天使の名をもつ悪魔な弟子
日の光も届かない、鬱蒼とした木々の生い茂る森の奥深く。
ときおり不気味な獣の声が響き渡る以外は耳が痛くなるほどの静寂に包まれ、あまりの空気の濃さに息苦しささえ覚える薄闇の中。
ひときわ大きな老木があった。
樹皮の剥がれかかった幹は、まるで自らもがき苦しんだかのように曲がり、救いを求めるように天へと枝を伸ばしている。しかし折れた枝先に救いは見えず、まるで絶望の内に枯れ果てたかのような老木の側に、魔女ロミルダの家はあった。
***
ロミルダの一日は午後から始まる。
まず朝食兼昼食が済むと、弟子のミハエルが入れたお茶を飲みながら、居間に何冊も積み重ねてある魔術書を手に取る。夕食を食べ終わると再び夜遅くまで魔術書を読み解き、朝も白々しくなる頃やっとベッドに潜り込むと、昼近くまで惰眠を貪る。そしてまた朝食兼昼食を食べ、弟子のミハエルが入れたお茶を飲みながら……と、ここ何年もこのような自堕落な生活を繰り返していた。
しかし、その日は朝から(午後から)何かが違っていた。
まずお茶の味。これはてっきりミハエルが町で買い物をしたついでに、新しい茶葉を買って来たのだと思った。
そして現在。
ロミルダは自らの手足を見下ろすと、灰色の光沢ある毛並みに目を瞬いていた。
「にゃ?」
先程よりも、常識を逸脱するほどずんぐりと丸みを帯びた指に意識を向けると、半透明の鋭利な爪がにゅっとのぞく。
背後を振り返ると、すらりとした長い尻尾がゆったりと左右に揺れている。
視界も低い。見覚えのある天井がやけに高く感じる。
記憶に残るこの感覚は久しぶりであったが、ロミルダは慌てることなく周囲を見渡し、足音もなく床を駆けると、勢いをつけてトンっとチェストの上に飛び移った。
感覚は鈍っていない。どうやら間違いはなさそうだ。
そう思いながらも、ゆっくりと鏡の前に移動すると自らの姿に目を細めた。
そこにいるのは、どこからどう見ても猫であった。
長くない灰色の毛のすらりとした体つきの美人猫だ。毛並みは艶やかで、ちょっとした身体の動きによって光の加減だろうか。銀色にも輝き、緑の瞳には知性を宿している。
まだ若い。とても三百歳の猫には見えない。
だが、どこからどう見ても自分である。
通常ならきっと受け入れがたい姿であっただろうが、意外と冷静でいられたのは、稀に魔術で自らこの姿をとることがあったからだ。
それにしても。
ぴくりと耳を動かす。
今回は自らが望んでなった姿ではない。
と言うことは、おそらくこれは呪いの一種だろう。
にゃーん、と唸りつつ、これがどういう種類の呪いなのか自らの魔力を練ってみる。呪いをかけた相手に反せるものなら反してやるのだが、一度身に受けたものだ。そう簡単にはいかないだろう。
だが、しばらくして「にゃっ!?」と驚きの声を上げると、思わず両手で頭を抱えてしまった。実際には顔を洗っているような姿で。
魔力が練れない。
つまり、力を封じられてしまっている。
しかもこの呪いには見覚えのある魔力が加わっている。見覚え、というよりも知り尽くしている魔力だ。
何の冗談だ、と思っているところに、小さな音がして隣室の扉が開いた。
「ロミルダ様?」
そっと名を呼び、顔をのぞかせた青年の青い瞳がゆっくりと部屋の中をさまようと、すぐにチェストの上にいるロミルダを見つける。
視線が合うと扉を大きく開き、彼はまっすぐこちらにやってきた。
その顔に驚きはない。
『どういうつもりだ』
実際、「にゃーにゃにゃーにゃっ」というようにしか聞こえなかっただろうが、曲がりなりにも魔女の弟子だ。動物の言葉を理解することぐらい朝飯前でなくては困る。
ミハエルは綺麗な顔を緊張したように強張らせると、じっとこちらを見つめてきた。
「私が呪いをかけたことには気づいてらっしゃるのですね」
当然の質問に肯定の意味を込めて尻尾を揺らす。おそらく、あの味のおかしかったお茶に何か仕込んだのだろう。
『私がおまえの魔力に気づかぬはずがないだろう。これは何の冗談だ?』
目の端で感情の動き共に髭がピクリと動く。ここまで強力な呪いは決して冗談ではないのだろう。
鋭く見据えると、ミハエルは視線を逸らしながらも、しっかりと頷いた。
「ええ。ずっとあなたに思い知らせてやろうと思っていたのです」
物騒な物言いに、ロミルダはスッと目を細めた。
だが、内心では非常に焦っていた。思い当たる節が多すぎて。
表面上はいかにも何事でもないように冷静さを装ってじっと黙っていたが――実際にはどの件だろうとめまぐるしく考え込んでいたのだが――伸ばされてきた手に気づくのが遅れ、咄嗟に避けることが出来なかった。
「にゃっ!?」
魔力を使って逃れようと両手を正面に伸ばしたが、日頃から頼ってばかりいた魔力はあいにく封じ込められている。あっけないほど簡単に――まるで自ら抱っこをせがんだかのように――ミハエルの手に捕らえられてしまい、宙ぶらりんの手足をばたつかす。
『離さんか! というか、どうして呪いをかけたのか理由が分からない。説明しろ!』
「……本当に分からないのですか?」
少し傷ついた表情を浮かべた青年に、わずかながら罪悪感がわき、思わず手足の動きを止めていた。これでもミハエルがまだロミルダの背の半分の頃から世話をしているのだ。多少の情と言うものはある。
『……実を言うと思い当たることが多すぎて、どれだか分からん』
後ろめたく思いつつも正直に告げると、ミハエルはそんなことだろうと思いました、と言い深々と溜息をついた。
どうやらお見通しだったらしい。
それなのにロミルダを腕に丁寧に抱え直すと、先程までロミルダが座っていた椅子に腰を下ろした。
ミハエルに膝の上に下ろされたロミルダは、不安定な場所に爪を出さないよう苦労しながら座り直すと弟子を見上げる。すると、逆に弟子の青い瞳が見下ろしてくる。それが心もち冷たいと思ってしまったのはロミルダの気のせいだろうか。
「では、あなたが思いついたものを言ってみて下さい」
まるで立場逆転な弟子の質問に、それでもロミルダは律儀にも「にゃぁ」と鳴いた。
『ん? う~ん、そうだな。まずはアレじゃないのか?』
そう言って、過去を遡り一つ一つ、これはどうだ? と尋ねることにした。
ミハエルをこの森で見つけた時、最初はミイラが落ちているのかと思った。
ミイラは不老長寿の薬にもなると言われている貴重な薬材だ。まさか行商人が落として行ったのか、と思いつつ、うきうきしながら近づくと、それは痩せ細った鶏がらのような身体にずたぼろの衣服を身につけた子供だった。足は裸足で、その上ほとんど意識もない状態。
薬材でない死体に用は無い。
本当は放置していても良かったのだが、死体の片付けのことを思うと憂鬱になり、それならば怪我を治してやってさっさと森から追い出そうと考え直した。
だが看病してやった間、ミハエルは何を考えていたのか、怪我が治ると弟子にしてくれと言ってきたのだ。
最初は断ったが、あまりのしつこさ……いや、熱意に負け、自ら逃げ出すような嫌な仕事をわざと押しつけたものだ。
とは言っても、あからさまに嫌がらせをするのもどうかと思い、取りあえず薬の材料集めからさせることにした。
魔女の薬材とは世に言うゲテモノばかりだ。
とかげの尻尾やゴキブリの翅、果てはムカデの足、そう言えばミミズを一晩で百匹集めてこいというのも言ったことがある。絶壁の岩場にしか生えない苔を取って来いというのもあった。人間を好んで食べるという人魚が住む湖にしか生えない水草を取りに行かせたこともあった気がする。
部屋の片付けも苦手で料理もしないロミルダに、いつの間にかミハエルは家の事を言わなくてもやるようになっていた。薬の材料もいつの間にか揃っている。そこまでされては、さすがに魔術の方も教えないわけにはいかなかった。しかもミハエルには魔術の素質もあったようで、教えることをどんどん吸収していって最早教えることなどなくなり、立派な魔術師に育ったというのに。
話しながらどんどん愚痴っぽくなっていく。
こんな立派な弟子に育ってくれて師匠として嬉しく思う反面、立派になりすぎて立つ瀬がないではないか。その上、なぜか弟子に恨まれて呪いまでかけられるなど。
ぐちぐちと思う存分話し終えると、思いのほか心の中がすっきりした。
だからロミルダが話す間中、黙って優しい手つきで背中を撫でていたミハエルを振り仰ぐと、率直に疑問をぶつけていた。
『で、結局何が不満なんだ?』
そう言うことなのだろう。
何か不満があるから――まあ、弟子に呪いをかけられる師匠というのも問題はあるのだろうが――こんなことをしてしまったのだろう。追い詰めた原因は、師匠であるロミルダにあるのだ。責任をもって解決してやるつもりは、まあ――ある。
「私の不満が何かも分からないのに……まして、魔力も封じてあるのに解決できるのですか?」
どこか挑発的な台詞に、じろりと弟子を睨みつける。
馬鹿にするな。確かに師匠としては至らないところもあるが、弟子のことは分かっているつもりだ。
ミハエルは何事においても用意周到なところがある。ロミルダを猫にしたのも、何か思惑があってのことだろう。魔力を封じた、ということは魔女の力を必要としないのだ。
そこまで考えてハタと気づく。
『おまえは猫が飼いたかったのか?』
まさかと思いつつ尋ねた。
このような奥深い森には危険がたくさんある。普通の猫は一度迷子になってしまったら帰ってこられないだろう。だからなのか……。そう言えば昔、猫になったロミルダを妙に賞賛していた事を思い出す。
しかし。
「――ちなみにロミルダ様にかけた呪いですが、一日一度、人の姿に戻ろうと思ったら戻れますよ?」
もちろん私はいつでもあなたを人間に戻せますけど、と厭味ったらしく付け加えてくる。
思わずムッとして、その場で元の姿に戻ってやる。当然、そこはミハエルの膝の上で、遠慮なくどしりと座ってやった。
「さっさと言え! 馬鹿者が!」
胸倉をつかみ上げ睨みつけると、わずかに顔を赤くしたミハエルが視線をすいっと横に逸らした。
「ロミルダ様。この体勢はちょっと……」
「なんだ、文句があるのか?」
「いえ。ありません」
むしろ光栄ですと呟かれ、ミハエルの考えがますます分からなくなる。
「で? どうしてこのような呪いを私にかけたんだ? さっさと解け!」
服をつかんだまま軽く揺さぶる。
人間に戻れたのはいいが、魔力の方はからっきし駄目だった。これは呪いを解かなければ魔力は戻りそうにない。
「本当に思いつかないのですか?」
胸倉をつかむロミルダの手をそっと押さえ、ミハエルは寂しそうに首を傾げた。その青い瞳が、まっすぐにロミルダの瞳をのぞきこむ。澄んだ瞳が何を訴えているのか、彼の瞳の中に写った自身の顔は情けないことに完全に旗色が悪く、理解出来ていないことをさらしている。
その上、ロミルダを写した瞳の持ち主にまで完全に悟られてしまった。
……そんな捨て犬のような瞳をされると、何か悪いことをしたような気分になるではないか。
「う……す、すまん。本当に分からん」
どうやら猫を飼いたいと言うのも違ったらしい。
うなだれるロミルダの頬に躊躇いがちに手を伸ばしたミハエルは、頬にかかる灰色の髪を耳にかける。
「先日、あなたはもう独り立ちをしろと言いました」
「ああ、言ったな」
言いながら、まだ記憶に新しい出来事を思い出す。
もう教えることは何もない。おまえならどこに行ってもやっていけるだろうと確かに言った。
「私はあなたの側にずっといたいのです」
「だがそれだと弟子のままだぞ?」
「構いません」
きっぱりと言い切ったミハエルに首を傾げる。
側にいたいのならば、なぜ呪いをかける必要があるのだろう。
「では、そう言えば良かったではないか」
「それは……そうなのですが。弟子でいいのですが、弟子では嫌なのです」
「なんだ、それは」
わけが分からず眉間に皺を寄せる。
するとミハエルは、色々と諦めたように話しだした。
「……実は、この呪いをかける為にどうするのが一番いいのか考えたのです」
ミハエルが話しだした内容に、ロミルダは師匠として、そしてこの呪いを解く手がかりがあるかもしれないと密かに期待しながら耳を傾けた。
彼が言うことには、まず魔力を封じるだけにしようと思ったらしい。しかしそれだと普通の人間として過ごすだけで、ロミルダはミハエルの手を必要としない。
ロミルダとしては魔力がないからこそ、家事をしてくれる者が必要だったのだが、ミハエルはそう思わなかったようだ。
続けてミハエルは、ロミルダにもっと自分を必要として欲しかったので、ロミルダの偽りの姿で彼の最も好きな猫の姿にしたのだと言った。猫の姿だと、ご飯を作ることもできないでしょう、と。
微妙にずれているその発想をどう受け止めていいものか、しばし悩む。
「もっとこき使って欲しかったのか?」
つまり遠まわしに、弟子である以上もっと仕事をするから追い出さないで欲しいと言っているのだろうか。
だが、そう言う意味で必要とされたいなら馬鹿げたことだ。ロミルダは十分この弟子には満足しているのだから。
「いえ、そうではありません。……つまり、あなたに今まで以上に私という存在を必要として欲しかったのです」
「今まで以上?」
思わず、うーん、と考え込んでしまった。
独り立ちしろと言ったが、あれは言った後、実は後悔したのだ。ロミルダの生活に、ミハエルはあまりにも深く係わり過ぎている。喉が渇いたと思うと飲みものが出てくるし、ほんの少しの間うたた寝をしただけでも気づいたら上着がかけてある。
そんな至れり尽くせりで気が回る者は、ミハエルぐらいのものだろう。他に代わりはいない。
実際、今以上に必要としろと言われても困るのだ。
ロミルダは自らの出した結論に納得して顔を上げると、フッと笑う。目の前にいるミハエルと目が合うと、一瞬、青い瞳の中に期待が覗く。
そう、これは、可愛い弟子を思いやってのことなのだ。
だから、きっぱりと辞退の言葉を口にする。
「いや、それは遠慮するぞ」
当然のように告げると、ミハエルの瞳がなぜだか暗い色を帯びた。
「どうしてですか?」
「私は今のままで十分だぞ?」
これ以上、弟子に迷惑をかけるつもりはない。一応、これでも気兼ねはしているのだ。
しかし、ミハエルはゆっくりと頭を横に振った。
「……私はそのようなことを言っているのではありません。ただ――」
そう言って、ロミルダの両頬を押さえると正面から瞳を覗き込む。
「ただ――あなたの全てが欲しいのです。食べてしまいたいほどに……」
告げられた内容を、再び頭の中で吟味する。
「食べると呪いが解ける前に死んでしまうぞ?」
「その食べるではありませんが……まあそうですね。そういう呪いがお好みなら、かけ直すのもやぶさかではありません」
にこりと笑って告げられ、その笑みに寒気を感じて首に手をやる。
何か違ったのか?
ロミルダは再び考え込む。
食べたい、と言うのは額面どおりの意味ではないのか。確かに食べたければ猫ではなく、鶏とか豚にする方が確実に美味しいだろう。
結局、ミハエルは何が言いたいのだ?
そう思いながらも頬に添えられた手がやけに熱くてロミルダの思考の邪魔をする。
だが、その熱が何かをロミルダに訴えかける。
それが頭に一つの答えを浮かび上がらす。
いや、まさか、と思いつつ。
目の前の男をそっと窺い、その瞳の中に見つけた欲情に、血の気が失せる。
まさか、食べるというのは――。
ロミルダは知らないうちに、なんだか非常に苦手な方向に話が進んでいたことに気づく。
しかもこの体勢はなんだ。これはかなりマズイのではないだろうか。
落ち着きなく視線をさまよわすと、取りあえず逃げることにする。
ポンっと猫の姿に戻り、素早くミハエルの膝の上から飛び降りた。
だがすぐに気づく。この部屋の扉は内開き。つまり把手を回し、その上引かなければ開くことはできない。
しかもその把手は現在はるか上方……。
確かミハエルは人の姿に戻れるのは一日一回と言っていたではないか。先程本日分は消費した。つまり……。
ゆっくりと近づく影に、ひやりとしたものが背筋を駆けのぼる。
総毛立つとはまさにこのこと。
その後、ロミルダが白旗を上げることとなったのは、悪魔な弟子が囁いた、たった一言だったとか――。
――どうせ食べられてしまうなら、今だろうと先だろうと一緒でしょう?
よくある設定、よくある展開、よくある結末。
取りあえず無難に書いてみました。……まぁ、短編の練習だと思ってやって下さい。
ちなみにミハエルの名前はミカエルのドイツ語名です。タイトルにしておきながら作中では触れなかった……。
気が向くと続きを書くかもしれません……。