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蝶は夢に遊ぶ  作者: 空暮
2/2

後編

これにて完結。

 「……井さーん! 寝ているんですか? 鈴井さーん!!」

 誰かの僕を呼ぶ声が聞こえ、目を覚ます。首が痛い。どうやら椅子に座ったまま眠ってしまったらしい。しかし――僕自身には椅子で寝た記憶など無い。僕はさっき、布団を自らの吐瀉物で汚したばかりなのだから。

 顔を上げると以前夢で見た、僕が閉じ込められていた病室だった。あのときと違うのは、僕が看護服を着て、少女がベッドに腰掛けているということだ。

 「……え? 僕、は……」

 「何寝ぼけてるんですか鈴井さんっ。もう検温の時間ですよー」

 少女はクスクス笑いながら手を差し出している。僕は慌てて部屋の隅にある椅子から立ち上がり、彼女の下へ歩いていく。

 「君は……誰だ? そもそもここはっ? 僕は一体どうなっているんだ!?」

 思わず彼女の肩を掴んで揺すってしまった。彼女は苦しそうに、

 「あっ……やめてください、鈴井さん! 痛いです……!」

 その声で我に返った。彼女は本当に痛そうに呻いている。

 「あ……ごめんっ! その、混乱、して」

 急いで彼女から離れる。彼女の頬は上気して赤く、パジャマが先ほどの行為で乱れて彼女の白い肌があらわになった。その光景に僕は少しどきっとした。

「本当に寝ぼけてるんですか鈴井さん? 鈴井さんは看護師じゃないですか」

彼女は自分の肌を掛け布団で隠し、少し呆れたように言った。

 「え? 僕は看護師なの……か? じゃあ君は……?」

 僕がそう言うと彼女は本当に心配そうな顔になり、僕をジッと見つめてきた。

 「……どうしたんですか? 私は国津じゃないですか。忘れてしまったんですか? もう私の担当になって三年じゃないですか。本当に、忘れてしまったのですか……?」

 涙を目に浮かべた国津と名乗る彼女に何もしてあげることが出来ず、僕はそばで立ちすくんでいた。そうすると彼女は掛け布団から這い出てきて、僕を抱きしめた。いや、これは抱きかかえられたと言うべきなのか、僕の頭に彼女の腕が絡みつき、顔はお腹に押し付けられた。

 「どうです? 思い出しましたか?」

 彼女の声と共に、熱が伝わる。暖かさとともに、あることを一つ思い出した。幼いころ、母とともに布団で寝ていたときの温もりだ。しかし、それと共にあの悪夢も思い出してしまった。僕のその震えが伝わったのか、彼女が問うてくる。

 「何か怖い夢でも見たんですか?」

 何故か、僕は彼女のその質問に、素直に答えてしまう。

 「おかしいんだ。僕は……どこから、夢なのか現実なのか分からないんだ。目が覚めると違うところにいて……そもそも何処が始まりなのか。冷静になろうとすればするほど訳が分からなくなるんだ」

 スラスラと言葉が出てくる。その間、彼女は何も言わずに話を聞いていてくれた。

 「それで、それで……僕は帰りたいんだ。でも何処に帰りたいのか分からなくて……」

 「じゃあ、鈴井さん。あなたは誰なんですか?」

 「え……? 誰って……」

 少女の突然の質問に答えられなかった。

 「鈴井さんが帰りたい場所が分からないのは、自分が誰なのか分かっていないからです。そうじゃないですか?」

 「僕が……誰か?」

 「ふふふ、そろそろいいですか? 熱を測ってもらっても」

 彼女は腕を解き、僕から離れた。少し落ち着いた僕も彼女から離れた。そして、彼女から言われたとおり、ポケットから体温計を取り出して彼女に手渡そうとした。しかし、気恥ずかしさから目を逸らしていたのが災いして体温計は二人の手から落ちて、ベッドの下の暗闇へと転がっていった。

 「あ……」

 「ご、ごめん。いま拾うから」

 僕はしゃがみ、ベッドの下の闇に目を凝らす。そこには――体温計が二つ、落ちていた。僕は、両方を手に取った。片方は先ほど落とした綺麗なものだが、もう片方は黄ばみ、埃塗れになっていた。その汚い体温計には『国津』と油性マジックで書かれていた。

(これは、あの時の……! 何故、ここに?)

もしかしたらここにいる国津を名乗る少女の物かもしれない。そう思い直して、立ち上がって訊ねる。

「この古い体温計って君の?」

その体温計を受け取った少女は少し考えたような顔をしたが、

 「いえ、これは私の物ではないです。そもそも私は体温計は持っていませんし」

 何となく、そう言われることが分かっていたような気がする。ではこの体温計はあの”国津さん”の物なのだろうか。仮にそうならば、どうしてこんなに古びているんだ。そもそも、何故ここに落ちている。

 また思考に囚われてしまった僕をよそに、少女は先ほどからゴソゴソと動いている。

 「ねぇ……鈴井さん。こっち、向いて」

 僕が少女へ目を向けると、彼女は服を全部脱いでベッドに寝そべっている。

 「え!? な、何して……!」

 少女は先ほどの柔らかい空気を捨て去り、淫靡な雰囲気を纏っていた。本当に、先ほど僕を抱きしめた少女か疑ってしまうほどだ。

 「鈴井さんも、あの時のようにすれば全部思い出せると思うの。あの時、無理やり私の首を絞めながら初めてを奪ったときみたいに」

 彼女が嬉しそうに顔を歪ませる。その目には黒い光が灯る。よく見ると彼女の首には手形の痣がうっすら残っている。

 「ほら……いつものように首を絞めて、ね?」

 そう言うと少女は自分の首をギリギリと絞め始める。喉から空気が漏れ、耳障りな音が鳴る。少女は一向に力を弱めることなく締め上げ、白目すら見せ始める。なのに、その顔は悦楽に浸っているように見えた。

 僕が一歩後ずさる。ギロリ、と少女の目がこちらに向いた。その目は、何処となく捨てられた子猫を連想させるものだった。

 少女は今まで”そうしていた”男性に拒絶されてどう思ったのだろうか。僕が知る由はないが、どうやら彼女はまだ足りていないと思ってしまったらしい。

 「まだ、思い出せませんか……? これで、どう、ですか?」

 首から手を離したが、まだ息も整っていない彼女は枕の下からカッターナイフを取り出し、自分の腕、ふともも、胸を薄く傷つけ始めた。白い肌からジワッと血が滲み、重力に従って垂れていく。少女の周囲のシーツは彼女の血で少しずつ赤く染まっていく。よく見ると、彼女の内股の茂みの近くに『スズイ』と読める傷跡があるのが確認できた。

 (これは僕がやったのか? こんな、こんなことを僕が?)

 少女からは仄かにアンモニアの臭いがした。おそらく、失禁している。僕は、何をした。僕は――狂っているのか。

 (そんな訳がない! 狂っているなら今の彼女に興奮するはずだ。僕はこれっぽっちも興奮してない。吐き気がするっ)

 「……まだ足りない、ですか? まだ受け入れ、てくれないのです、か?」

 縋るような目で僕を見てくる。この目、何処かで見たことがある。そう、だ。

 「あの時の、男の子……?」

 母親を求めて国津さんに甘えた、あの男の子と同じ目をしている。あの時、国津さんはあの『鈴井』と呼ばれた男の子に手を差し伸べた。僕は、『国津』を自称するこの少女に手を差し伸べるべきなのだろうか。

 少女は血塗れで座りこんでいる。先ほどと様子が変わったようには感じられない。なのに、今の僕はその姿を見ても恐怖も吐き気も覚えなかった。ただ可哀想……違う、放っておけないと思った。

 「ごめん、僕はまだ君との思い出を想い出せない」

 未だにジクジクと血が滲む傷口を、僕はポケットに入っていたハンカチで押さえる。

 「だけど、もうこんな事はやめてくれ。もし、僕のことを思ってやってるなら尚更、だ。そうじゃなくてもやめるんだ……僕が厭だ」

 きょとんとしたまま動かない少女に、僕は手馴れた手つきで消毒を施し、脱脂綿をテープで貼り付けていく。何で、こんな手際よく処置が行えるのだろう。黙々と作業をこなすと、少女がやっと口を開いた。

 「鈴井さんが厭だからやめろ、ですか? ……ふふ、やっぱりそういう自分勝手な所は鈴井さんですよ?」

 「そう言ってもらえると僕は此処に在るって感じがして、嬉しい。……あぁ、でもやっぱり都合良くいかないな。包帯は上手く巻けてもこの部屋からどうやって出るかは分からないや」

 処置が終わって、部屋を見渡す。相変わらず、出口に見えるものはない。あの悪夢の中で閉じ込められた部屋と同じだ。

 「はは、ここからどうやって出るんだろ? 国津……さんって呼んでいいかな、君は知ってる?」

 「はい、それでいいです。私も出口は知りません。鈴井さんは私が寝ている間に外へ出て行ったようなので。……私自身ここで十年間生活していますが、知りません」

 とりあえず、今はこの少女を国津さんということにしておこう。彼女もここに閉じ込められているらしい。しかも十年間も、だ。その事実が僕を惑乱させる。

(彼女は、僕の悪夢と同じ待遇を十年間受けてきたのか? 閉じ込められていた僕のほうが夢なのに、彼女のほうは現実なのか? どっちが現実……いや、どちらも夢なのか?)

 答えが見えない。何処かで歯車が狂ってしまったように、何かが噛み合わない。

(僕はただの学生だ。学校から帰ってきて部屋のアパートで寝ていた、うん。ここまではちゃんと憶えている。そこからだ。閉じ込められて……一度起きたような気がしたけど、あれも今から考えると現実じゃなかったような気がする……。今の僕ははっきりと起きていると言えるけど、夢かもしれないし……そんなことを言ったらあの”大学生の僕”も夢だったのかも……いや、しかし……)

 思考が堂々巡りする。頭を振って切り替える。今はそんなことよりここから出るべきだ。僕は国津さんへ問う。

 「国津さんは何の病気で入院してるの?」

 やはり、想像通りの答えが返ってきた。

 「私もそれは分かりません……。鈴井さんに何度か聞いてみましたけど『それは答えられない』としか言ってくれませんでしたし」

 「じゃあ、国津さん自身は自分のことを病気だと思う?」

 「どうでしょう……。小さな頃から病気だから入院していると言われてきたのでそんな気もしますし」

 これは僕の勝手な想像だが、彼女は病気でも何でもない。理由も何もなく閉じ込められているだけだ。もう一つ、訊ねる。

 「それじゃ、医者に会ったことはある?」

 「いえ、一度も……」

 滅茶苦茶だ。ここは病院のような姿はしているが、違う。まるで監獄のような、研究室のような……まるで狂人の見ている夢のような、そんな場所だ。一見すれば白く清潔で、陽光も差し込み、緑も見える。しかしそれは見せかけに過ぎない。実際は部屋を出ることも出来ず、『お前は病気だ』と言われて病人として扱われる。食事も排泄も全て同じ場所でさせられ、ベッドに寝かせられる。その黒さ、醜悪さは、白によって際立つ。こんな場所に国津さんを置いていくわけにはいかない。僕は少女に手を伸ばす。

 「僕はここから出て行く。それで……非常に自分勝手なことだが、君のことも連れて行こうと思っている。いや、嫌がっても無理にでも連れて行く」

 国津さんは肩を竦め、「しょうがないですね」と言ってベッドから降りて、僕の手を取った。その瞬間、

 「……ッ!?」

 眩暈が起きて跪いてしまった。


なんだろう、この、感覚は。


 少女の手を取ると、僕の心から何かが剥がれるような痛みが襲った。僕の心に癒着していた何かを無理やり剥がすような感覚だ。激しい痛みがまずやってきて、そのあとには微かな痛痒と何処かすっきりしたような快さが残った。

 「大丈夫ですか鈴井さんっ!? どうしたんですか!」

 国津さんが驚いている。僕は目頭をグッと押さえて目を瞬かせると、もう眩暈も治まり、心の痛みも気にならなくなっていた。

 「いや、もう大丈夫だよ……」

 彼女を手のひらで制止しながら立ち上がる。目の前には――扉が、現れていた。



 『あなたは非常に珍しい事例だ、鈴井さん。あなたは自己を認識させる境界線を滲ませ、朧げにしてしまう。もちろんこれ自体は珍しいものではない。これによって引き起こされる症状は言いようのない不安感や幻覚、幻聴、あとは他人の考えていることが分かる、あの人が私を殺そうとするといった妄想の類だ。あなたの場合は、その度合いが強すぎる。もはやこれは境界線の崩壊ではなく……世界との融合だ。それなのに、失礼な言い方だが、あなたはこの病が発症して随分と経つのに、未だに正常な意識を保っている。あなたは、自分の精神に起きている異常を分かっていながら正常で居続けているのです。私にはそれが分からない。まるで、自己を統括する意識が二つあるかのように、精神を正常と異常の二つで分割しているように、あなたは……一体……』



 (何故、扉が? いつの間に?)

 先ほどまで何も無かった壁に、白い扉が現れた。そう、突然だ。少し目を離したら何時の間にか扉があった。試すように取っ手に手を掛け、動かす。

 「開いた……」

 鍵は掛かっていない。少し隙間が生まれ、外気が頬を撫でる。その感覚に嬉しくなり、扉を開け放つ。そこは、この病室のように白く、殺風景だった。長い廊下は誰も歩いておらず、静寂に包まれていた。

 「じゃあ、行こうか?」

 僕の手を強く握っている少女を促す。国津さんはおっかなびっくり病室から出てくる。ぱたぱたっ、とスリッパの音が廊下に鳴り響く。

 「はい、もう……手を離さないでくださいね?」

 以前にもこうして手を、僕は握ったことがあったのだろうか。今の僕には分からないが、頷いておく。

 少女の手を繋いで歩いていく。国津さんは文句も言わず付いて来る。二人の足音と息遣い、そして手から伝わる温もりしか感じない。長い長い廊下を抜け、曲がり、時には階段を下りてくる。どれほど歩いただろう。やっと出口にたどり着く。エントランスにもやはり人はおらず、受付窓口は暗いままだ。

 「……大丈夫? 具合、悪くなってない?」

 あの病室に長い間居たため、国津さんの体力が落ちているんじゃないかと僕が不安になって訊ねる。

 「ふふ、心配するぐらいなら最初からおぶってくだされば良かったのに」

 そんな皮肉を言って微笑む彼女の姿を見て、少し安心した。

 僕は彼女の手を引いて外へ向かっていく。外はもう、夕方だ。その、夜が昼を飲み込んでいく風景はどこか僕を不安にさせた。

 「あ……」

 国津さんが僕の手を一際強く握ってくれた。振り返ると包み込むような、陽だまりみたいな笑顔を浮かべていた。僕は、この温もりがあれば大丈夫なような気がする。そう思うと前へ進める。何故だろう、僕はこの国津さんとの思い出なんて無いのに、彼女には言わなくてはいけない事があるような気がする。それは外に出てから考えよう。必ず、必ず伝えよう。僕は、夕闇広がる外に出た。



 僕は夕飯を取っている。いや、正しくは小学生の僕が、だ。

 (これは夢か……)

 小学生の僕は、母が作ってくれたハンバーグを美味しそうに頬張っている。当時の僕には母親が作ってくれたハンバーグが何よりのご馳走だった。

 「おいしい? ねぇ、おいしい?」

 母は何度も何度も訊ねてくる。その顔はすごく嬉しそうだ。それなのに、僕は照れてしまって、

 「……別に」

 そっぽを向いて答える。それでも母は僕が考えていることが分かるのか、本当に嬉しそうに笑っている。飽きもしないで僕がハンバーグを食べるのを見ている。

 母には言いたいことがいっぱいあった。伝えたいこともいっぱいあった。だけど、正直になれなかったのだ。今度、母に会ったときはもっと素直になろう。そう、心に誓った。



 目が覚めた。どうやら熱で魘されて、幼少の頃の夢を見ていたようだ。しかし若い頃の母の姿が見れたため、得をしたと言えば得をしたことになるのか。

 僕が目覚めたことに気付いた妻が、こちらへやって来る。どうやら休んでいたらしく、眼鏡を外している。妻は眼鏡と水を手にしている。

 僕の下までやって来ると水を手渡し、眼鏡を掛ける。眼鏡を掛けた妻は少し年をとったためか、神経質そうで冷たい印象を受ける。腰まである髪がふわりと揺れる。この黒髪だけはいつまでも変わらない。

 僕が水を飲み、落ち着くのを見計らって、一言。


 「あなた、熱を測りましょう」


結末に不満足。もう少し経ったら次の作品をあげさせていただきます。

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