春の終わり、駅前の光
四月の終わりだった。
風はまだ冷たさを残しているのに、街の色だけが先に春を終えようとしていた。
夕方、駅前のロータリーは、どこか浮ついた空気に包まれている。新しいスーツに身を固めた新社会人たちが、少しだけぎこちない足取りで改札を抜けていく。その流れの中に、私はいつもと同じように紛れていた。
同じ時間、同じ電車。変わらない日々。
ただ一つ違うのは、彼がいるかどうか、それだけだった。
彼と初めて言葉を交わしたのは、三週間前の雨の日だった。
その日は珍しく遅れていた電車が、さらに遅延を重ね、ホームは人で溢れていた。傘の先から滴る水が、足元に小さな水たまりを作る。湿った空気の中で、私は吊り革に掴まりながら、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
そのとき、不意に声をかけられた。
「すみません、これ……」
振り向くと、見知らぬ男性が私の定期券を差し出していた。いつの間にか落としていたらしい。
「あ、ありがとうございます」
受け取ると、彼は少しだけ照れたように笑った。
「気づかない人、多いんですよね。僕もよくやります」
それだけのやりとりだった。名前も知らないまま、彼は次の駅で降りていった。
ただ、それだけのことなのに、なぜか記憶に残った。
それから数日後、また同じ時間の電車で彼を見かけた。
今度は向こうが先に気づいた。
「あ、この前の」
軽く会釈をする彼に、私も小さく頭を下げた。
「ありがとうございました、あのときは」
「いえ、たまたまです」
それだけで会話は終わるはずだった。けれど、その日はなぜか少しだけ話が続いた。
どこに通っているのか。仕事は何をしているのか。
当たり障りのない、どこにでもある会話。
けれど、それが不思議と心地よかった。
彼の名前は、田島といった。
それから、会えば言葉を交わすようになった。
毎日ではない。けれど、週に三度ほど、同じ車両で顔を合わせる。
会話はいつも短い。電車が目的地に着くまでの、ほんの数分。
それでも、その数分が、私の一日の中で少しだけ特別なものになっていった。
ある日、駅前のベンチで彼を見かけた。
電車を降りたあと、改札を抜けた先。人の流れから少し外れた場所にある、小さなベンチ。
彼はそこに座り、缶コーヒーを手にしていた。
「珍しいですね」
声をかけると、彼は驚いたように顔を上げた。
「あ、どうも。今日はちょっと早く終わって」
隣に座るか迷ったが、彼が少しだけスペースを空けてくれたので、私はそのまま腰を下ろした。
夕焼けがビルの隙間から差し込んで、駅前の喧騒を柔らかく包んでいる。
「仕事、大変ですか」
何気なく尋ねると、彼は少し考えてから答えた。
「まあ、それなりに。慣れないことばかりで」
「同じですね」
私もまだ新しい職場に慣れきれず、毎日が手探りだった。
「でも」
彼は続けた。
「こうやって帰りに少しだけ休むと、なんとか明日もやれそうな気がするんです」
その言葉に、私は少しだけ救われた気がした。
自分だけじゃないのだと、思えたからだ。
それから、私たちはときどき駅前で話すようになった。
特別な約束はない。
ただ、どちらかが早く帰れた日、たまたま同じ時間に駅に着いたときだけ。
缶コーヒーやコンビニのパンを手に、他愛のない話をする。
それだけなのに、不思議と満たされていた。
ある日、彼はぽつりと言った。
「最初に会った日、覚えてますか」
「雨の日ですよね」
「そうです。あの日、実は結構落ち込んでて」
彼は苦笑いを浮かべた。
「仕事でミスして、怒られて。もう辞めようかなって、ちょっと思ってたんです」
私は何も言えず、ただ彼の言葉を聞いていた。
「でも、定期券を拾ったとき、あなたがすごく安心した顔をして」
彼は少しだけ遠くを見るように言った。
「それ見て、なんか、まあいいかって思えたんです」
その言葉は、予想外だった。
救われていたのは、自分だけではなかった。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「大げさですよ」
そう言いながらも、どこか嬉しかった。
「大げさじゃないです」
彼は静かに首を振った。
「だから、こうやって話せるの、ありがたいなって思ってます」
その瞬間、夕焼けが一段と濃くなった気がした。
春の終わりの、少しだけ寂しい光。
それから数日後、私は彼を見かけなくなった。
一日、二日、三日。
同じ時間の電車に乗っても、彼の姿はない。
忙しいだけだろうと最初は思っていた。
けれど、一週間が過ぎても会えないと、さすがに不安になった。
連絡先は知らない。
名前しか知らない関係。
それが急に、もどかしく感じられた。
駅前のベンチに座ってみる。
けれど、彼が現れることはなかった。
夕焼けだけが、変わらずそこにあった。
もう会えないのかもしれない。
そう思い始めたころだった。
「久しぶりですね」
背後から声がした。
振り向くと、彼が立っていた。
少しだけ疲れた顔をしているけれど、あのときと同じように、穏やかに笑っていた。
「どうしたんですか、急にいなくなって」
思わず強い口調になってしまう。
彼は少し申し訳なさそうに笑った。
「異動になったんです」
「え」
「来週から、別の支店に行くことになって」
言葉が、うまく出てこなかった。
あまりにも急で、現実味がなかった。
「だから、今日が最後で」
彼の言葉が、ゆっくりと胸に落ちてくる。
最後。
その一言が、やけに重く響いた。
「……そうですか」
それしか言えなかった。
もっと何か、言いたいはずなのに。
彼は少し間を置いてから、続けた。
「本当は、ちゃんと伝えようと思ってたんですけど、なかなかタイミングがなくて」
夕焼けが、また色を変えていく。
春が終わる色だった。
「短い間でしたけど」
彼はゆっくりと言った。
「楽しかったです」
その言葉を聞いたとき、胸の奥で何かがほどけた。
ああ、終わるのだと、ようやく理解した。
「私も」
声が少し震えた。
「楽しかったです」
それ以上の言葉が、見つからなかった。
沈黙が落ちる。
人の流れだけが、変わらず続いている。
やがて彼は、ポケットから何かを取り出した。
「これ、もしよかったら」
差し出されたのは、小さな紙だった。
そこには、電話番号と名前が書かれていた。
「無理にとは言いません。でも」
彼は少しだけ照れたように笑った。
「また、話せたら嬉しいです」
私はその紙を受け取った。
指先が、わずかに触れる。
その瞬間、何かが確かに始まった気がした。
終わりではなく、続きがあるのだと。
「はい」
私は頷いた。
「連絡します」
彼は安心したように微笑んだ。
「じゃあ」
そう言って、彼は歩き出した。
人混みの中に、ゆっくりと消えていく。
その背中を見送りながら、私は思った。
春は終わる。
けれど、その先にも、きっと季節は続いていく。
手の中の小さな紙を、そっと握りしめる。
夕焼けは、いつの間にか夜に変わり始めていた。
駅前の光が、一つ、また一つと灯る。
その中で私は、静かに立っていた。
これから始まるものを、確かに感じながら。




