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春の終わり、駅前の光

作者: antild
掲載日:2026/03/18

 四月の終わりだった。

 風はまだ冷たさを残しているのに、街の色だけが先に春を終えようとしていた。


 夕方、駅前のロータリーは、どこか浮ついた空気に包まれている。新しいスーツに身を固めた新社会人たちが、少しだけぎこちない足取りで改札を抜けていく。その流れの中に、私はいつもと同じように紛れていた。


 同じ時間、同じ電車。変わらない日々。

 ただ一つ違うのは、彼がいるかどうか、それだけだった。


 彼と初めて言葉を交わしたのは、三週間前の雨の日だった。


 その日は珍しく遅れていた電車が、さらに遅延を重ね、ホームは人で溢れていた。傘の先から滴る水が、足元に小さな水たまりを作る。湿った空気の中で、私は吊り革に掴まりながら、ただ時間が過ぎるのを待っていた。


 そのとき、不意に声をかけられた。


「すみません、これ……」


 振り向くと、見知らぬ男性が私の定期券を差し出していた。いつの間にか落としていたらしい。


「あ、ありがとうございます」


 受け取ると、彼は少しだけ照れたように笑った。


「気づかない人、多いんですよね。僕もよくやります」


 それだけのやりとりだった。名前も知らないまま、彼は次の駅で降りていった。


 ただ、それだけのことなのに、なぜか記憶に残った。


 それから数日後、また同じ時間の電車で彼を見かけた。

 今度は向こうが先に気づいた。


「あ、この前の」


 軽く会釈をする彼に、私も小さく頭を下げた。


「ありがとうございました、あのときは」


「いえ、たまたまです」


 それだけで会話は終わるはずだった。けれど、その日はなぜか少しだけ話が続いた。


 どこに通っているのか。仕事は何をしているのか。

 当たり障りのない、どこにでもある会話。


 けれど、それが不思議と心地よかった。


 彼の名前は、田島といった。


 それから、会えば言葉を交わすようになった。

 毎日ではない。けれど、週に三度ほど、同じ車両で顔を合わせる。


 会話はいつも短い。電車が目的地に着くまでの、ほんの数分。

 それでも、その数分が、私の一日の中で少しだけ特別なものになっていった。


 ある日、駅前のベンチで彼を見かけた。


 電車を降りたあと、改札を抜けた先。人の流れから少し外れた場所にある、小さなベンチ。


 彼はそこに座り、缶コーヒーを手にしていた。


「珍しいですね」


 声をかけると、彼は驚いたように顔を上げた。


「あ、どうも。今日はちょっと早く終わって」


 隣に座るか迷ったが、彼が少しだけスペースを空けてくれたので、私はそのまま腰を下ろした。


 夕焼けがビルの隙間から差し込んで、駅前の喧騒を柔らかく包んでいる。


「仕事、大変ですか」


 何気なく尋ねると、彼は少し考えてから答えた。


「まあ、それなりに。慣れないことばかりで」


「同じですね」


 私もまだ新しい職場に慣れきれず、毎日が手探りだった。


「でも」


 彼は続けた。


「こうやって帰りに少しだけ休むと、なんとか明日もやれそうな気がするんです」


 その言葉に、私は少しだけ救われた気がした。


 自分だけじゃないのだと、思えたからだ。


 それから、私たちはときどき駅前で話すようになった。


 特別な約束はない。

 ただ、どちらかが早く帰れた日、たまたま同じ時間に駅に着いたときだけ。


 缶コーヒーやコンビニのパンを手に、他愛のない話をする。


 それだけなのに、不思議と満たされていた。


 ある日、彼はぽつりと言った。


「最初に会った日、覚えてますか」


「雨の日ですよね」


「そうです。あの日、実は結構落ち込んでて」


 彼は苦笑いを浮かべた。


「仕事でミスして、怒られて。もう辞めようかなって、ちょっと思ってたんです」


 私は何も言えず、ただ彼の言葉を聞いていた。


「でも、定期券を拾ったとき、あなたがすごく安心した顔をして」


 彼は少しだけ遠くを見るように言った。


「それ見て、なんか、まあいいかって思えたんです」


 その言葉は、予想外だった。


 救われていたのは、自分だけではなかった。


 胸の奥が、じんわりと温かくなる。


「大げさですよ」


 そう言いながらも、どこか嬉しかった。


「大げさじゃないです」


 彼は静かに首を振った。


「だから、こうやって話せるの、ありがたいなって思ってます」


 その瞬間、夕焼けが一段と濃くなった気がした。


 春の終わりの、少しだけ寂しい光。


 それから数日後、私は彼を見かけなくなった。


 一日、二日、三日。

 同じ時間の電車に乗っても、彼の姿はない。


 忙しいだけだろうと最初は思っていた。

 けれど、一週間が過ぎても会えないと、さすがに不安になった。


 連絡先は知らない。

 名前しか知らない関係。


 それが急に、もどかしく感じられた。


 駅前のベンチに座ってみる。

 けれど、彼が現れることはなかった。


 夕焼けだけが、変わらずそこにあった。


 もう会えないのかもしれない。

 そう思い始めたころだった。


「久しぶりですね」


 背後から声がした。


 振り向くと、彼が立っていた。


 少しだけ疲れた顔をしているけれど、あのときと同じように、穏やかに笑っていた。


「どうしたんですか、急にいなくなって」


 思わず強い口調になってしまう。


 彼は少し申し訳なさそうに笑った。


「異動になったんです」


「え」


「来週から、別の支店に行くことになって」


 言葉が、うまく出てこなかった。


 あまりにも急で、現実味がなかった。


「だから、今日が最後で」


 彼の言葉が、ゆっくりと胸に落ちてくる。


 最後。


 その一言が、やけに重く響いた。


「……そうですか」


 それしか言えなかった。


 もっと何か、言いたいはずなのに。


 彼は少し間を置いてから、続けた。


「本当は、ちゃんと伝えようと思ってたんですけど、なかなかタイミングがなくて」


 夕焼けが、また色を変えていく。


 春が終わる色だった。


「短い間でしたけど」


 彼はゆっくりと言った。


「楽しかったです」


 その言葉を聞いたとき、胸の奥で何かがほどけた。


 ああ、終わるのだと、ようやく理解した。


「私も」


 声が少し震えた。


「楽しかったです」


 それ以上の言葉が、見つからなかった。


 沈黙が落ちる。


 人の流れだけが、変わらず続いている。


 やがて彼は、ポケットから何かを取り出した。


「これ、もしよかったら」


 差し出されたのは、小さな紙だった。


 そこには、電話番号と名前が書かれていた。


「無理にとは言いません。でも」


 彼は少しだけ照れたように笑った。


「また、話せたら嬉しいです」


 私はその紙を受け取った。


 指先が、わずかに触れる。


 その瞬間、何かが確かに始まった気がした。


 終わりではなく、続きがあるのだと。


「はい」


 私は頷いた。


「連絡します」


 彼は安心したように微笑んだ。


「じゃあ」


 そう言って、彼は歩き出した。


 人混みの中に、ゆっくりと消えていく。


 その背中を見送りながら、私は思った。


 春は終わる。

 けれど、その先にも、きっと季節は続いていく。


 手の中の小さな紙を、そっと握りしめる。


 夕焼けは、いつの間にか夜に変わり始めていた。


 駅前の光が、一つ、また一つと灯る。


 その中で私は、静かに立っていた。


 これから始まるものを、確かに感じながら。

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