ホラーの館 其の壱
季節は滞りなく巡っていた。人生もゲームのように単調に続いていた。
でも私がそんな毎日に退屈して、何か特別な事を望みさえしなければ、少なくとも短調で平和な毎日が続いていたのだろう。
*
その日私は肌に刺さるような日差しの下、走っていた。
社会に出てから3年ほど、私はただのOLとして働いていた。同僚も親切で皆優しい。時々口を挟んで来るような上司を除けば確かに楽しいと言える職場だろう。
しかし今日は寝坊してしまった。会社には自転車で通っているのだが、近所の悪戯っ子たちのせいでタイヤがパンクしていた。車など買う余裕はない。運動も兼ねて毎日自転車で通勤していたのだ。
ここの会社は制服なしだ。費用削減でもあり、窮屈な思いをなるべくさせないようにするためだ。そんな会社の利点が、今日みたいな日である。私は人の目をあまり気にしない性格だし、私が他社に出向くようなことはないので、今日は運動靴で出勤。走りやすくて笑ってしまう。いっそ毎日運動靴で出勤してしまおうか。なんて、さすがにそれはないかな。
朝から大汗などかきたくもなかったが、そればかりは仕方がない。自分が悪いのだから。とは言っても、この暑さでは外に出ただけで汗をかくだろう。
「お、遅れてすみません!お早うございます」
こんな時でもちゃっかり着替えてから職場に出向いた。汗だくでは気持ちが悪い。口うるさい上司に説教されてから、私は持ち場についた。
そんな忙しかった朝から夕方まで時間がたつと、仕事はお仕舞い。帰り際に缶コーヒーでも飲もうかと一つ下の階の4階の、窓の横にある自販機に寄った。
ここからは町の景色がよく見える。ホッと一息つきながらソファに座って町を眺めていると、ふと柳の木に目が止まった。大きく立派で風流がある。見取れながら缶コーヒーを飲み終わると、ゴミ箱に捨てて帰るべくエレベーターに乗った。今日も退屈だったなぁ、と思い、何か変わったことがないかなぁなどと思って。
1階につき、降りようと思ったらバッグのキーホルダーが取れてしまったのでそれをとろうとしゃがんだ。キーホルダーを手に取ると、ふと視線の先に細く青白い裸足が見えた。暑いからってそれはないんじゃないの?と思い、今度はきちんと立ち上がろうと足に力を入れたが、思わず固まってしまった。片足を膝につけた状態で前を向いたら、誰もいなかったからである。見間違えと思い込み、立ち上がろうとした瞬間、エレベーターの扉が閉まってきて、首を挟んでしまった。物凄く驚いたが、エレベーターはまた自動で開いた。これはたまたまエレベーターに乗っている時間が長かったから偶然だ、と思い、そそくさと会社を後にした。
足早に家へ帰るが、赤信号ばかりに出くわし中々帰れない。赤ばかりが目に止まり、今思えば私にストップをかけているようだった。
私は待ちきれずに近道を取った。信号は一切ない広い公園の横道だ。通ったことはないが、家までの方向が合っていればこちらの方が近いだろう。しかし横道を出た瞬間、私は絶句した。公園を出たところにはさっき会社で見ていた柳の木があったからだ。
まだ暑く明るいが、風流のあると思っていた大きな柳の木は、ただ薄気み悪いようにしか見えなかった。なるべく見ないように下を向いて小走りに走って行く。しかし私の足はピタリと止まった。あの裸足の足が見えたからだ。その足の主の声が聞こえた。
「・・・あなた、名前は?」
低く冷たく、しかし美しく澄んだ女性の声だった。夏場だと言うのになんだこの寒さは・・・。そんなことを思いながら、答えるべきかどうかを決め兼ねていた。するとまた声がした。
「・・・あなた、名前は?」
逃げようにも硬直してしまって動けない。私は恐る恐る視線を上げた。またふっと消えているかも知れない。そんな淡い期待を・・・いや、強い願望を抱いて。腹辺りまで視線を上げたが、全く消える気配はない。私は視線を上げるのをストップした。するとまた声が聞こえた。
「名前、ないの?」
少し怒りが感じられる声色だった。
「名が無いことは存在も無いと同じこと・・・。あなた、死人になりたいの?」
これに限ってはすぐさま首を横に振った。
「名乗らぬならば・・・その口要らぬのだな?」
古風な話し方。・・・いや、そもそも現代人ではないのだろう。もうこれは、‘幽霊’と言うものなのだろう。
私は何をされるか怖かったため、恐る恐る口を開いた。
「・・林・・・恭子・・・です」
名乗ると女性は歓喜に満ちた声で笑った。私は気がどうにかなってしまいそうだった。
「良い・・・!恭子・・・!」
そう何度も繰り返す女性に、意を決して逃げ出そうと足に力を入れた。何も見えないようにギュッと硬く目を閉じて。しかし女性を抜かした瞬間、耳が破れるぼどの怒声が背中を刺し、反射的に止まってしまった。もう呼吸は早く、涙が出そうでパニック寸前だった。
「待てどこへ行く?目を開き私を見よ!」
パニック寸前の頭では言われた事をやるしかなかった。怖くて怖くてどうしようもないが、それでも恐る恐る振り返り、声の主を見た。瞬間、再び絶句した。
「お前が今日から『柳』となれ」
乱れた長い黒髪に白装束を身に纏い、血が滴った真っ赤な手をこちらに伸ばして血走った赤い目をいっぱいに開き、口からは血を垂らして歩いて来た。恭子はもう悲鳴を上げることしかできなくなっていた。腰が抜け、足には力が入らず、地面にヘタレ込んでいた。
迫りくる赤い手から逃れる術はなく、ニヤリと笑う女にとうとう気を失った――――・・・。
*
「ねぇ知ってる?あの柳の木の噂」
夕方、オフィスの4階の窓から2人の女性社員がソファに座り、1人が話を切り出した。
「なんか昔ね、『恭子』って女の人があそこで殺されちゃって、それ以来『恭子』って名前の人がそこ通ると行方不明になっちゃうんだって。かと思ったら出てきて、性格が変わっちゃうらしいよ?」
缶コーヒーを片手に話すOL。
「それただ私の名前が『恭子』だからからかってるだけでしょ。悪趣味ね」
「違うよーマジだってばー。でも、名前を聞かれた時に『恭子』ってな乗らなければいいんじゃないの?」
「そもそも近づかなければいい話じゃない」
「まぁそうだね」
飲み終わった缶コーヒーをゴミ箱に入れ、エレベーターへと向かった。
――――END―――