなんですよね?」

 あたしの首元に顔をうずめたままの石川さんから返事は無い。肯定も否定もしない。

 ばかじゃん。この人本当に。

 カッコつけてばかりの、図体がでかいだけの子供みたい。

「まじでヤリたいだけなら、他あたって下さい。あたしは石川さんとは、もう寝るつもりはありませんよ」

 本気で身を捩った。

 ちょうど電車が駅に到着するところだったし、ついでにこの馬鹿げた男の相手をし続けるつもりはなかった。

 安い女だとは思われたくない。

 もしかしたら安い女だと思われていたのかもしれないけれど。

 今度は石川さんの腕が解けていった。

 ほっとしてその顔を見ると、これでもかっていうくらい情けない顔をしていた。

 こんな男に憧れていた過去の自分の顔をぶん殴りたい。

「そんな悶々としてるなら、今から響さんとこ行ってくればいいんじゃないですか? 何があったか知りませんけれど、喧嘩したなら謝れば許してくれますよ、響さん」

 竹を割ったようなさっぱりとした姉御肌。

 女子からも嫌われない、不思議な魅力を持っている人。あたしの中の響さん評はそんな感じ。

 けれど「はぁ」と石川さんは溜息を吐き出した。

 気だるげに前髪を掻き揚げる姿は、情事の最中を思い起こさせる。

 待てあたし。思い出すな、今それを。

「沙紀ちゃん」

「何?」

「ラーメンかコーヒーかパフェ。どれがいい?」

 決定事項なの?

 ったくもー。何でこんなバカに付き合わなきゃいけないんだか。

 だけれど、付き合ってやるあたしはもっと大馬鹿なんだろう。

「ラーメンならとんこつ。コーヒーならコーヒーショップ。パフェならファミレス。あたしと何時間一緒にいたいんですか? 司さん」

 二人きりでいる時、ベッドの上でしか呼ばない、数ヶ月前に封印した名前で石川さんを呼んだ。

 なんで思いっきりギョっとした顔するかな。

「ヤリませんよ。話をするだけですよ」

 にやっと笑ったあたしの頬を石川さんが撫でる。

 ドキっと胸が跳ね上がる。

 多分それは石川さんの癖。キスをする前、抱く前。いつもそうやって頬を撫でていた。

「俺、沙紀ちゃん好きになれば絶対良かったと思うんだよな」

「……そういう妄言はいりませんよ。むしろぶっ飛ばしたい気分になりました。あたしにいつまでも甘えに来ないで下さい。鬱陶しい」

「鬱陶しいって言っても、拒絶はしないんだから。ホントバカだな、沙紀ちゃんって」

「バカで結構。ああ、ちなみに司さん、信田さん曰く大莫迦らしいので、あたしの上いってますね。良かったですね」

 頬を撫でていた手が、髪の毛をそっと撫でていく。

 あたしだけが特別だと思わせるような、錯覚させるような優しさで。

「付き合わせるお詫びに今日は甘いもの食べるか」

「生クリーム嫌いなんだから無理しなくていいですよ。大体いっつもあたしが残飯処理の如く食べる事になるんじゃないですかぁっ」

 クスクスっと石川さんが笑みを漏らした。

「沙紀」

 睦言の最中しか呼ばない呼び方で石川さんがあたしを呼ぶ。

 こんな沢山の人が行き交う中で呼ばれて、ぎゅっと胸を鷲づかみにされたみたいに息が苦しい。

「行こう」

 莫迦。本当に大莫迦だ。

 手を差し出す石川さんも。その手に手を重ねたあたしも。

 浮かんでくる涙を、唇を噛み締めて堪えた。

 もうセフレに戻るつもりは無い。それなのにあたしはもう一度この人の手を取ってしまった。

 ラーメン屋もコーヒーショップもファミレスも無い最寄り駅。

 タイミングよく滑り込んできた電車に乗って、あたしたちは目的地を目指した。

 ううん、目的地なんて本当は無かったのかもしれない。

 最初からあたしたちの道は重なる事なんて無いって決められていたのだもの。

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