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その辞令を貰った時、こっそり溜息を吐いた。
あたし、あのババァと一緒に仕事するのか、と。
現在営業企画部業務企画担当に在籍しているが、どうやら次の辞令で営業部営業課第一営業担当に移ることになるようだ。
以前いた支社は二年弱。この支社にきて二年。
異動の頃合としては早いんだけれど、行けと言われたら断るわけにもいかないし。
上司は「お前なら出来る」とハッパを掛けるけれど、一体何を根拠に言ってるのかしら。
あー、面倒くさいったらない。
仕事以外のことに煩わされるのって、本当に嫌なのよね。
社内LANで繋がっているメッセンジャーを使って、通称一担に籍を置く同期にメッセージを送る。
同期の名前は石川司。
就職してこの会社に入って5年目の若手社員。同期として普段から飲みに行ったりして仲は悪くない。
しかも奴は「お局担当」と呼ばれている。
これからの職場の情報収集の相手としてはうってつけでしょう。
--いいよ。じゃあ喫煙所な。
--どっちの? 営企の? 営業の?
--そっち。10分後に。
淡々と必要最低限の遣り取りだけを済ませ、約束の時間に営業企画部のフロアの喫煙所に顔を出す。
そこには既に石川がいた。
「お疲れ」
「おつかれさまー。石川っち忙しかった?」
「別に忙しくねえよ。うちは官公庁が相手だから、基本契約更新の時くらいしか仕事ねえし」
ふーんと話を聞き流し、まあ忙しくないなら話に付き合わせても悪くないなと思い、小銭をじゃらっと財布から出す。
「何か飲む?」
「俺が出すからいい」
180を超える身長がある石川とは165の私とは20センチ近く身長差がある。
高いところから降り注ぐ(派遣さんたちや女性社員さんたちが語る)魅惑のボイスに振り返ると、涼しい顔をして自販機にお金を入れている。
「好きなの押せよ。どーせお前が俺に話しかけてきたってことは、何かしらあったんだろ? 同期の俺にしか言えないような」
相変わらず鋭い。
まあ別にそのうちおおっぴらになる事だから間違っているといえば間違っているけれど、読みは正しい。
「まあ愚痴かな」
言いながらコーヒーのボタンを押す。
ブラックのコーヒー。それは石川が好む飲み物だ。
「はい。自分の分は自分で出すからいいわ」
落ちてきたコーヒーを手渡すと、くしゃっと顔を歪めるように笑う。
「気ぃ使いすぎなんだよ。バカ」
「使ってないわよ。アホ」
自分の分の飲み物の代金を入れて自販機のボタンを押すのと、石川が煙草に火を点けるのが同時だ。
「また炭酸飲料かよ。子供じゃねえんだし、そんなもんばっかり飲んでると太るぞ」
「おあいにくさま。この位じゃ太りません。あたしはコレが好きなのよ」
くくくっと喉を鳴らすようにして笑う石川に溜息を吐き出す。
いっつもそう。同い年で同期なのに、まるで人をあやすようにして。
あたしは石川の事は嫌いじゃないけれど、そういう偉ぶったところが苦手だ。
誰に対してもそうみたいだから、あたしをバカにしているとか下に見ているとかっていうわけじゃないってことはわかっている。
それでも、この同期があたしを認めていないような気がして嫌だった。
「炭酸は炭酸でもアルコールが入っている炭酸のほうが好きなんだろ?」
「……まあね」
同意したけれど、本当はアルコールなら焼酎が一番好き。
だけれど否定したってこの男が聞く耳を持つとは思えない。
「じゃあ夜飲むか? 信田さんが飲みに行こうって言っててさ」
信田さんは最近転勤していた営業課五担の先輩社員。
同じ課になるのだから、今から交流を持っておくのは悪くない。
「いいわ。営企にも声を掛けておくわ。それよりも、まだ内示だから誰にも言わないで欲しいのだけれど」
声を潜めて言うと、大きな体を折り曲げて石川が耳を傾ける。
まるでこれじゃ内緒話を耳打ちしているみたいじゃない。もしもあのババァに見つかったらどうするのよ。
心の中で文句を言いながらも、先ほど聞いたばかりの辞令を告げる。
「来月からあたし、一担だって」
「はあ?」
「だーかーらー。来月からあたし、一担」
「……まじかよ」
驚いたようにまじまじと目を見開いて石川があたしを見つめる。
あー、もうそんなに驚かなくたっていいじゃない。驚いたのはあたしのほうよ。
「お前営業志望だったっけ?」
「……んなわけないでしょ。あたしは企画か広報志望よ」
「だよなー。確か前にそんな事言ってたなと思ってさ」
考えるように腕組みをした石川が、「ああ」と呟く。
「鈴木さんが異動になるからだな、きっと」
鈴木さんというのは現在一担に所属している女性の先輩社員さんだ。
「どこに異動になるの?」
尋ねると、北関東のとある県の支社の名前を出す。
鈴木さんの最近結婚したダンナさんが確かそっちの支社だったなと記憶を穿り返す。
「良かったよ。鈴木さんがいなくなると一担男だらけになるからな。きっとお前ならお局に対抗できると思われたんだろ」
「……勘弁してよ」
お局の悪評は支社内では有名な話。
派遣さんたちをいびり倒して辞めさせ、女性社員は皆異動に追いやられる。
そんな上司と仕事する羽目になるなんて。
「何言ってんだよ。A評価の人間が」
「うっさいわよ。あんただってA評価じゃないのよ」
半期に一度のボーナス査定時に付けられる3段階評価の最も上位のものがA評価。
課の中でも3~5人程度しかその評価を与えられる者はいない。
前回の査定で、あたしも石川もA評価を貰っている。口外はしていなかったはずなのに、何故知っているのかしら、石川。
「へー。知ってたんだ」
「当たり前でしょ。あんた飲み会の席で誰かに口滑らせたでしょ。だから有名よ。一担の石川はA評価の男って」
「なんだそりゃ」
くすくすと笑いながら煙草を燻らせるのを見ながら、心のどこかが苛立ってくる。
同じ担当になればこいつと比べられることになる。
絶対に負けたくない。同期として。
いつだって余裕綽々で笑って調子のいい事言ってばかり。この石川に騙された女は片手じゃ数え切れない。
しかし仕事は出来る(らしい)し、お局を除く上司からの評価も高い。
「それよりもね、あの担当長はどうなのよ?」
年齢を感じさせない若作り。実際にはデコルテとか見たら、まあ年相応よりは頑張っているかなっていう程度なんだけれど、気合が入っている。
石川の事を「司きゅん」と呼んで可愛がり、とにかく常に若い男をターゲットに恋心を傍から見てもわかるくらいに燃やしているっていう名物担当長。
仕事は、あまり出来ないらしい。
営業課の課長が同期らしくて、その辺りを注意する事もないかららしい。
「んー。佐久間さんなあ、悪い人じゃないけどな」
あんたは気に入られているからそう言えるんでしょう。
はあっと溜息を吐き出す。
「……ほっんとーに気が重いわ」
「佐久間さんがか?」
「そうよ。あの人女嫌いで有名じゃない。何であたしがそんな人の下に行く事になったんだろう」
くくっと石川が喉を鳴らして笑う。
「そりゃ、お前が気が強くてお局に十二分に対抗できそうだって思われたんだろ?」
「迷惑な話だわ」
「お前にとったらそうかもしれないけれど、クライアントの中には女性の営業を好む人間もいる。鈴木さんがいなくなった後、そういう得意先を俺らが回ってもいい結果が出るとは言いがたいから、女性社員の補充は必要だろ」
「……それは会社的にはそうでしょうよ」
ぐいっと缶の炭酸飲料を飲むと、喉で泡がはじける。
その胸につかえる感じが、今まさに自分が抱えている気持ちとリンクしているような気がして嫌になる。
「でも何であたしなのよ」
「なあ、響」
ふーっと煙を吐き出して、ぎゅっと灰皿に煙草を押し付けると、石川が真顔であたしを見つめる。見下ろす。
「お前は営業志望じゃないから気に入らないのかもしれないけれど、先々営業を経験しているかしていないかでお前の幅も変わってくるんじゃないのか? ずっと企画畑でいるよりも広い視野が持てる。自分を成長させる為にもいい機会なんじゃないのか?」
「……そうね」
渋々同意するあたしの頭をぐしゃっと石川が撫でる。
あたしはあんたの部下でも何でもないのよっ。
キリっと睨んだのに、全然気付いてもいないで、缶コーヒーを口に運んでいる。本当に嫌な男。
「まあ来月からよろしくな、響」