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蝶は夢に遊ぶ  作者: 空暮
1/2

前編

前編後編で完結です。

 目が覚めた。いや、目が覚めたという表現は正しくない。体が何者かの手で揺すられているのを感じ、目を開けたのだ。

 「え……?」

 体を揺すっていたのは見知らぬ看護婦だった。少し神経質そうな髪の長い女の子が、無表情のままベッドに横たわる僕を見つめている。

 「起きましたね。体温を測ってください」

 そう言うと体温計をポケットから取り出して差し出してくる。僕は条件反射的にそれを受け取ってしまう。

 「早く測ってください。その後朝食です」

 「え、あ、いや……。ここは何処ですか?」

僕は今、自分が置かれている状況が理解できていない。何故なら僕は、病院に来た覚えもないし、入院した覚えもない。僕の最後の記憶は、久しぶりの休日に自分のアパートの煎餅のような布団で惰眠を貪っていた、というものだからだ。つまりは――その最後の記憶からこの現状へ移行を僕は認識していない。その間の記憶が全く無いのだ。

実際なら僕は自宅の布団の上で目を覚ますべきなのだ。なのに、ここは何処だ? 消毒液の匂いがやけに鼻につく。

 「ここは病院です、鈴井さん。そして私は看護婦の国津です」

 国津と名乗った看護婦が一切感情を込めないで事務的に説明した。病院……確かに僕は今こうしてベッドに横になっているし、看護婦も目の前にいる。しかし……

 「何で僕はここに、病院にいるんだ?」

 「病気だからです」

 「いや、そうじゃなくて……! 僕は、アパートで寝てたはずだ! なのに何で気付いたら病院にいるんだ!?」

 「私に言われても……。私は只の看護婦ですし。さぁ体温を測ってください」

 看護婦の冷静な態度が僕を苛立たせる。まるで僕がおかしいみたいじゃないか!

 「分かった。もう、いい。僕は家へ帰る。そこを退いてくれっ」

 僕はベッドから降りようと差し出された体温計を払いのけた。看護婦の手から体温計は零れ落ち、転がってベッドの下へ隠れてしまったが、そんなことはどうでもいい。僕は裸足のまま、この部屋を出ようとした。しかし――

 「……出口が、無い?」

 部屋中見渡しても外へと繋がる扉が無いのだ。白い壁が四方を覆い、部屋に置かれているのはベッドと、病院でよく看護婦が押して歩いているワゴンだけだ。ただ、外と接点があるのが鉄格子付きの窓と、刑務所を思わせる小さな隙間があるだけだ。その隙間から送り込まれたであろう食事が湯気を立てており、その光景に苛立ちが増した。

 (ここで今から僕に飯を食べろってか!? 何の説明もされていないのに!!)

 食事からは目を逸らし、窓へ早足で近づく。窓からは中庭が見え、木々たちが青々と茂っている。この高さからすると、この部屋は4階あたりにあるのだろうか? 中庭をぐるりと囲んでいる壁にも窓は無数についており、全てに鉄格子が嵌っていた。しかし、僕のように顔を出しているものは一人も居なかった。誰かを発見することを諦めて鉄格子を軽く揺すってみたがビクともしない。

 看護婦のほうへ顔を向けた。彼女は一向に表情を変えずに、じっ、と僕を見ている。

 「……もし、大声を出したら誰か来るかな?」

 「いえ、来ません。そう決められていますから」

 「”そう決められている”? どういうことだ? 何でもいいから僕をここから出してくれっ!」

 かっとなって大声を出した。それでも看護婦は表情を変えない。

 「出すことは出来ません。先生が出すな、何を言っても出すな、と仰っていられましたから。さぁ、あまり叫んでは体に毒です。熱を測って朝御飯を食べましょう」

 「じゃあ僕は何の病気なんだ!? 言ってみろ!!」

 「それも先生が教えるな、と」

 「その医者を呼んでくれ! 僕はここから出たいんだっ!」

 「先生は決められた時に来られます。さぁ、熱を測りましょう」

 駄目だ。何を言っても無駄だろう。きっと彼女に何を言ってもここから出してくれないだろうし、説明をしてくれないだろう。僕は諦めてベッドに戻った――ふりをして、看護婦に掴みかかった。

 彼女をベッドに押し倒し、上から圧し掛かるように首を絞める。首を絞める、と言っても殺意がある訳じゃない。こうすれば誰かがやって来て、何処からかこの部屋に入ってくるだろう。この看護婦とではまともに話が出来ない。とにかく、誰かと話し、ここから出してもらわないといけない。後でこの行為に文句を付けられても、こちらにも言い分がある。

 「くっ……かぁっ……」

 看護婦の口から掠れた音が聞こえる。殺す気が無いとはいえ、ある程度の力は込めている。普通はその顔は苦しみに歪むだろうし抵抗もするだろう。なのに彼女の顔は――悦びに満ちていた。その、言いようの無い気持ち悪さに僕は手を離してしまった。

 「あっ……」

僕が離れると彼女は名残惜しいような声を出した。誰も、この部屋に来ない。僕はじりじりと後ずさる。彼女は何も無かったように立ち上がって衣服の乱れを直した。その顔は既に無表情なものへと戻っている。

「さぁ、熱を測りましょう。朝食が冷めてしまいますよ」

 彼女は、ポケットから新しい体温計を取り出して、僕へ差し出した。看護婦の瞳は何も映していないように暗く、その眼を見てしまった僕は体温計を受け取らなければいけないような気がして、手を伸ばした。



 「朝食は全部食べられたようですね」

 僕はベッドに戻り、朝食を取った。結局、看護婦に流されてしまい、彼女の言いなりになっている。彼女の迫力に押されたのか? 本当ならとっとと此処から出て大学へ行かなければならない。なのに、僕は未だにこんなところで暢気にベッドに座っている。

 「ねぇ、国津……さん。さっきはその、すいませんでした」

 事情が事情だが、僕は彼女の首を絞めていたのだ。自分のやったことながら身震いしてしまった。混乱していたとは言え、まるであの時の僕は僕でなかったようだった。

 「いえ、気にしないでください。私は慣れていますから」

 頭を下げる僕に国津さんはそう言った。

 (慣れている……?)

 あのように暴れる患者のことを指してだろうか? それとも――それともあのように首を絞められることに、だろうか? あの時の本当に嬉しそうだった国津さんの顔を思い出してしまい、僕はどこか居心地の悪さを感じた。

 食器たちを部屋の隙間から出した彼女がこちらへと戻ってくる。僕はその顔を見ることが出来なかった。国津さんはベッドの横までやって来ると、ピタリと止まって僕をまたじっ、と見てくる。

 「僕はどうすれば此処から出られるんでしょうか?」

 恥ずかしさに耐えかねて質問をすることにした。

 「私は先生ではないので分かりかねますが……。恐らくは病気が治ったら出られると思いますよ」

 病気か。その病気がどんなものか分からなければ、どれほど快復に向かっているかも分からない。それに、僕は自分自身を頗る健康体だと思っている。体の何処にも調子の悪いところなど無いのだ。

 「……そうだ! 今日って何日?」

 ある可能性を思いついた。もしかしたら僕は何かしらの病気でアパートで意識を失って、病院に運ばれて今の今まで眠りこくっていたのかもしれない。それならば説明がつく。

 「それについては答えられません」

 日時も教えてくれないのか。また沸々と怒りが沸いてきたが、考えてみれば彼女は悪くないのだ。彼女は医者に命じられてそうしているだけで、そんな彼女に怒りをぶつけるのは失礼だろうし可哀想だろう。そう思うと、怒りはすっと消えていった。

 「じゃあ、さ。僕はいつから此処で寝ていた?」

 そう訊ねると彼女は表情を崩さずに答えた。

 「それについては……」

 「答えられない、でしょ。ははっ」

 何故か同じ事を繰り返す彼女が面白くなって思わず笑ってしまった。僕が笑っているのを彼女はじっ、と見つめていた。



 それから同じようなやりとりを繰り返し、食事を取っていたら夜になってしまった。その間に彼女のやっていたことと言ったら、体温測定と食器の片付けぐらいなものだった。

 「先生は今日は来ないの? 明日? いやまぁ、答えられないならいいんだけどさ」

 「すいません」

 謝っているというのにその顔は全く申し訳なさそうには見えなかった。

 「いいよいいよ。それより、僕はそろそろ寝るけど国津さんはどうするの?」

 これが最大の疑問だった。僕は恥ずかしながらトイレなどは全て尿瓶などで済ませた。彼女は食事も一切取らず、排泄行為も行わず僕に付き添っていた。それ自体脅威的なことだが彼女に言わせれば「慣れている」とのことだった。そんな国津さんと言えども、僕が寝ている間中、横に立っている訳は無い。必ず何処からかこの部屋を出て、休憩なり交代なりを行うはずだ。その時どのように部屋から出て行くのか、それを僕は確認したかったのだ。

 「鈴井さんが就寝したのが確認できたら、休憩へ向かわせていただきます」

 やはり、だ。これで外へ出ることが出来る。僕はこの後、眠ったふりをして、彼女が外へ出て行く方法を見ていれば良いのだ。

 「……分かったよ。じゃあ僕は眠らせてもらうよ」

 僕がそう言って布団に潜って眼を閉じる。少し経つとまぶたに感じる光が消えた。恐らく、国津さんが照明を切ったのだろう。僕は薄目を開けて周囲の様子を伺う。まだ、目が暗闇に慣れておらず、何も見えない。

(国津さんはどうしてるんだろう……?)

 闇に目が慣れてくる。ぼんやりとだが物の形が見えてきた。庭から差し込む月明かりによって国津さんの姿が影法師のようになっている。どうやら僕が眠ったかどうかを確認しているのだろう。

(いくら何でも一晩中こうしている訳ないだろうし)

 そうたかをくくった僕は薄目のまま国津さんの動向に気を配った。そうして数分も経つと目が完全に闇に慣れた。そして……その時の僕が見たものは異常な光景だった。僕はきっとその光景を一生忘れることが出来ないだろう。


 ――国津さんが、まばたきもせずに僕をジッと見つめていた。


 漠然と見ているのではなく、僕の眼を見据えている。薄目を開けた僕は気付かなかったがずっと国津さんと目を合わせていたのだ。

 (この人は、電気が消えてからずっとこうしてたのか……?)

 怖かった。そのぽっかりと開いた穴のような目で見られるのが。その目は確かに周りの闇よりも冥い目をしていた。僕は、目を離すことが出来なかった。

 恐怖で息が乱れ、胸が震える。その様子が彼女にも伝わったのだろうか、身を乗り出して、僕に覆いかぶさるような体勢になって僕を眺め……いや、監視し始めた。

 国津さんの顔が近い。彼女の呼気を感じるような錯覚すら覚える。

(目を閉じたい! だけど……!)

 

 ――それすら、気付かれてしまうかもしれない。


眼前の恐怖から目を逸らせない。その事実に気付いてしまった僕はさらに怯えることとなってしまった。

先ほどまで話をしていた相手が怖くて怖くてしょうがない。思考がループし続ける。目を閉じたいけど閉じれない。国津さんを見たいけど見たくない。この矛盾した思考に囚われた僕は、次第に時間の感覚が麻痺していき、恐怖すら麻痺してしまい、知らず知らずのうちに眠ってしまった。



 僕が次に目を覚ましたのは昼過ぎだった。その時にも国津さんは僕の横で佇んでおり、驚く僕にいつもの調子で「熱を測りましょう」と口にした。

 昨夜のことについて問うと、

 「鈴井さんが就寝したのを確認したあと、休憩と仮眠を取りました」

 と、事も無げに言って体温計を差し出してきた。混乱する僕は、あれよあれよと言う間に検温、食事をさせられ、昨日と同じように布団に寝かされた。

 外は明るい。その陽気と、昨日の恐怖による寝不足のためか、僕はウトウトし始めた。横の国津さんからは昨夜のような恐怖は感じられず、僕は寝入ってしまった。



 「ママー! ご本読んでー!」

 パジャマを着た男の子が病室のベッドで看護婦に絵本を差し出している。看護婦の姿はここからでは後ろ姿しか見えない。

 (あぁ……これは夢なんだ)

 僕はいま、夢を見ているらしい。それを自覚した。

 「――井くん。私は君のお母さんじゃないのよ」

 看護婦は優しい声で諭すように男の子に語りかける。男の子は『おおきなかぶ』を差し出したままで首をブンブンと振る。

 「違うよっ。ママはママだもん!」

 話を聞いているだけで何故か、もの悲しくなってしまった。男の子が居たたまれないからだ。

 「――井くんのお母さんは他にいるのよ。私は君のお母さんにはなれないの。早く病気を治して本当のお母さんに逢いに行こうね?」

 先ほどから男の子の名前がよく聞き取れない。不思議な表現だが、僕は夢に聞き耳を立てた。

 「国津さんが僕のママだもん! 本当のママなんて知らないもん!」

 ――え?

 「しょうがない子ね。じゃあ今日一日だけ私が鈴井くんのママになってあげるね?」

 ――な、に?

やったぁ、と言う男の子がやけに遠く聞こえる。あの男の子の名字が偶然、僕のものと同じだっただけだ。そう、「国津」という名字だって少し珍しいだけで、その名字の看護婦が他にいてもおかしくない。なのに、なのに僕は――

男の子は看護婦に後ろから包まれて、絵本を読んでもらっている。男の子は無邪気に笑い、看護婦も優しく微笑んでいる。その、看護婦の顔は、表情が違うだけで僕の知っている国津さんのソレだった。



目が、覚めた。汗をびっしょりと掻いていて、不快だ。見慣れたアパートの天井が目に飛び込んでくる。悪夢から目が覚めた安堵から僕は長い、長い溜息を吐いた。

 「なんだったんだ……あの夢は……?」

 目頭を押さえながら起き上がる。頬が濡れている。どうやら僕は夢を見ながら泣いていたらしい。ごしごしと頬を手の甲で擦って、浴室へと向かった。

 シャワーを浴びて汗を流した僕はお茶をペットボトルのままラッパ飲みした。そうしてやっと落ち着くことが出来た。夢は断片的にしか憶えていないが、とにかく怖かった。この恐怖だけは忘れることが出来なそうだ。

 「……ん?」

テーブルの上に見慣れぬ手帳が置いてあった。

 「こんなん、買ったっけなぁ?」

 黒い手帳を手にとって中をぱらぱらと眺める。やはり、そこに書かれていた文字は僕のものとは違かった。細い枠線の中に綺麗な字が几帳面に収められている。

 「誰のだ? これ……」

 内容は日記だった。名前は書いてなかった。それはそうだ。自分の日記に自分の名前を普通は書かないだろう。僕は、失礼ながら中身を読ませてもらった。

 「どれどれ……?」

 『私がいま受け持っている患者はひどく厄介だ。彼の話に付き合っていると私までおかしくなってしまいそうだ』

 どうやらこの日記の持ち主は医者か、それに準ずるものらしい。申し訳ないとは思うが、先が気になってしまった。

 『彼に言わせれば、全ての世界は”夢”らしい。全ては彼の”夢”の中で行われていることらしく、”夢”とは彼そのものらしい』

 どうやら狂人の話について記されているようだ。不謹慎だが興味が掻き立てられてしまった。

 『私が「では、私は何なのだ?」と問うと、彼は「僕です。先生の人生はもう体験させていただきました」と平然と返してきた。試しに私しか知りえない個人的な秘密を訊ねるとピタリと言い当てた。偶然、なのだろうか? それとも本当に彼は……』

 僕は手帳を片手に腰掛けてお茶を飲んだ。

 『次に、「これが夢ならば、夢見ている君は何処にいるんだい?」と訊ねた。彼は少し笑って、「”外”にいるんじゃあないですか? 僕自身は夢を見ていると自覚していますから何時でも起きれますし、あまり興味ないですね。それより、他の夢を見るほうが楽しいですし」と答えた。何を言っているのか分からない。結局答えになっていないではないか』

 この日記の持ち主の苦しみが分かるような気がする。答えを求めているときに、関係の無いような話をされてうやむやにされるのは、気分が悪い。

『どうやら彼には”自己”と”他者”の区別がつかなくなっているらしい。それなのに、目の前にいる彼は幻聴や妄想に苦しめられている様子は見られない。一見するといたって正常だ。もう一度質問する。「では、いまこうしている間は、君は”鈴井”くんなのだね?」』

 「……え?」

 まただ。また可笑しなことが起きている。目を離すべきなのだ、この日記から。なのに、なのに僕はこの日記に引き寄せられるように続きを読んでしまった。

 『彼は笑い転げながら答えた。何を当然のことを聞くのだ、と言わんばかりに。「えぇ、そうですね。だけど今こうしている間にも僕は他の人の夢を楽しんでいますよ。例えば――日記の前の彼になって、ね」』

 「うわぁ!!」

 僕は日記から手を離してしまった。心臓が馬鹿にうるさい。日記は床に落ち、背表紙を見せてくる。何なんだこれは? 誰かの悪戯? こんなことする友人を僕は知らない。

 吐き気がひどい。手が震える。それでも気を落ち着かせ、日記を再び手に取った。何故か、そうしなければいけないような気がしたからだ。恐る恐る続きを読む。

 『彼はまだ愉快そうに笑っている。その笑い方は完全に嘲笑だ。私には誰を嗤っているのかが分からないが……非常に不愉快だ。彼は話を続けた。「すいませんね、どうもこうにも……。先生も人が悪い、今の質問は、自己紹介で「僕は人間です! よろしくお願いします!!」と言う様なもので……僕は全てを見ているんです。それなのに先生は……ククク……」と、暫く含み笑いをしていたせいで会話が出来なかった。どうにか立ち直った彼は、「まぁ、僕は遊んでいるだけです。こうして先生と話したり、部屋に押し込まれているのも全て僕のお遊びです。”胡蝶の夢”ってあるでしょう? あれを何度も何度も繰り返して面白おかしく生きているだけなんですよ」と、大仰に言った。何が”胡蝶の夢”だ。そんなものはチラシの裏にでも書いていればいいっ』

 ここまで読んで僕は日記を閉じた。息が苦しい、膝に力が入らない。何なんだこの日記は。あんな夢を見た後のせいか、気持ちがゆらゆら分解してしまいそうだ。

 (……僕は誰なんだ?)

 そんな疑問が胸に掠めたかと思うと、吐いた。胃がひっくり返ったように消化されかかったモノたちがあふれ出す。涙と鼻水も止まらない。吐いて、吐いて、吐きつくすとそのまま汚れた布団へと沈んでしまった。



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