【短編小説】計算
それは大いなる解放であった。
おれは一畳にも満たないその小さな空間で天を仰ぎ、全ての生命に感謝をした。
おれたち労働者のひとりひとりに存在意義があり、表情がある。その労働の意味、生活の匂い、繰り返される営み。
衣食住の密度、生と死の倫理、しあわせの音色。夢と正気の境界、忘れた物語と記憶の最果て。
その一番手前にある昨夜の食事がおれの大腸を通過して飛び出た。
おれはその日、べたべたするつり革を握りしめながら電車に乗っていた。
四方から押し寄せる不快と苛立ちが背骨を上下して脂汗を滲ませる。その脂汗が強めの暖房に乾かされていく。
会社まで間に合うか微妙な感じがしていたが、おれは先月の給与明細を思い出した。
そうだ。おれは会社で排便をして給与を貰っているのだ。
ならば通勤にも時給が発生するべきなんじゃないか?
怒りで歯を食い縛るおれを満員の通勤電車が揺さぶった。憎しみにもにた通勤の苦痛が連休明けの大腸を叩く。
綺麗な便所で排便したい。
駅やコンビニのトイレは厭だ。そもそも汚いのもあるが、汚いまま個室を出るとおれが汚したと思われるのが耐えられない。
そうなると掃除が始まってしまう。
無償で?
馬鹿馬鹿しい。
それならおれは出社して、給与を発生させながら排便をしたい。それなら排便に気苦労のある同僚がいたもしても、清掃行為に給与が発生する。
電車がホームに入線する。
ホームには大きなリュックサックを背負った小学生たちが並んでいた。
修学旅行だろうか。林間学校かも知れない。
おれがあの子供たちくらいの年頃、学校はおろか修学旅行などの宿泊先で排便するのがたまらなく厭だった。
余裕の無い予定に遅れてしまう気がしたし、集団の中で唯一と言っていいほど独りきりの瞬間が怖かった。
だからおれは3日ほど排便をしなかった。
家に帰るまでは。
いまおれは大人になり、逆に家で排便ができなくなった。
家賃を払って排便をしている事実を受け止められないのだ。給与をもらって排便している事実に勝てないのだ。
おれは連休に突入するや否や家での排便を我慢した。連休中は食事量を計算して胃腸への蓄積を図った。
ここまでして便所を使わないのだから家賃を下げろと大家に要求しようとすら思った。
全ては会社で給与をもらって排便するためだ。そのためならどんな苦痛にも耐える。
革靴がアスファルトを叩く。
便意が肛門を叩く。
入館ゲートが電子音で開く。
括約筋肉が油断を始める。
タイムカードの打刻音が鳴る。
計算が始まる。
鍵を閉める。
腹の中で、何かが崩れて落ちた。




